『ヨハネス・ケプラー』1 | 宇宙とブラックホールのQ&A

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2019年6月6日にYahoo!ブログから引っ越してきました。よろしくお願いします。

また長い書評です(^^; 最近書評が書き溜まっているので。
アーサー・ケストラー著、小尾 信彌、木村 博 訳 『ヨハネス・ケプラー』 筑摩書房 ちくま学芸文庫 421頁 2008年7月発行 本体価格\1,500(税込\1,575)
筑摩書房 ヨハネス・ケプラー ─近代宇宙観の夜明け / アーサー・ケストラー 著, 小尾 信彌 著, 木村 博 著 (chikumashobo.co.jp)


著者のアーサー・ケストラー(1905-1983)はハンガリー生まれで国際的に活躍した作家、ジャーナリスト、科学哲学者。
スペイン内戦時の命がけの取材体験を綴った『スペインの遺書』、スターリニズムの非人道性を小説化した『真昼の暗黒』などで有名です。
科学哲学では『機械の中の幽霊』、『偶然の本質』などの著作があり、いずれも同じちくま学芸文庫に収録されています。(前者は私が学生のときにゼミで読んだ記憶があります。wikiによると、士郎正宗のコミックに影響を与えているそうです(^^;)

本書の原著は、もともと1959年に刊行されたケストラーの大著『夢遊病者たち-人類の宇宙観の変遷の歴史-』の第4章『分水嶺-ケプラーの生涯と業績-』のみを取り出して、翌1960年に青少年向けの「サイエンス・スタディ・シリーズ」の一冊として出版されたものです。
当時の河出書房新社が同シリーズを「現代の科学」シリーズとして翻訳し、本書もその一環として1971年に出版されました。
今回はそれを筑摩の文庫に収録したもので、内容も「文庫版あとがき」を付け加えた以外はほとんど変わっていないようです。
全11章、400ページを超える厚さであり、古典と呼んでいいと思います。

小尾信彌(おび しんや)さんは1925年生まれの天文学者。東大から放送大学に転じて、放送大学長もされました。東大名誉教授。著書多数。
放送大学でお顔を拝見した方も多いかもしれません。
共著者の木村博さんは1937年生まれで東大物理学科卒業、というだけしか分かりません。

原題が分かりづらいのですが、まず「夢遊病者たち」(The Sleepwalkers)というのは次のような意味です。
著者によれば、物理学においてさまざまな大発見がなされた過程を検討すると、「発見者の多くは、発見された事実を正しく使っている場合でさえ、ちょうど夢遊病者が眠りながら行う行為と同じように、それを真に認識してはいない」ということです(p.163)。
次に、「分水嶺」(The Watershed)というのは、「天才ケプラーが歴史における一つの峰-知性の分水嶺、すなわち古代・中世の思考を近代の観測科学の精神から分かつ点-をまたいで立っている」という意味です。

ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、南西ドイツのヴァイルという町に生まれました。
第1章では、まずケプラーの家族、本人の性格、青年時代の友人関係等々が語られます。
暗い話ばかりで気が滅入りますが、実際は本人がいうほどひどくはなかったのかもしれません。
一言でまとめると、ケプラーは「不和な家庭に育った貧乏人」でした。

ケプラーは23歳でグラーツの大学の数学・天文学の教授に就任し同時に州数学官という肩書も得ます。
本人の説明によれば授業が脱線しすぎて受講する学生がいなくなってしまったそうです。
この仕事の義務として、教育以外に占星術に基づく予言暦の作成(毎年)もありました。

ケプラーは、収入のこともあり死ぬまで占星術の仕事を続けます。
彼が当時王侯貴族や一般市民の間で勝ち得た名声は、天文学だけでなく占星術によるものが大きかったのです。
後年の天文学史に残る業績を上げていた時期も、占星術の仕事に相当の時間を割いていました(含む天気予報)。
ケプラー自身が占星術をどう考えていたかというと、当時行われていた占星術の大部分はデタラメ・迷信だと思っていたようですが、天空の動きが人間の運命に影響することは信じていたようです。
現代人が遺伝子(DNA)決定論、心理学決定論を持ち出すようなときに、その代りに占星術決定論を持ち出したのだと考えれば、ある程度理解できるでしょう。
遺伝子生物学も心理学もまったく存在しない時代において、知的説明・納得の仕方として彼は占星術に頼らざるを得なかったのです。

第2章では、彼が25歳のときに書いた処女作『宇宙の神秘』(1596年、書名はいずれも非常に長いので略称で表す)が紹介されます。

この本は、当時知られていた地球を含む6つの惑星について、それらの軌道を載せた球面の間に次のように5種類の正多面体を入れると外接・内接の入れ子関係になっていることを主張します。
  水星<正8面体<金星<正20面体<地球<正12面体<火星<正4面体<木星<立方体<土星
たとえば、立方体の外接球は土星軌道を載せており、同じく内接球は木星軌道を載せています。
これによって、惑星数が6個である理由とその軌道位置の双方を説明できると考えたのです。
惑星軌道は完全な円ではないので、それを載せる球面も厚みをもつとしました。
これは、今のわれわれだけでなく晩年のケプラー自身からみてもまったくの妄想に過ぎず、近代科学の基礎を作った天才が執筆したとはとても思えません。当時の観測数値とも違っていました。
しかし、この本には天文学の観点から画期的な主張も含まれていました。
一つは、コペルニクスの地動説を公然と採用したことです。これはガリレイよりもずっと早いことを忘れてはなりません。
もう一つは、惑星の公転の物理的原因を太陽に求めたことです。
当時は惑星運動の原因を説明するという発想そのものがなかったので、衝撃的でした。

第3章では、『宇宙の神秘』の出版に至る経過、その評判、郷里の支配者ヴュルッテンブルグ公フリードリッヒに宝石と貴金属からできた宇宙模型を作らせようとしたこと、二度目の未亡人暮らしをしていた23歳の女性と結婚したこと、それまで無知だった数学をようやくちゃんと勉強し始めたこと、そして自己流の宇宙論を発展させるためにはチコ・ブラーエの詳細な観測データが必要不可欠であると悟ったことが語られます。
出版された『宇宙の神秘』の評判ですが、分水嶺の中世側にいる「反動家たち」に大歓迎され、ガリレイなどの「新思想家たち」からは拒絶されました(ガリレイは後述のように地動説のみ評価)。
ケプラーの卓越した才能を見て取ったのは唯一、当時の最も優れた天文学者チコ・ブラーエだけだったのです。

第4章は、チコ・ブラーエ(1546-1601)に当てられています。
彼はデンマークの裕福な貴族で、天文観測に情熱を注ぎました。
国王からヴェン島という島をもらいそこに要塞のように立派な天文台と住居を国費で建てさせ、20年間観測に励んで、膨大な観測データを蓄積しました。(その合間に豪勢な宴会をしょっちゅう開いていたようですが。)
また、1572年に出現した「新星」(今では超新星とされている)を主題に最初の著書を書いて、新星がアリストテレス派の宇宙論では変化があり得ないはずの恒星天で生じた現象であることを示し、さらに1577年の大彗星が月よりもずっと遠い場所にあることを示して、アリストテレス宇宙論にとどめの一撃を与えました。
チコは1599年に皇帝ルドルフ2世により帝国数学官に任ぜられます。

第5章は、チコとケプラーが出会ってからチコが死ぬまで1年半の共同研究がテーマです。
ケプラーはチコの観測データを喉の奥から手が出るほど欲していましたが、チコも無能な息子、娘婿、弟子たちに囲まれて真に才能ある後継者を必要としていました。
二人の出会いは双方ともに望んだことだったのです。(二人とも気が短くてしょっちゅう衝突していたにしろ。)
しかし、チコは生前ケプラーに気前よく観測データを提供することはなく、ケプラーはその点に相当の不満があったようです。
そのことを考えると、チコはケプラーにとって早すぎも遅すぎもしない最も適当な時期に亡くなったように思われます。
チコは亡くなる直前にケプラーに対してコペルニクスの宇宙論ではなくチコ自身の宇宙論(太陽と月は地球を回るが、6惑星は太陽の周りを回るという天動説と地動説の折衷説)を継承するように希望しますが、ケプラーがそれを受け入れることはもちろんありませんでした。
チコの死から20日も経たないうちに、ケプラーは、チコの後継の帝国数学官に任命されます。
この称号は、その名誉に本来伴うはずの報酬が実際はほとんど支払われなかったにせよ、ケプラーにヨーロッパ最高の天文学者(および占星術師)としての名声を保障します。

第6章は、ケプラーの輝かしい第1、第2法則の発表の場となった『新天文学』(1609年)を扱っており、ページ数も全章の中で最も長いです。
両法則を確認しておきましょう。
第1法則(楕円軌道の法則):諸惑星は太陽の周りを楕円軌道を描いて公転し、太陽はその焦点の一方に位置する。
第2法則(面積速度一定の法則):惑星は、それから太陽へ引いた直線が常に等しい時間に等しい面積を掃くように運動する。

ケプラーは、コペルニクス、ガリレイ、ニュートンといった他の天才たちと違い、自らが最終的な真理に到達するまでの数年間にわたる紆余曲折、悪戦苦闘の試行錯誤を感情的評価を交えてダラダラと書き綴っているので(著者はこれをバロック調と呼んでいる)、後世の科学史家がその思考過程を追うことは極めて容易になっています。
逆にそのため、現代のわれわれにとって読みやすいとはお世辞にもいえないようです。

ケプラーは、チコの助手になったときに火星の運動の研究を任されます。
火星は現代風にいうと水星を除く他の4惑星よりも離心率が大きくて、その軌道を円で近似するのは困難だったためチコグループの研究が行き詰っていて、期待の新人ケプラーに割り当てられたのです。
2つの法則は、チコの蓄積した火星運動の観測データを解析した成果です。

ここでは彼の試行錯誤の過程を逐一紹介することはやめておきますが、われわれの思い込みとは異なり、第1法則より先に第2法則を発見しています(1602年)。
第1法則については、最初は先人たちと同様に円運動を仮定し、次に卵型軌道を考え、最後にようやく楕円軌道にたどり着いています。
重力という概念についても何度か気づきそうになるのですが、結局は明確に意識できず、ニュートンを待つことになります。

第7章は、『新天文学』の出版までの困難から始まります。
この本の執筆は1605年にはおおかた終わっていたのですが、その後出版までに4年もかかったのは印刷代を払うお金がなかったのとチコの無能な娘婿たちがチコの遺産(膨大な観測データを含む)に対する権利を主張して争ったからです。
後者は、最終的に娘婿に序文を書かせるというだけで解決できました。
出版されてからの反応はというと数年間は理解者がいないという状況で、ケプラーは大仕事を完成させたこともあり、一年ほどは失意と虚脱感のうちに沈んでいました。
しかし、1610年にガリレオ・ガリレイが『星からの使者』(『星界からの報告』と訳されることも多い)を出版したというニュースが飛び込むと、ケプラーはにわかに活気付きます。

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