白山信仰の各拠点、すなわち加賀(現石川県)の白山比咩神社、
越前(現福井県)の平泉寺白山神社、
そして、美濃(現岐阜県)の長滝白山神社がそれぞれ各地の白山信仰の拠点を形成してきており
明治以降は明治政府が「延喜式神名帳」を根拠に白山比咩神社を白山神社の総本社に
定めた。明治以前は江戸幕府が白山山頂の祭祀権利は平泉寺にあると裁定し、
平泉寺を「白山別当神主」に任じていた。
それ以前はというと、平安時代から鎌倉時代にかけては
この美濃馬場、長滝寺および白山中居神社が白山信仰の中でも
中心的な存在であったようです。
それは篤く白山を信仰していたという奥州藤原氏の藤原秀衡が、白山中居神社に
虚空蔵菩薩坐像(現太子堂鎮座)を寄進し、息子の泰衡が長滝寺に梵鐘(明治時代に焼失)
を寄進した事実からも推測できます。
(ついでながら下の江戸時代の絵図によると現在の長滝白山神社は明治時代の神仏分離が
あったにもかかわらず、当時の形態をそのまま残しているようで神仏習合・混交の様子を
今に伝える貴重な遺産であるといえます。)
また白山中居神社には他の社寺には見られない独自の神話体系が伝えられており、
このことから石徹白・白山中居神社は白山信仰の原点である神社の可能性が高いと
言えます。
であるからこそ、白山中居神社の神領である石徹白(いとしろ)村は神の村として
特別な扱いを受けてきたものと推測されます。
白山信仰の中でも石徹白、白山中居神社はかなり重要な地区、神社であるといえます。