時間に関するいくつかのイメージ | 宇宙とブラックホールのQ&A

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2019年6月6日にYahoo!ブログから引っ越してきました。よろしくお願いします。

今回は、時間に関する議論そのものではなく、時間に関するさまざまな発想が出てくる元となるイメージについての分類を紹介したいと思います。
直接には物理、天文など自然科学とは関係ありません。

時間について考えるとき、それ自体は目に見えないので、どうしても空間と合わせて考えて、「時間経過=一種の移動」というイメージで考えることになります。
その際、近代以前の発想であれば、移動する場となるのは抽象的な空間ではなく、具体的な舞台空間であったと思われます。
また時間の客観性=間主観性を考えると、移動する主体(物理でいう観測者)も私一人ではなく、複数の関係者(登場人物たち)の共通な体験とするのが適当でしょう。
さらに登場人物たちが動くのではなく、逆に舞台の方こそが動くのだとする見方も可能です。

1.農耕民型回り舞台
これは登場人物たちは移動しないけれども、舞台の方が回って季節が移り変わっていくというイメージで、一ヵ所に定住していた農耕民がもっていたと思われます。
つまり我々は移動しないのに時間というものが向こうから次々とやってきては去っていくという時間像です。
なお、回り舞台なので時間は循環します。「季節はめぐる」

2.遊牧民型回遊
さまざまな舞台は固定されているが、その間を登場人物たちが一団となって移動して行くというイメージで、移動生活を営む遊牧民がもっていたと思われます。家畜たちもともに移動します。
つまり時間というものはすでに存在して、我々はその上を移動していくという時間像です。ただし、この場合も時間は元に戻ることができます。

3.旅行者型通過
これは登場人物たちが船に乗って川を下っていき、岸辺の景色を楽しむというイメージです。
2と似ているのですが、2の場合には同じ場所に戻ることが可能なのに対し、3ではいったん通り過ぎると二度と戻ることはできません。

こういう風に整理すると、近代以降の物理学的時間像は3に属するものであることが分かります。
ラプラス流の決定論をとれば、岸辺の景色は見ることができるけれども、予め決まっているその景色を変えることはできない、ということになります。


以上は、私が昔学んだ広松渉という哲学者の「時間論のためのメモランダ」(雑誌ユリイカ所収)という論文に書いてあったことです。
しかし、何分にも数十年前の記憶に頼っているので、ひょっとしたら全然違うかもしれません(^^;
なお、広松先生は10年以上前に亡くなっていますが、この論文は「広松渉著作集」の中に収められているようです。
(お名前は正しくは「廣松渉」です。)


★ 2006/ 4/13に時間トピにmsg798として書き込んだものです。
ひょっとすると広松先生とは無縁の私の創作になっているかもしれませんが、いまだに確認していません。