日本オペラ協会公演『ミスター・シンデレラ』於新国立劇場 | カラサワの演劇ブログ

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日本オペラ協会公演『ミスター・シンデレラ』於新国立劇場

 

司会者「日本に西洋のオペラを紹介・定着させることを目的とする『藤原歌劇団』と、日本独自のオペラを創作し広めていくことを目的とする『日本オペラ協会』が1981年(昭和56年)に合併統合して『日本オペラ振興会』が誕生、『日本オペラ協会』は創立者の大賀寛が59年間にわたって総監督を務めてきましたが今年の7月に死去。今回は二代目総監督の郡愛子による初めての作品となります。新機軸を打ち出そうという意欲のあらわれでしょうか、オペラというよりはブロードウェイの粋な大人のミュージカル、といったムードの作品ですね。

2001年に鹿児島で初演された作品で、ミジンコの研究をしている農業大学の研究者の正男と、同じ大学の研究員ながら上昇志向の強い薫の夫婦の倦怠期から話が始まります。薫は地味で気の弱い正男に不満を持ち、典型的な昔気質の鹿児島人である正男の両親が、男尊女卑の考えを夫婦に押し付けようとするのもストレスでした。薫は大学に新たに赴任してきた蜂の研究の権威で、プレイボーイとしても有名な垣内教授に男性としての魅力を感じていて、正男はそのことへのいらだちと、ミジンコへの愛情との板挟みになっています。

ある朝、正男は大学に出かける前に、冷蔵庫の中にあった瓶の中の液体を栄養ドリンクだと思って飲んでしまいます。……ところが、それは薫が垣内教授から預かり、製薬会社に届けるように言われていた蜂の性ホルモンでした。正男の身体には異変が起こり、グラマーで色っぽい、赤毛の美女に変身してしまいます。しかも、大胆で強い性格は正男と正反対。正男は驚愕し、とまどいますが、やがて男性に戻ります。どうも、潮の満ち干とホルモンの効能の間には関係があり、満潮時には男、干潮時になると女に変身するらしい。男女の正男は、互いに“相手”に惹かれるものを感じます。そして、この状況を解決する方法を正男は思いつきます。それは、美女になっている間に垣内教授を色仕掛けで誘い、ホテルのベッドに誘い込む。そこをわざと薫に目撃させる。薫は垣内教授に失望して正男のもとに帰るでしょうし、垣内教授のスキャンダルの現場を押えれば、彼に強要して、蜂ホルモンの効果を打ち消し、男に戻るクスリを作ってもらえるかもしれない。一石二鳥とばかり、女性になった正男は垣内教授の就任パーティの席に現れ、彼を口説きます。計画は的中して、海辺のホテルに垣内は誘われてきますが、そこに、正男の両親までもがやってきて、彼が女になっていたことが薫はじめみんなにバレてしまいます……」

 

LGBT研究者「こういうトランスジェンダーものの舞台というのは1973年のフランスのジャン・ポワレによる『ラ・カージュ・オ・フォール』が嚆矢かな。映画化されて(1978『Mr.レディMr.マダム」)世界的にヒットし、舞台が日本でも上演された。それ以降このテーマの作品は硬軟さまざまなタイプが作られてきたが、ミュージカルでなくオペラで、このようなテーマをコメディとして描く作品が出てきたのは素晴らしい。ことに初演が2001年。日本のゲイリブ運動もまだ端緒についたばかりの時期で、しかも鹿児島という、話の中にも出てくるがマッチョな土地柄の場所でこういう作品が産声をあげたというのは大いに意義あることだ」

 

オペラファン「いや、あまりLGBTと結びつけてこの作品を観ることには賛成できません。時代の状況として、背景とはなっていても、あくまでこの作品の真髄は粋なオトナの恋のかけひき、そして夫婦愛ということにあるわけで。それに男女入れ替わりのテーマだったら、1980年代のコミック・アニメ作品である『らんま1/2』の影響の方が大きいんじゃないかな」

 

腐女子「女になった正男が垣内をベッドに誘い、深夜12時の満潮時に男に戻る(つまりその時には男×男で抱き合ってる)、という設定にはBL的発想が絶対あるわ。1990年代末のBLブームの影響もきちんと語っておいてね」

 

オペラファン「背景の詮索はそれくらいにしておこう。作品として観た場合、やはりオペラとしては異色中の異色作と言える。男女のセックスを大胆に取り入れた艶笑喜劇の形を取りながら、曲はどれもオーケストラの演奏をバックにした本格的なものだ。ロッシーニやモーツァルトのパロディもふんだんな他、鹿児島の民謡である小原節なども取り入れられて、西洋音楽と日本古典芸能との融合をはかる日本オペラの伝統もちゃんと守りつつ、大胆な現代的テーマを取り入れているところなど、見事だよ」

 

演劇学校の生徒「舞台上部にサブステージを設けて、遠景とか心象風景とかを表す工夫は小劇場から取り入れてますね。それから桟敷席で出演者に歌わせたり。オペラでこういうことやるとは思わなくって新鮮でした」

 

犬好き「マルチーズのぬいぐるみの耳がちゃんと動くのが可愛かった! あと、主人公が炊飯器を犬に見立てて、蓋を開け閉めするたびに“ワン”って効果音で入るのが面白すぎ。オペラでこんなに面白いなんて」

 

オペラ初心者「でも、ここまで現代劇としてアレンジしちゃうと、オペラなんだかミュージカルなんだかわからなくなるのも事実よ。パンフレットで作曲の伊藤康英氏が“オペラとミュージカルとは異なるもので、これはオペラだ”と言っているけど、正直よくわからなかった」

 

一児の父「そうそう、女優陣が下着になったり入浴シーンがあったり、大変色っぽいのは結構だけど、ここまで崩すとミュージカルと言った方がいいんじゃないか、と思ったな。オペラと聞いて情操教育に子供を連れてこようと思ったけど、やめて正解だった。あ、女房もね。楠野麻衣の恰好に鼻の下を伸ばしているのを見られたら……(笑)」

 

音楽学校の先生「……定義的には、クラシック的な曲を用いた作品がオペラ、ポップスを歌うのがミュージカルと区別されています。あと、オペラは基本、生の演奏がつき、生声で歌う。ミュージカルは大抵マイクを通しますね」

 

演劇学校の先生「……演劇的に言うと、“芝居のセリフの一部が歌になっている”のはオペラで、“歌と芝居、それにダンスなどが渾然一体になっているもの”がミュージカルです。オペラはもともと、ストーリィ性がある歌の補助説明的に芝居がくっついた感が強い。ミュージカルは最初から歌、芝居、踊りの三要素のバランスを考慮して作られていますね。オペラは歌曲中心なので、そこらへん、ストーリィの整合性などはやや、犠牲にされる傾向にある」

 

コメディファン「だからなのかな。コメディ劇としちゃ、ずいぶん中途半端、というかもったいない、と思える場面が多かった。まず、最初に正男が女性への変身をするシーンだが、あそこですぐ女になってしまっては“変身”の過程が観客にじゅうぶんに伝わらない。まず声を吹替えで変えて、正男本人に“アレ?”と思わせ、「ダメだ」というセリフを「ダメよ」と言わせるとか、驚いたときの発声が「いやーん!」だとかという“女性化”を順次見せていけばきちんと笑いが取れる。せっかく同じ研究室の研究員である卓也と美穂子という“驚き役”がいるのに、まったくそれを活かしてないでしょう。この二人の前で、女性化していく正男をじゅうぶん見せてお客を笑わせたあとで、彼らが逃げたあと、とどめに胸がふくらんでくる、というような身体の変化を見せる、と、だんだんことが大きくなるクレシェンドがないと、観客は……ことに今回のような年配の人が多い舞台の観客には、何が起こったのか理解できない危険性がある」

 

演劇ファン「確かに観客の7割以上が年配者で、それを配慮してか、芝居が始まる前に作曲家の伊藤康英とプロデューサーの郡愛子との対談で、見所を説明する時間があって、話を頭からしまいまで説明していたのには驚きました。これがオペラ鑑賞というものか、と。「ここからはネタバレなので」とか言っていたけど、話の八割は説明してしまっていて、演劇だとちょっとこれは考えられません」

 

設定マニア「主人公の正男がミジンコの研究をしている、というのは浮世離れしているということを表す(もっともそれなら垣内教授の蜂ホルモンの研究も同じだが)他に、雌雄同体のミジンコとその研究者が同一化してしまう、という意味も含まれているだろう。そこ、まったく言及がないのが残念だった」

 

コメディ研究家「それと同じで、正男が変身した赤毛の女が大胆で気が強くて、薩摩示現流の師範である父よりも強い、というのは“女王バチ”のホルモンを飲んだせいなんだけど、それも触れてないから、ほとんどのお客にわからないでしょう。もったいなかったな」

 

設定マニア「観ていて不満だったのは、正男が飲んだのは別人に変身する魔法のクスリじゃなくて、性を女性に転換させてしまうクスリなのだから、体が女性になるのはいいとして、思考が別人格になるというのは辻褄が合わないんだよな。まあ、百歩譲ってそれはよし、千歩ゆずって赤毛になるのもよしとして、髪型(髪の長さ)がまるで違う、というのはリクツに合わない。ここらへんをオペラのファンのみなさんというのは気にしないんだろうか。コメディ演劇だったらすぐにツッコミが入りますよ」

 

オペラファン「まあ、クラシックのファンはそういうささいなことはとがめ立てしない鷹揚な方が多いですから」

 

キャラクター好き「……登場人物でいちばん設定が面白いのは垣内教授だよね。演じた森口賢二も適役だった。いちばん傑作なのは、赤毛の女にひと目惚れしてベッドでいい感じになり、すんでのところでそれが正男だとわかるんだけど、女のことが忘れられず、正男に(男に戻るのはあきらめて)女になったままで、自分と結婚してくれと頼むところで、ここはコメディ設定として傑作。キャラクターとしてもマッドサイエンティスト的に普通人とはちょっとズレている。演出がやはり平板だったのが惜しいなあ。ここは教授のキャラクターをもっともっとエキセントリックな感じでやらないと面白みが出ないですよ」

 

腐女子「そうよ、男の正男に美女の面影をみたまま口説くシーンを強調すればBLファンが黙っていないでおしかけるわ。興行的にもそうすべきよ」

 

司会者「あなた、そういう話になると取りこぼさず出てきますねえ」

 

演劇学校の生徒「演出的にいちばんよくわからないのは、ベッドの中で正男が深夜12時に男に戻る(タイトルがシンデレラなのはそこにかけてるんでしょうけど)とき、舞台に男役の中井亮一と女役の楠野麻衣が一緒に顔を出してしまっていること。これはどういう演出意図なのか(あるいはミスなんだろうか?)。もっといろいろ見せ方はあったと思うんだけど……」

 

オペラファン「この舞台の演出(松本重孝)は全てオペラという、“歌を聞かせる”ことを中心に据えているジャンルの常識で演出しているんです。一般の、小劇場演劇のコメディ演出の常識で観るのは間違ってますよ」

 

コメディ劇団主宰者「いや、形式をそういうオフブロードウェイの舞台から借りて作ったオペラなのですから、小劇場演劇の演出も踏襲してもらわないと。第一、両立は決して不可能じゃない、と観て思った。大いに笑わせて、そして聞かせてというダブルの楽しさを両立させれば、海外にもっていくことだって不可能じゃない作品です。観ていて、「ああ、芝居部分だけ俺に演出まかせてくれないかな」と熱烈に思いました」正男の両親なんか、話を必ずややこしくするいいキャラで、演じた泉良平ときのしたひろこも達者でしたからね。あの二人をもっと狂言回し的に使えばよかったのに」

 

オペラファン「そういう意味では課題も与えてくれる作品だと思います。さっき話に出た冒頭の伊藤康英の解説の中で、「19世紀にはオペラはもっと娯楽性の強い(観客主体の)ものだった。20世紀に入って、作者の思想を中心に取り入れるようになって、観客との距離が出来てしまい、その間にミュージカルや映画、テレビという、より観客のニーズに合わせたジャンルが登場して、オペラは取り残されてしまった。この作品はそれを復活させようとする試みの一環だ」という意味のことを話しておられたのは素晴らしいことだと思います。もっと他分野の人の視点や才能を取り入れて、楽しいオペラを復興させてもらいたいですね。その刺激としてはじゅうぶんなものを受け取りましたよ」

 

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