(みどり)浅原 菅原神社 | 素晴らしき哉 寺社彫刻

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関東の寺社彫刻の写真を中心に載せます。

みどり市大間々町浅原 菅原神社

 大間々町の街中、国道122号線が南北に走っている。北に進み、街中をすぎると渡良瀬川に突当たり左に曲がると日光方面である。正面の渡瀬川に掛かる福岡大橋を渡ると県道に突当り左は塩原方面の257号線、右が浅原・小平方面の334号線である。右の334号線を進み、浅原地区から小平地区に入る少し手前の正面に鳥居が見える。道は右にカーブしている。鳥居をくぐると左(西)に神楽殿があり、正面には狛犬に守られた拝殿がある。拝殿の後に幣殿があり、大きめの覆屋に繋がる。本殿は覆屋のほぼ中央に鎮座している。窓はあるが中を見ることはできない。

 山田郡誌によると、天文年間に黒川深沢城主愛久沢一族が桐生重綱の命により勧請。正徳二年(1712)別当日輪寺幸栄法師の代に社殿修理神像を内殿に納めたとある。(黒川とは当時の黒保根・東地区の渡良瀬川の古称である。)

 本殿に棟札は残されていないが、本殿内部に墨書があり、建造年や工匠の名があった。それによると建造は天明7年(1787)とあり、大工棟梁に遠藤金七、彫工は尾池金蔵であることが分かった。大工棟梁は館林の法輪寺を手掛けている。彫工の尾池金蔵の名は他には出てこないが、旧姓松島金蔵ではないかと伝わる程度でほとんど無名である。尾池金蔵のことは後で詳しく述べるが、まずはじっくり作品を見て評価されたい。

 

水引虹梁と目抜の龍

 水引虹梁は欅材に梅の絵様が彫られ、金や墨、朱で最小限に抑えて彩色してある。鯖尻には林大隅流の特徴があり、大工棟梁が林大隅流の門下生であることを示している。目抜の龍の目にも金が塗られ墨で黒目が描かれている。欅材に彫られていて覆屋に守られていることから約240年前の作品とは思えない様な細かいところまで残されている。

 

 兎毛通の応龍(飛龍)

 

 応龍とは中国神話に出てくる龍で、4本足で蝙蝠ないし鷹のような翼があり、足には3本の指がある。天地を行き来することができる。翼がある事から飛龍とも呼ばれている。破風板にも欅材がつかわれ、兎毛通は高肉透彫りとなっている。

 

軒唐破風の妻飾り 菊(枕)慈童

 

 菊慈童とは周の穆王(ぼくおう)に仕えた慈童のことで、ねたまれて流罪になってしまいました。その時、穆王から枕を貰い、もらった枕には穆王の記した法華経の偈(経の文句)があった。枕の偈を菊の葉に書きつけたところ、葉から滴る露が薬の酒となり、それを飲んだため不老不死になったとのいわれがある。(枕慈童ともいう)

 

海老虹梁と手挾 木階

 

 海老虹梁はこの江戸時代中期から末期に至る頃の形を示し、渦巻文様の絵様が彫られている。眉と呼ばれる部分には年輪を利用した水紋が描かれている。手挾は牡丹の篭彫りで蕾、五分咲き、満開が表されている。

 木階(きざはし)は太い一本の丸太から彫出したもので「小夜戸稲荷神社」と同じ工法である。浜縁、浜床、高欄までにも欅材が使われ、時代が立っても艶がある。

 

右胴羽目 七福神(毘沙門天・恵比寿)と唐子の琴棋書画

 

 七福神の内、毘沙門天の書、恵比寿の画が彫れている。機神神社の恵比寿様に似ている。

 

背胴羽目 七福神(布袋・大黒・寿老人)と唐子の琴棋書画

 

 琴棋書画の内、棋(囲碁)である。頭を掻いているのが布袋様、吟八系統の彫工に彫れていることが多いが頭を掻いて楽しそうにして、共通点としているのが多い。

 

左胴羽目 七福神(福禄寿と弁財天)と唐子

 

 琴棋書画の内、琴を弾いているのが弁天様、傍で音楽鑑賞をしているのが福禄寿である。弁天様はもともとは水の女神様だったのであるが、琵琶を弾いている姿や川のせせらぎ音から芸術や学問の神様としても慕われている。

 

 正面の柱間装置や腰羽目

 

 正面柱間装置の中央は唐桟戸の両開、彫刻は紅梅・白梅、飾り飾り金物をふんだんに使い蝶番を使っている。左右の袖壁は阿吽の鶴や竹梅で飾り、腰長押と床長押の狭い羽目板は亀を彫る仕上である。

 右の腰羽目は吟八唐子から「獅子舞」である。(吟八唐子とは妻沼の聖天堂の腰羽目を飾る九種の唐子遊びで吟八系統の彫工に好んで使われていることから便宜上使わせてもらっている)

 

  

 背の腰羽目は吟八唐子から「子取り」を少し変形したもの、左腰羽目は「相撲遊び」である。

「相撲遊び」では右に、負けて恥ずかしそうにしている唐子がいるが、聖天堂にはここまでの子はいない。しかし下の写真は、熊谷の下新田諏訪神社の腰羽目を飾っている唐子の「相撲遊び」である。下新田諏訪神社は聖天度造営に深くかかわった工匠によって延享三年(1749)に建立された。彫工の代表は石原吟八である。写真写りが良くないが勝者や負けて恥ずかしそうにしている子もいる。このことから同じ原画を使って彫った可能性も高く、吟八の系列である事は間違いなくそれも主流に近い存在であろうと思われる。

 

 

脇障子・妻飾り

  

 脇障子は鷹と松。最後は妻飾り、二重虹梁大瓶束笈形も結綿きちんとしたものが付いている。彫刻は梁と支輪に所狭し飾ってある。しかし花輪系列の証の様な地紋彫りが無い。こちらの神社は欅材を豊富に使っていることから、その必要が無かったからではないだろうか、その証として材料に艶があって埃こそついているが材料そのものは艶があり、光っている。

 建造年代が天明七年、浅間の大爆発の4年後、天明の飢饉の終焉(天明八年)まではあと少しかかることから、多少の影響があるものと思われる。彫工の尾池金蔵に関しては地元でも調べている方は少なく、参考になる資料は少ないが、その中で、K氏の資料や大間々町誌 別巻八 平成五年度版等を参考にさせてもらった。そのうえで書いたもので有るが、何分元になる資料が少なく、個人的推測が多くなることから、正式なものとは言い難く、不正確なとこがあるかもしれず、そのときはご容赦願いたい。

 調べた中で、結果として尾池金蔵は松島文蔵の息子で、松島文蔵は石原初代の常八雅詖(つねはちまさとも)ではないかといわれている。花輪の彫工の名門石原家は代を示す資料がなく、常八の代になってから初代雅詖、二代主信、三代主利としている。

 花輪の小夜戸稲荷神社は年齢からしても雅詖最後の作品でまだ年端もいかない主信の為に残した可能性が高く、菅原神社は金蔵に託したものとおもわれるのである。

 彫工の尾池家は関口文治郎門下の尾池伝次郎の可能性もある。菅原神社の墨書にある 前田原邑 尾池金蔵」の前田原は下田沢村の中にある地区である。文治郎は上田沢村であるが、両村を単に田沢地区とも称していた。文治郎の晩年の代表作に栗生神社本殿がある。その胴羽目の小口に寄進者の名があり、年号は寛政五年(1793)寄進者の中には 「下田沢 松嶋文蔵」の名がある。寛政五年は「常八雅詖」の没年と記録されている。晩年は実の息子の所で世話になったのか、または、金蔵が文蔵名義で寄進したのか分からないが、何か因縁を感じる。

 

神社名 (みどり)浅原 菅原神社(すがわらじんじゃ)

所在地 群馬県みどり市大間々町浅原 1263-1

主祭神 菅原道真 公

文化財指定 無

神事 10月15日に近い 土、日曜日 秋季大祭

 

本殿

建造年代 天明七年(1787)  内陣の内壁の墨書

彫工 尾池金蔵 (松嶋金蔵) 内陣の内壁の墨書(松嶋姓は推定)

大工 邑楽郡下中□邑 大工棟梁 遠藤金七 山田郡浅原邑 大工棟梁 青木源蔵恒□

 

(神事は調べた範囲内です、記載漏れや変更等ある場合があります、ご容赦ください。)

(通常は本殿の拝観はできませんが、神事の時は可能です。)

 

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  寺社彫刻の盗難について

(彫工の作品は建物の一部であるため取り外しは出来ず、出来ても、一点ものです。したがって商品として取引されるものではなく、正当な持ち主以外が持っていたらそれは、「ほぼ盗品」です。例え落ちていたもの拾っても、窃盗に問われる場合もあるし、知らないで買ったり貰ったりしても、罪に問われる場合があります。

 最近はほとんど無くなりましたが、万が一、盗難に遭ったしまったら、必ず警察に通報してください。写真等が必要な場合は全面的に協力いたします。盗難が犯罪であることは間違いありませんが、盗難品を買ったり、貰ったりする場合も犯罪です。新聞、週刊誌等に載せて貰うのも効果あると思います。この時、懸賞金の類は絶対に出してはいけません。警察への通報は遅れてもなんでも発覚した時点で直ちに、最寄りの警察署に直接通報してください。警察官を名のる人間は意外と信用できません、返品される場合でもお金の類を出してはいけません。どんな場合でも必ず警察を通してください。むしろ犯人が返品しない場合は罪が重くなるとしてください。処分が出来なくなり、犯人は捕まり返品するほかなくなる状態に成ります。)