「聖断」  読書感想2 | 魁!神社旅日記

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昭和6年3月、陸軍中央によるクーデター計画「3月事件」が発覚。

 

このことは天皇には報告されなかったが、別経由で情報を知った昭和天皇は

 

南陸相に「軍紀を厳守するようにせねばならない」と注意するものの

 

陸相は「その点は十分に戒心いたします」とのみ応えてとぼけた。

 

そのうえ陸相は若槻首相が3月事件について抗議するとまさに逆ギレし、

 

「若い将校がそんなことを考えるのも、もとをただせば、政党や財閥が勝手なふるまいをして、国民民福

 

を真剣に考えないからである。軍紀をとやかく言う前に、政治家自身がもっと反省すべきなのである」

 

とのたまわった。

 

昭和6年夏ごろから、陸軍と国家主義者により暴戻(ぼうれい)支那キャンペーンが行われ、

 

それに呼応するかのように「中村震太郎大尉殺害事件」や「万宝山事件」が起きた。

 

昭和天皇は9月11日、南陸相に

 

「万宝山事件といい、中村大尉事件といい、まことに困ったことではあるけれども、

 

これにはいろいろと複雑な事情もあろう。よくそれを糾明してかからねばならぬ。

 

すべて非は彼にありというような態度で臨んでは円満な解決もできないことになる」

 

「いつかもいったとおり、軍紀は厳重に守るようにせねばならぬ。明治天皇の創設された

 

軍隊に間違いがあっては、自分としては申し訳がない」と注意した。

 

しかし、関東軍は天皇のこのような意思をふみにじって「満州事変」を決行した(18日)。

 

翌19日、若槻内閣は臨時閣議にて「戦局をこれ以上拡大せず、わが軍優勢を持したときに

 

打ち切る」ことを決定し、天皇に報告した。

 

昭和天皇も「首相のいうとおり、中国側が満鉄を爆破して、その現場におもむいた日本兵に

 

発砲して挑戦した、というのであれば、防衛上衝突もやむをなかったであろうが、

 

閣議で決定したとおり事態を拡大させず、局地解決するように努力せよ」と答えた。

 

しかし、関東軍が閣議決定も天皇の意向も無視して事件を拡大させた。

 

はじめから「南満州に新政権樹立が第一だ」(建川作戦部長)だったからだ。

 

そうのえ、関東軍からの要請で朝鮮軍の林銃十郎中将は独断で越境して満州に進行した。

 

翌日、内閣はやむなく追認し、天皇にサインを迫った。

 

昭和天皇は金谷参謀総長に対し

 

「私は天皇大権を行使するについては薄氷をわたるほど慎重に考えている。

 

にもかかわらず、おまえたち軍部が平然と大権をもてあそんでいるではないか。そんな書類に

 

印をおすことはできない」と告げた。

 

金谷参謀総長は

 

「お言葉を返すようで恐れ入りますが、それでは罪もない幾万の兵隊をいたずらに苦しめる

 

だけでございます。ご裁可がなければ、経費を支出するわけにはまいりません。

 

これから寒さにむかいます満州の広野で、兵隊たちはどうなりますのでしょうか」

 

と答えた。天皇はしかたなく

 

「今度だけであるぞ。今後はよく慎むように。そして早く収拾するように」と答えたという。

 

 

この頃またも陸軍中堅将校および民間右翼によるクーデター計画「十月事件」が計画されていた。

 

この計画には天皇側近の西園寺公、牧野伯、鈴木侍従長、一木宮内大臣の暗殺も入っていた。

 

「天皇が戦争に不拡大なのは天皇が不明なのではなく、天皇の側近が天皇の明を曇らせているからである」

 

という勝手な解釈、のちのいわゆる「君側の奸」論である。