今年の訃報補遺。
10月6日、フランス文学研究家篠沢秀夫氏死去。
84歳。8年前からALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹患していた。一般には『巨泉のクイズダービー』の“教授”として知られ、一般常識クイズでトンチンカンな回答をし、外れても全く気にせず、
「ウヮッハッハ」
と大笑するのが、いかにも一般人とは違うご身分の方、という感じで、お茶の間に人気だったが、所詮はテレビ文化人のひとりでしかないだろう、という認識だった。
それをくつがえすきっかけになったのが、開高健、谷沢永一、向井敏の鼎談書評集『書斎のポ・ト・フ』(1981、潮出版)である。その中で開高らが絶賛していたのが『篠沢フランス文学講義』(1979、大修館書店)であり、「大学における講義の最高傑作」とまでいう評価(確か向井敏によるもの)を受けていた。
フランス文学に特に興味を持っていたわけではなかった(と、いうか、以前出会った仏文関係者たちのせいでちょっと偏見も持っていた)が、ともかくも買って読んでみる気になったのは、たまたま私の従兄弟が学習院大学で彼の講義を受けていたからであり、ちょっと興味を持ったからであった。
一読して驚いたのは、それまでの、フランス文学関係者にある“気取り”が一切なく、もっと凄いことには「フランスをありがたがるな」と説いていたことだった。
「おフランスではこうなんざんすよ」
と、イヤミの口調で、フランスかぶれの文化人を揶揄し、
「フランスにだって田舎者はいるし、馬鹿もいる」
という至極当然のことを言っていた。いや、1970年代には、まだ、共産中国かぶれと同様に、フランスかぶれの文化人が日本には数多く、何かことあるごとにフランスを中心としたヨーロッパを賛美し、日本は劣っている、と、自分が日本人であることも忘れたように侮蔑の言葉を投げかけていたものである(どうかすると今でもいたりする)。
これに触発されて、他のエッセイ集にも目を通してみた。そこで印象的だったのは、当時、恥ずかしい日本人の代表のように言われていた、農協の海外旅行を絶賛していたことだ。レストランでスープを音を立ててすすったり、ホテルのロビーで酒盛りをしていたりという行為は、長谷川町子のマンガや、筒井康隆のSF『農協月へ行く』でも揶揄されていたが、篠沢教授はこれを、
「確固たる自分たちの文化を持っており、海外へ行ったからといって気後れして、無理に向こうの習慣に合わせるなどということをしない、真の日本人がやっと生まれた」
と大きく認めていた。
「真の国際人とは、相手にへりくだってスリ寄ろうとしない人間である」
というその思想の表明に、ああ、この人をして真の“フランスかぶれ”と呼ぶべきだな、と思った。言うまでもなくフランス人は世界のどこに言っても(国際語とされている英語を使わず)母国のフランス語で押し通し、他の国を徹底して田舎者扱いする。あのミシュランガイドにしたって、フランス人の舌で世界各国の料理に☆の格付けをしようなど、傍若無人もはなはだしいではないか。
そのフランス人的特質を心底から受け継ぎ、周囲が、世間が何と言おうと自分の考えは絶対に曲げず押し通し、情や雰囲気に左右されない、という頑固さは見上げたものがあった。『クイズダービー』後に、テレビのニュースショーのコメンテーターとしてあちこちに出演していたとき、新宿駅の浮浪者問題を取り上げたことがあった。浮浪者たちのダンボールハウスを区が次々に撤去している様子を報道した映像に、同じコメンテーターの森公美子が
「かわいそう。あんなに無下に排除しなくたって、他にやりようがあると思う」
と、いかにも日本人的な意見を述べたのに対し、教授はニベもなく
「まだ完全じゃない。もっと徹底的に撤去すべきだ」
と主張、森が「そんな、ひどいです! あの人たちが何、迷惑かけているんですか!」と抗議するのに、表情ひとつ変えず
「新宿の地下商店街で商売している人たちにとって、あれはあきらかな営業妨害です。公共の場の景観を阻害することはれっきとした法律違反だ。取り締まられて当然です」
と主張し、まったく歯牙にもかけなかった。その、あまりにフランス的な思考形式に、ははあ、あの陽気な教授にはこういう一面もあるのだな、と、非常に興味深く見たことを覚えている。
そのフランスで交通事故で最初の妻を亡くし、一粒種だった息子も14歳で水難事故で死亡。ふつうの日本人なら人生を呪うところを、強く生き、自らもALSとなったが、執筆活動はそのような状況の中でも続けていた。ここらへんの強さも、あまりにフランス的と言えよう。
ご冥福をお祈りしたい。