ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察 -3ページ目

ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察

幾つかの断片的なキーワードに添って20世紀に君臨した最後の巨匠の人生を考察すると共に、彼の音楽遺産を再度楽しむ

二人の対立は戦後も続いた。フルトヴェングラーは勿論ウィーン・フィルにも介入し、カラヤンを遠ざけるように画策した。結果的にこれはウィーン交響楽団にとって、影響力の大きい「カラヤン・チクルス」や同楽団最初の海外演奏旅行の成功等、黄金時代となったことは、またしてもフルトヴェングラーを苛立たせた。


カラヤンがフルトヴェングラーを語るときは、その人生の最後まで尊敬に満ち溢れ、多大の感慨に溢れていた。もしもこの老大家が弱輩指揮者を排除しようとしなければおそらく忠実な僕として忠誠を誓い、老大家はこれ程苦しまないでも済んだことだろう。この長く続く不毛な対立はザルツブルグ祝祭の間に二人同席の食事会という歴史的事実を生む。1947年7月12日、レコードプロデューサーのウォルター・レッグはフルトヴェングラー滞在中のホテルでの夕食の席にてカラヤン夫妻とフルトヴェングラー夫妻の和解を試みたのである。


「はじめはとてもぎこちなかった。わたしが、にっちもさっちもいかなくなったある別な指揮者のことで冗談を言ったときに、彼ははじめて高笑いをし、それで機嫌がよくなった。しかし、これで本当の会話のベースができたとはいえない。わたしはこんな話を知ったからだ。彼はザルツブルグではっきりこう言っている。『いったいカラヤンの奴、いつまでここで指揮をするのかね?』」


同席したレッグはこの時について次のように書いている。


「フルトヴェングラーとカラヤンに矛をおさめさせようとしたのだが、わたしの試みは無残な結果に終わった。宿敵同士はそれぞれの夫人をまじえ、ザルツブルグのホテルの特別室で食事をともにし、永遠の友情を誓った。翌朝早く、フルトヴェングラーは音楽祭の理事エゴン・ヒルベルトを呼び、契約書の主な条項を書きとらせた。
毎年ザルツブルグで指揮をするが、フルトヴェングラーが生きているかぎり、カラヤンをザルツブルグから閉め出すという条件がついていた。1949年に関しては、すでに契約のある二回のコンサートに限ってカラヤンの指揮は認めるという。自分がいかにだまされていたのかということにカラヤンが気づいたのは、何日もたってからだった。」


結局この闘争はフルトヴェングラーの死によって終わりを迎える。そしてこれをカラヤンは有名な電報により知る。


「王は死んだ、新王、万歳」


ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する考察

Naxos 8.110872-75

Richard Wagner:Die Meistersinger von Nurnberg

Herbert von Karajan & Orchester der Bayreuther Festspiele

ワーグナー:ニュルンベルクのマイスタージンガー

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

バイロイト祝祭管弦楽団、他
1951年7月、8月バイロイト祝祭劇場