素晴らしき哉 寺社彫刻

素晴らしき哉 寺社彫刻

関東の寺社彫刻の写真を中心に載せます。

埼玉県入間郡越生町 長昌山蓮華院 龍穏寺 経蔵(堂)

 龍穏寺(りゅうおんじ)は807年草創、1472年に太田道真・道灌父子によって中興された名刹です。1612年には、江戸幕府初代将軍・徳川家康公より「下総総寧寺(千葉県市川市)」、「下野大中寺(栃木県栃木市)」とともに、曹洞宗を統括する僧録司(そうろくし)に任命され、“関三刹(かんさんさつ)”と呼ばれていた時代もありました。

 「龍穏寺」の由来はかつて山に棲んでいた“悪龍”を、当寺第5世住職である雲崗舜徳(うんこうしゅんとく)和尚の霊験によって穏やかにさせたという伝説による。

 宝暦二年(1752)に伽藍が灰燼に帰した後、天保十二年から十五年(1841~44)に再建されたが、大正二年(1913)に再び本堂、庫裡などを焼失した。罹災を免れた経蔵、山門、寺鎮守熊野神社は上野山之神村(現太田市)の岸亦八の彫刻で飾られ、内部には酒井抱一一門による壁画天井画が描かれるなど、贅を凝らした建造物である。

 

 経蔵は木造方形造 銅瓦葺 土蔵造り 内部には八角形の輪蔵(回転式の書架)がある。外壁には道元禅師の「入宗求法(にっそうぐほう)」の彫刻が嵌め込まれている。

 道元禅師は曹洞宗の高祖で鎌倉時代の前期(貞応二年1223)宗に渡り修行した。正面に向かった右側通路沿いにある、上の彫刻は宋に上陸これから修行をする決意の彫刻かも知れない。

 

 一番左が道元であろうこの頃23歳という事で若者の希望に満ちた感じが表れている。右はおそらく服装や傘の様なものから、現地の人の様にみえる。真ん中は一緒に行った明全かもしれない。一見鏝絵の様にみえるが木目が見える所があるから木彫りである。胡粉で下塗りをしその上に隅で多少の色を付けたものと思える。

 

 左側は石垣の上になり近すぎて全体は写せず、下の熊野神社の所から写した。道元禅師が天童山に修行行脚途中虎に襲われ、杖を投げたところ、杖が龍になって虎を追い払ったという、「猛虎調伏」である。「猛虎調伏」は雲蝶の彫った新潟西福寺開山堂の物が有名であるがこれはそれより16年ほど前である。

 

 雲蝶は沼田の日光神社の胴羽目の虎を彫っている。(天保十三年1842)この時の名は「石川安兵衛源信光」とある。雲蝶はこの後、館林の楠木神社に彫刻を残し「石川安兵衛源雲蝶」とあるという。(天保十五年1844)しかもこの楠木神社では石原常八主信の名も出てきているという、常八主信はこの時58歳、雲蝶30歳、新潟入りの前である。雲蝶も元をただせは石原吟八郎に辿り着き、常八主信はこの石原家を継いでいる本家筋という事になる。もしかしたら雲蝶の名は常八主信が付けたのかもしれない。この常八主信と岸亦八は大変仲が良く主信が6歳ほど上であるが、亦八が師匠の飯田仙之輔から独立した頃、世話になった節が見られるし、主信の孫たちは亦八の下で修行をしたり、亦八の倅の元に婿養子として入り亦八の三代目を襲名したりしている。 経蔵の「猛虎調伏」は同じ原画を使用しているかもしれない。

 

 

 経蔵の胴羽目の彫刻は素晴らしいが軒唐下は左に鶴がいることから「梅妻鶴子」であろうか、木鼻は正面が獅子、側面は獏である。水引虹梁は波に千鳥、持ち送りは波の篭彫りである。

柱の地紋彫りは風化が進んだせいか、彫が浅くなっている。

 

寺院名 長昌山蓮華院龍穏寺(ちょうしゅうざんれんげいんりゅうおんじ)

所在地 埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷 452-1

主本尊 釋迦牟尼仏像

文化財指定 龍穏寺山門(越生町指定文化財)龍穏寺経蔵(埼玉県指定文化財)

      太田道灌公の墓

 

経蔵

建造年代 天保十二年から十五年(1841~44)

彫工 上野山之神村(現太田市)の岸亦八

大工 不明

仏事 

 

(経蔵は車椅子でも外観は見学できます)

 

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(彫工の作品は建物の一部であるため取り外しは出来ず、出来ても、一点ものです。したがって商品として取引されるものではなく、正当な持ち主以外が持っていたらそれは、「ほぼ盗品」です。例え落ちていたもの拾っても、窃盗に問われる場合もあるし、知らないで買ったり貰ったりしても、罪に問われる場合があります。)