清水『日本思想全史』 | 宇宙とブラックホールのQ&A

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2019年6月6日にYahoo!ブログから引っ越してきました。よろしくお願いします。

 書評です。

 清水 正之 著 『日本思想全史』 筑摩書房 ちくま新書1099 464頁 2014年11月発行 本体価格¥1,100(税込¥1,210)

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068040/

 

 清水正之(まさゆき)さんは1947年生まれなので、今年73歳。

 専門は倫理学・日本倫理思想史。

 三重大学教授、東京理科大教授、聖学院大学教授を経て、現在、聖学院大学学長、学校法人聖学院理事長。

 聖学院はミッションスクールで、人文系・福祉系の学部が中心であるため、学生は女子が多数のようです。

 

 本書は、清水さんの以前の著書である放送大学のテキスト『日本の思想』(2008)がもとになっているとのことです。

 

 本書を取り上げた理由ですが、

 今年に入ってから末木文美士さんの日本思想史、宗教史の新書・文庫本を3冊読み、いずれも本ブログの書評で取り上げました。

 しかし、末木さん以外の観点からの日本思想史も読んで比較してみたいと考えていたところ、やはり新書である本書を見つけてすぐに購入した次第です。

 

 外形的比較では、末木さんの『日本思想史』(岩波新書)が276頁なのに対して、本書は464頁と新書としては異例の厚さであり、読むのに時間がかかりました。

 その分、原典からの引用が豊富です。

 (末木さんの方は、『日本の思想をよむ』(角川ソフィア文庫)が思想史ブックガイドとして原典を取り上げており、補完的になっています。)

 

 本書表紙の折り返しでは、次のように謳っています。

 >神話時代から現代までの各時代の思想に、外部的視点からの解釈を押し通すのではなく、内在的視点をもって丹念に光を当てる。一人の思想家による、初めての本格通史。

 

 本書の発行が2014年、末木さんの『日本思想史』が今年2020年という時間的順序になります。

 

 目次は次の通り。

 第1章~第5章については各章に含まれる節の数を示し、それ以外については、ページ数を示します。

  はじめに           8頁

  第1章 古代     7節

  第2章 中世     5節

  第3章 近世     9節

  第4章 近代    10節

  第5章 現代     3節

  おわりに―二階建ての哲学   4頁

  あとがき           3頁

  参照文献           3頁

  日本思想史を学ぶための文献  7頁

  日本思想史年表        9頁

  事項索引          15頁

  人名索引           8頁

 

 本書での古代、中世、近世、近代、現代という時代区分は、日本史の通常のものとほぼ同様です。

 

 

 「はじめに」では、次のように述べています。

 >日本における思想的作品は、(k:西洋哲学的意味での)哲学にふさわしいものもあれば、もちろん詩や文学のかたちをとる表現、あるいは歴史的叙述なども対象となる。そうした多様なジャンルに通有する広い意味での人間観、世界観を対象とすることで、ようやく姿を見せるものだということになる。

 

 >思想史とは、古来のテキストの読み直しの歴史を意識手に見直すことによって可能となる。・・・ 日本の思想は繰り返しの想起と反復でもある。

 

 >本書は全史と称するが、古代に起きたものが一貫して日本に流れ、日本的なるものが根底にあるという視点に立っていない。日本思想の個性ということは言いうると考えるが、多様性を一つに統括できるわけではない。

 

 本書の関心は、異文化・異なる思想伝統の選択的受容と深化の堆積という問題だと、清水さんはいいます。

 そして、選択・受容の局面における比較的視点ないし相対主義的視点の把持が特徴だとして、次のような例を列挙しています。

 ・仏教受容時に天皇が「試みに祀る」ことを蘇我氏に命じたこと(『日本書紀』)

 ・空海の『三教指帰(さんごうしいき)』における仏儒道という三教の比較

 ・法然が自力と他力の信仰を比較して後者(浄土信仰)を「選択(せんちゃく)」したこと

 ・慈円の『愚管抄』における天竺(インド)、中国の歴史との対照的叙述

 ・仏者であった藤原惺窩、林羅山が仏教・キリシタンとの思想的対峙を通して朱子学を「選択」したこと

 ・国学では、契沖、本居宣長、平田篤胤(詳細略)

 ・近代では例を多くあげることができるとしつつ、具体名はなし(k:中江兆民の『三酔人経綸問答』などは典型的な例かと)

 

 

 「第1章 古代」は、全7節からなります。

 「第1節 日本という境界」では、日本列島の自然史、考古学的知見、中国の史書に現れた日本が紹介され、本論より前の、前提となる知識の整理となっています。

 

 第2節以降では、記紀神話、『万葉集』、仏教の受容と深化、王朝文化などが取り上げられています。

 記紀や万葉集は、日本思想史における「繰り返しの想起と反復」の対象なので、重視されます。

 また、独立の節として「5 聖徳太子の伝説」が立てられている点が注目されます。

 

 神道関連では、律令にも規定されている「六月晦大祓(みなつきつごもりのおほはらへ)」という国家祭祀の祝詞(のりと)が取り上げられます。

 六月晦大祓では、罪を「天(あま)つ罪」と「国つ罪」に分けて、前者に水田・水路の破壊などの集団的秩序の妨害、後者に殺人、近親相姦、残虐行為を挙げています。

 自然災害や病気も、国つ罪です。

 そして、それらの罪、穢(けがれ)、災いは、国家的行事としての祓えによって元に戻るとされます(『延喜式』)。

 やはり仏教の罪とはだいぶ違うことが分かりますね。

 

 

 「第2章 中世」は、全5節からなります。

 歴史物語、『愚管抄』と『平家物語』、『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』、浄土教と鎌倉仏教、芸道論と室町文化となっています。

 

 末木さんの本と比べると、歴史物語と歴史書の比重が高く、仏教自体の比重が低いことが目につきます。

 また、中世神道は、伊勢神道が『神皇正統記』の節で触れられている程度です。

 

 

 「第3章 近世」は、全9節からなります。

 うち儒教思想関連が4節と丁寧に取り上げており、その前にキリシタンがあり、その後に武士道+近世仏教、国学、町人・農民の思想、蘭学と幕末の諸思想が続きます。

 

 江戸時代の儒教思想家は、名前だけたくさん知っていてもそれぞれがどう違うのか分からなかったので勉強になります。

 

 

 「第4章 近代」は、全10節からなります。

 明治啓蒙思想、『明六社』同人、自由民権運動、国民道徳論とキリスト教、社会主義の思想、内面への沈潜(k:文学者の思想)、大正デモクラシー、昭和の超国家主義と戦時下の思想、近代日本の哲学、近代の日本思想史研究と哲学という順序です。

 

 中江兆民の「日本に哲学なし」という言葉をみるのは、末木さんの本と『世界哲学史』に次いで、今年3度目です。

 

 私が知らなかった人物を一人だけ紹介しておきます。

 明六社同人の一人で、「国民道徳論」の運動により日本の文教政策に大きな影響力を与えた思想家として、西村茂樹(1828~1902)がいます。

 彼は、『日本道徳論』(1886年講演)において、明治初期の道徳的思想的状況をどう把握し、そこから近代の歩みの方向の構図をどう描くかを示しました。

 西村は、「道徳を説く」教えを世教(せきょう)と世外教(せがいきょう)の二つに分類し、世教(k:世俗道徳)には中国の儒教と欧州の哲学が、世外教(k:宗教)にはインドの仏教と西洋のキリスト教が当たるとします。

 明治維新以降の日本は、儒学の廃棄により道徳の根拠を失ったが、

 (ちなみに、西村は、新渡戸稲造と異なり、武士道にはほとんど意味を見出していません。)

 「国の風俗人心を維持する」には「道徳」が必要であるとし、その道徳としては世教である儒教と哲学に共通するエッセンスを採用すべきだとして、世外教を退けます。

 清水さんは、西村の構想が「政治的な近代日本の思想的体制の表現であり、広く近代の支配的世界観につながっていく」、また一方で、超越的なものを括弧に入れた世俗化(徳川時代に続く2度目の世俗化)であり、儒教的啓蒙主義からの反宗教であると評価しています。

 西村は、また、神道を宗教の埒外に置く神道非宗教説を唱えました。

 明治初年と末年の2回行われた神社合祀は、各地の神社をその祭神・由来を無視して統合縮小した政策であり、世俗化の流れの中で起こった問題ですが、特に2回目は南方熊楠らが反対運動を起こしました。

 

 西村が一翼を担った「国民道徳論」の最大公約数は、国家を家族と見なし、忠孝を徳目とするというものです。

 国民道徳論は、『教育勅語』(1890)以後、多くの論者が登場し、より一層盛んになりますが、その風潮と最も対立したのはキリスト教であり、端的な表れが内村鑑三の不敬事件(1891)とそれを受けた「教育と宗教の衝突論争」です。

 

 社会に影響のある思想を先にしているので、講壇哲学は後回し(第9節)になっています。

 ただ、「第8節 戦時下の思想」には京都学派の哲学者たちが参加した「近代の超克」座談会が含まれるので、第8節と第9節を逆にした方がよかったと思います。

 西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」は相変わらず理解できませんが、和辻哲郎は昔、著書を読んで分かりやすかったという記憶を思い出しました。

 西田哲学を理解できないのは、決して私の頭が悪いためだけではないと思います(^^;

 

 第10節の「近代の日本思想史研究」は、本書の先行研究として位置づけられます。

 

 

 「第5章 現代」は、3節しかありません。

 現代については、本格的に取り上げるとそれだけで1冊分になってしまうでしょうから、短く済ませているわけです。

 第1、2節で取り上げているのは、人名でいうと、丸山真男、森有正、竹内好、吉本隆明、鶴見俊介らです。

 第3節では最近の動向として応用倫理学(生命倫理学など)に注目しています。

 

 

 「おわりに」では、1936年に東北大学に招かれ1941年に離日したユダヤ系ドイツ人哲学者カール・レーヴィットの、いわゆる「二階建て」の議論を紹介しています。

 日本がヨーロッパから受容したのはヨーロッパの物質文明(近代産業および技術、資本主義、民法、軍隊の機構等、それに科学的研究方法)だけであり、「人間の本当の生活、物の感じ方および考え方、風習、物の評価の仕方」は従来のままである、といいます。

 日本の哲学徒は勤勉だが、二階建ての家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐に通したように並べてあって、ヨーロッパ人の教師(k:レーヴィット)は二階と階下を往き来する梯子はどこにあるのかと疑問に思う、本当のところ、かれらはあるがままの自分を愛している、というのです。

 レーヴィットは、哲学っていうのはそういうものじゃない、自愛を否定するところから始まるものだ、と言いたいわけですね。

 清水さんは、一階から二階への梯子を、哲学がその生成期から本来的にもっていた臨場性あるいは現場性であるとし、日本思想史研究はそれをつくるのに寄与しうる、と述べています。

 

 

 本書全体としては、末木さんの本と比べて、やはり宗教関係の比重が小さいといえます。

 その代わりに、和歌、物語、芸能という文化的な思想の比重がやや大きいです。

 仏教が専門の末木さんと倫理が専門の清水さんの違いでしょう。

 

 末木さんの提唱する大伝統・中伝統・小伝統という捉え方については、本書にそれを否定する材料は特にないと思いますが、そこからこぼれ落ちてしまう部分(文化的な思想の一部)はあるように感じました。

 末木さんの『日本思想史』と合わせて読めば、新書2冊で日本の思想の通史をマスターしたといってよいでしょう。