ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察 -4ページ目

ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察

幾つかの断片的なキーワードに添って20世紀に君臨した最後の巨匠の人生を考察すると共に、彼の音楽遺産を再度楽しむ

フルトヴェングラーは芸術、その中でも音楽における「ドイツ的特性」を重視し、その優位性を芸術的形姿にした。「技術的コントロール」による精神的な理解や感受の損失を堕落、頽廃とみなし否定した。カラヤンとフルトヴェングラーには確執があった。そしてその時代背景は大戦中、そして戦後の混乱の中という複雑極まるものになる。


1938年4月8日、モーツアルト交響曲第33番、ラヴェル「ダフニスとクロエ」、ブラームス交響曲第4番というプログラムでカラヤンはベルリン・フィルの指揮台に始めて登ったが、フルトヴェングラーがその死(1954年11月30日)を迎えるまでにカラヤンがベルリン・フィルを指揮したのはわずか十公演で七つのプログラムのみである。コンサートに対する反応は概ね「盛大な拍手喝采をもって」「共感に満ちたもの」となったが、このオケの偉大なる主席指揮者フルトヴェングラーはカラヤンが指揮するのを遠ざけたのである。


理由に関して心中を察するのは極めて困難であるが史実を追えば、1934年にフルトヴェングラーはヒンデミットの「画家マチス」初演を巡りナチス政権と小競り合いをし、ベルリン国立歌劇場監督、ベルリン・フィル主席指揮者、帝国音楽会議副議長等全ての要職を退いていた。そのベルリン国立歌劇場の後継がカラヤンであった。そして当時の記事によれば「奇跡のカラヤン」「われわれの偉大な五十歳台の人間が、当然疎ましく思うような仕事を、三十歳の一人がしてみせた」と呼ばれる一大センセーションをおこす。
ただしこの頃のフルトヴェングラーの政治的、音楽的地位はナチス政権ですら容易に攻撃出来ぬ程、既に確固たるもので、それは才能溢れるユダヤ系指揮者がことごとく国外に追放されていたためにより強靭なものであった。これは当時のカラヤンの地位とは天と地程も差があるが、ナチス政権及び評論家、そして国立歌劇場は「どちらが優れた指揮者か」を競い合わせ、フルトヴェングラーの偏執病を刺激した側面がある。当時をカラヤンは以下のように回想する。


「フルトヴェングラーはたいへんな戦いを強いられたし、わたしは彼の生活を困難にするために利用された。彼に対する悪質な陰謀があり、わたしは彼の敵対者たちに、若くてまだまだ使える競争相手として奉仕したのだった。これは否定できない。そして、これもまったく自明なことだが、フルトヴェングラーはそのために、わたしよりもそれははるかにひどい苦しみを受けた。彼はそれまでは押しも押されぬトップだった。そこへわたしが現れて、これがなにも失うもののない青年ときている。わたしの年齢だけが彼の癇にさわったのだ。
ただし、われわれの対立状況をきまって政治の観点から見るのは今でも間違っている。フルトヴェングラーと党のあいだに生じたいざこざは私にはなんの関係もなかった、我々の間に起きたことは、どの時代にも、どの国でも起きただろうことだ。それは二人の指揮者、一方は人生のクライマックスにいる、もう一方は弱輩として乗り込んできた、そうした二人の葛藤だった。わたしにとっては結局のところ、誰か悪質な陰謀家たちのゲームに参加するなど、真実、問題ではなかった、-私は、指揮のできるあらゆる機会を逃すまいと思ったのだ。そしてベルリンでのそうした機会の一つ一つがフルトヴェングラーを苦しませる結果となった。」


カラヤンは国立歌劇場を指揮するために自らをこのレースに委ねたが、つまるところこれは出来レースであった。ゲッベルスの日記には以下の記述がある。


「フルトヴェングラーはカラヤンについてこぼしている。カラヤンは新聞で大いにもてはやされている。止めさせねばならない。フルトヴェングラーは非常に分別のある態度をとっている。それに、結局、彼はわが国最高の指揮者なのだ。」


「フルトヴェングラーとカラヤンのいさかい。カラヤンは新聞で大騒ぎされている。フルトヴェングラーは正しい。彼はつまるところ世界的な名声を博した人物だ。これは止めさせよう。」


最終的にカラヤンは「理解などしていなくても」「フルトヴェングラーが復帰したら、裏口から」出て行かなければならなかった。


ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察

POCG-3774/9

Herbert von Karajan : Die Ersten Aufnahmen

Herbert von Karajan & Staatskapelle Berlin

カラヤン初期録音集1938-1943

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

ベルリン国立歌劇場管弦楽団、他
1938年-1943年