私は、クリスチャンではありませんが、ミッション系の学校に通っていたので、
毎朝礼拝がありました。
先日、久々に学生時代の聖書を発見!
この頃の聖書は、文語体から口語体に変わってきているそうですね。
たとえば、
「求めよ、さらば与えられん」 が
「求めなさい。そうすれば与えられます」に。
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そして、そこからはいって行く者が多い。」は、
「狭き門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、
その道も広々として、そこから入るものは多い。」 に
「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。
あなた方を耐えられない試練に会わせることはないばかりか、
試練と同時にそれに耐えられるように、のがれる道も供えて下さるのである。」 は、
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、
あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」に
なんだかちょっと・・・有り難みが失せませんか?^_^;
さて、これらの聖句も好きなのですが、
中高時代、いつも助けられていたものがあります。それは・・・
「明日のことを思い煩うな。あすのことは明日自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで充分である」 (マタイ第六章34節)
です。心配性の私は何度救われたことか(笑)
仏教の十訓にしても、
ヨーガスートラのヤマ・ニヤマにしても、
連綿と続くこういった教えの言葉は重みがありますね。
これらの真髄が浸透して、平和な世界が訪れますように![]()