「聖断」  読書感想1 | 魁!神社旅日記

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この本は終戦の決断をし、それを実現した昭和天皇と鈴木貫太郎の人生を記した本である。

 

鈴木貫太郎は日清・日露の戦役を海軍軍人として現場で戦った。

 

栄光の明治時代を経て、大正時代となる。

 

大正10年11月 皇太子廸宮(昭和天皇)、二十歳にして摂政宮となる。

 

大正15年12月25日大正天皇崩御、その日に昭和と改元され、「昭和」時代が始まる。

 

昭和二年には金融恐慌と元陸軍大将田中儀一内閣による中国内戦への介入

 

(第一次、第二次山東出兵)が起きた。

 

若き昭和天皇は田中首相と鈴木壮六参謀総長の求める裁可の署名に、

 

「これでいいのか・・・いいのか・・・本当に、いいのか・・・」とつぶやいていたという

 
(侍従武官長 奈良武次証言)
 
蒋介石軍が北上すると、田中内閣は済南に兵を進め戦闘を発生させ、世界を驚かせた。
 
さらに6月4日には関東軍の謀略による張作霖爆殺事件が発生。
 
天皇は奈良侍従武官長を通じ、田中首相に関東軍の関与を問いただしたが、
 
田中首相は否定した。
 
昭4年1月、鈴木貫太郎は海軍を離れ、見込まれて天皇の侍従長となる。
 
1月25日、衆議院にて中野正剛代議士らにより「満州某重大事件」が追及される。
 
天皇も憂慮。
 
田中首相は「調査中」の一点張りで逃げた。
 
このころ事件の首謀者は関東軍参謀河本大作大佐であることはあきらかになってきていた。
 
しかし、関東軍、陸軍中堅将校らは、陸軍中央をつきあげ、河本大佐をかばい事件をごまかそうとした。
 
それを陸軍OBである田中儀一首相は認めてしまい、天皇うその報告をしたうえに、関係者は
 
厳重に処罰するとその場を取り繕う約束をした。(6月27日)
 
しかし、翌28日、陸軍大臣が内奏で関係者の軽い処分を報告すると昭和天皇は激怒した。
 
これによって昭和天皇の信任を失った田中儀一は7月2日総辞職した。
 
これに関して元老西園寺公望は牧野内大臣を通して、若き昭和天皇に対し
 
「天皇は直接に自己の意見を表明すべきではない」との苦言を呈した。
 
昭和4年8月1日、侍従武官に阿南惟幾(これちか)中佐が着任。(大分県出身、陸軍士官学校第18期)
 
昭和5年、ロンドン軍縮会議をきっかけに海軍軍令部部長・加藤寛治、次長・末次信正らは内閣および
 
海軍省の方針を押し切って強硬論を強硬に展開。世論工作や裏工作まで行った。
 
その結果が第58特別議会における野党政友会・犬養毅、鳩山一郎らが持ち出した
 
「統帥権干犯」問題である。
 
怪文書がまかれ、加藤軍令部長は政府を弾劾する上奏文を奏上し、天皇に直接辞表を出した。
 
9月10日には日本国民党が「亡国的海軍条約を葬れ」とし、決死隊を組織し、政府要人の暗殺を
 
画策して集結した。
 
本文では触れられていないが、浜口雄幸首相は昭和5年11月14日に東京駅でロンドン海軍軍縮条約に
 
反対する右翼青年に狙撃され、そのうえ野党・政友会が傷を負ったままの浜口首相を無理やり
 
国会に引きずり出したために、それがもとで亡くなってしまいました。
 
ただし、浜口雄幸率いる民政党の緊縮財政はこの時、失敗していたという歴史評価もあります。