前回の続きです。
EFTをする前の私には
- 部屋をサロン仕様にすることを想像する度に「やりたくない」と思う
- ぼんやりとした重苦しさ
- 無気力感
- 悲観
- 抵抗
- そこにあった過去や思い出を動かす怖さ
などがあったと書きました。
つまり、私の感覚は、自分の意志に沿ってアイホージュを立ち上げることに反対していたのです。
なぜなら、私の感覚は、小さい頃に、血が引けるような感覚を覚えながらも、友人らに悟られないよう、何食わぬ顔をしたまま遊んだ時」のように、自分(の意志)を無視して、誰かにどう思われるかに沿って動くことによって、自分の安全を守ろうとしていたからです。
「血が引けるような感覚を覚えながらも、友人らには何食わぬ顔をしたまま、その場は遊んだ」とは、これまでの私の
- 問題が起きた時の対処方法
- 自覚のない無意識の、誰かに自分を認めてもらえたと感じることで得られる安心・安全を求める動き
です。
血が引けるような感覚を覚える自分(の意志)を無視する。
誰かにどう思われるか(動揺していることを悟られないよう)に沿って行動し、自分の安全を守るために、表面上は何も起きていないように振舞いその場をしのぐやり方がうまくいく。
自分の意志で動いたら、自分が傷つくし、危ない。
(なぜ、自分の意志で動いたら傷つくし危ないとなっているのかは、改めて別な記事で説明します。)
私の感覚は、これらを伝えるために、アイホージュの立ち上げに反対していたのです。
でも、実際に私が、うまくいくという感覚(思い込み)に沿って行動すると、うまくいくどころか、ループにはまるのです。
EFTよくあるあるです。
感覚に沿って立ち上げを諦めたら一時は安心するのですが、しばらくすると諦めて何もしなかった自分に嫌気がさしたり、自分を責めたりし始めます。
そこで、どうしてうまくいかないのかを考えます。
自分の意志で動こうとすると感覚が反対するので、うまくいかないと感じます。
そもそも、出来事を変えた状態で、自分を無視する対処をし続けてきている場合は、自分がどうしたいのかがわからない上に、どうしたいのかに沿って行動する術も身についていません。
なので、自分の安全を守るために、自分の意思を無視して、誰かにどう思われるかに沿って動くしかないのです。
経験やお金、学歴・職歴など、あれもこれも足りないから、立ち上げられない、うまくいかない(何もかも完璧になって、周りの人全員が認める私になれば、うまくいくはずだ)と考えセミナージプシーの道へとまっしぐら。
明後日の方向で頑張り、こんなに頑張っているのに、立ち上げられない。
もうどうしようもないというループにはまりっぱなしになります。
アイホージュを立ち上げる前の私は、このような躓きのパターンが自分の中で生じていることも、ループにはまり続けていたことも知りませんでした。
ただ、知らないながらも、2年以上に渡る事故の後始末を通じて、
- これまでの対処方法ではダメだと思ったこと
- 自分の感覚がついていかないまま、どうしたいのかに沿って行動することで納得する結果を得たり、必要な術を身に着けたりしていたこと
によって、ループからの抜け出す方法は身に着けていたのです。
ですが、立ち上げを決めた際に、どこまでも納得の感覚を追い求めればいいと思うと同時に、納得を得るために感覚がついていかないまま自分がどうしたいのかに沿って行動していたり、本当にこれでいいのかと思ったりしながら過ごした日々を思い出し、「あれをまたやるのか」と憂鬱な気持ちになりました。
もう助っ人もいないのだから、このまま前に進むのは賢明ではないと思ったのですが、だからといってどうしたらいいのかはわかりませんでした。
このような中で、私は苦し紛れにEFTタッピングを始めました。
後にEFTを提供するようになってからは、感覚を言語化し、ありのまま認めることで
- 「うまくいくと感じる方法は、実際は何もうまくいっていないから、この方法を使ってはいけない(だから自分の意志に沿って行動する必要がある)」という情報や、前に進むための原動力などに変えたり、過去の傷の手当をしたりすることができる
- 人生は、自分の欲である「どうしたいのか」を扱うことの連続・積み重ねである
- 人間は、自分から生まれる情報(感覚や言語など)をありのまま認め、自問自答しながら掘り下げることで、必要な情報を得て、それを行動に繋げて、持ち味を発揮することができる
- 思い出した過去の私が、現在の、そしてこれからの私のために、必要な手を打てるよう、本質的に自分を守ろうとしてくれる
などと言ったことを知るのですが、始めてすぐの頃は何もわかっていません。
時間だけはあったので、出てきたものは全てEFTをしようと思い、感覚を言語化し、ありのまま認め、自問自答しながら掘り下げ、頭と心を合致させながら1つ1つ納得して物事を進めるという、遠回りなようで確実な道を進み始めたのでした。