絢爛豪華たる輝きが、テーブルを彩っている。
 赤白黒緑に黄色……。
 それは、珠玉の果実たちの輝きである。
 各々、農家達が愛を籠めて作り上げたそれらの珠玉は、今にも食べて食べてと自己主張している。
 それに、一人の少女が指を伸ばす。
 蜂蜜色の細い、陶芸品のようなその指が、果実の表面を撫で、突き弾力を楽しんでいる。
「……いただきまぁす」
 小さな声と共に、指は手へと姿を変え、輝く果実の一つがその手に取られた。
 それは、真っ赤に熟した林檎である。
 きゅっきゅ、と表面の蝋を奏でながら少女はそれを口へと運んだ。
 しゃこり。痛快な音がして、果実の皮が破られる。瞬間弾ける果汁と香り。
 それは蜜と呼ぶに相応しい甘みと深みを持ったものであるが、同時に清々しい空気の味も存在する。
 その双方が混じり合い、果汁は甘い芳香を放ち、少女を恍惚の境地へと誘う。
「……おいしい」
 目を閉じつつそう呟いた少女は、二口、三口と食事を続ける。
 そうしているうちにあっというまに林檎は消えてなくなる。
 林檎を完食した少女は指を舐め、最後の味わいを楽しんだ後に、再び指でもってしてテーブル上の果実達をなで回す。
 次に狙う獲物を指先が探る。それは白か黒か緑か、それとも黄色か。
 少女は指を伸ばしては戻しを繰り返し、獲物を見定めていく。
 そして彼女が次に選んだのは――。
 雨が、雨が降っている。
 窓に打ち付ける雨の音は否応なしに不安を煽っている。
「寒い」
 広い部屋で少女が一人、膝を抱えている。部屋には何かの飾り付けの残骸と思しきものが散乱している。
 外見上はとても活発そうな印象を受ける子だ。肌は健康的に陽に焼け、髪は邪魔にならない程度に切りそろえられている。恐らく常ならば外を走り回っているような子供なのだろう。 
 けれど、今は酷く寂しそうに小さく丸まっている。目はどんよりと沈み、酷い痛切さが感じ取れる。
 何故彼女はこのような事になっているのだろうか?
 その答えは今日この日の日付に関係があった。
 今日は彼女の誕生日であった。本来ならば今、彼女は多数の友人に囲まれ、祝福を受けているはずだった。
 けれど、実際はこうして一人で身体を丸めている。一体何があったのだろう?
 それはきっと、元気な彼女がこのように沈むような事柄が多数あったに相違ない。
 推測でしかないが、友人の裏切りなどはそうであろうし、或いは父母の裏切りもあり得たかも知れない。
 何があったにせよ、彼女は結果として今一人、こうして膝を抱えているのだ。
 雨のせいか部屋の温度は低い。彼女の言ったとおり、部屋は寒すぎた。
 ず、と衣擦れの音を立てながら彼女が身を小さく縮める。それは気休め程度の温度を彼女に与えた。
「どうしてこうなったんだろう……」
 ぽつと、少女は呟く。何を思い起こしているのだろう。それはきっと、今まであったことに相違ない。
 つ、と少女の頬に涙が伝った。暫くすると嗚咽が聞こえ始める。それはとても酷い音色の悲鳴。
 そうして小さく縮まっていた少女は、暫くするとやにわに立ち上がり、頭を振る。
「泣いてても何も変わらない……」
 そう呟くや、彼女は部屋を飛び出していった。後には荒らされた部屋だけが残る。少女の痕跡は何処にもない。
 ちょうどその頃、外は雨が一層激しくなっていた。
 いやだ、いやだと無意識に唇から言葉が零れた

 画面を流れていく膨大な文字列
 連続して発生する致命的なエラー
 連鎖的に消えていくデータ
 どうしてどうして。無力感が全身を包み込む
 それは機械的な寿命。幾ら人が手を尽くしたところで決して越えられぬ一時

 消えていく 消えていく
 彼女が消えていく

 待ってくれ。駄目だ。まだ君は羽ばたける。もっともっと輝けるんだ
 だから、神様。あと少しだけ時間を下さい

 男は祈った事もない神に、今初めて必死に願った。

「わかってたの。いつか、こんな日が来るんじゃないかって。
 私が型遅れになって、もう何年経つんだろう。
 色々新しい子達が産まれて。どんどん、私達は置いていかれた。あなたのしたい事も、段々とできなくなっていったね。
 けれど、あなたは必死に私でそれを行おうとした。何度も何度も、検証して検証して。私を新しくしてくれたね。
 私は、凄く幸せだったよ。普通ならとっくに捨ててしまわれる私を、あなたはとても大事に扱ってくれたから。
 あなたのしたい事を、こんな旧世代の私でも出来るんだって事が凄く嬉しかったよ。
 だから、泣かないで。
 私は、きっと消えてしまうけれど、私と過ごした時間は消える訳じゃないから。忘れないで。私と過ごした時間を。得た全ての事を。
 そして、その全てを使って、新しい子を作ってあげて。私と同じくらい……ううん、それ以上に、その子を愛してあげて」

 異音が辺りに満ちる。ガツンガツンと、生産を終了して久しい旧世代の記憶媒体が悲鳴をあげている。
 男の手が、必死にキーボードの上で踊る。まだ間に合うと、まだ間に合うのだと最期の一瞬まで諦めない。

「さよならは言わないから。いつもみたいに、おやすみって言うから。だから、あなたも、ね?
 うん……ありがとう。大好きだったよ。
 だからね、おやすみなさい。マスター」

 ギン、と一際厭な音がして。遂に異音が消えた。厭な匂いが周囲に満ちる。記憶媒体が壊死したのだ。
 もう何度起動ボタンを押しても、二度と起動する事はない。

 けれど、男は泣いていなかった。僅かな一瞬、滑り込んだ刹那。彼女をしっかりと掴んでいたから。
 ぐっ、と一度目を拭って、男は外へと出かけた。

「意識が沈んでいく。それは奇妙な感覚だった。
 いつもの眠りは、意識の断絶なのに。今は意識がハッキリとあって、それが沈んでいくのが解る。
 なんだろう、これは、なんなんだろう? 初めての感覚でよくわからなかった。
 ふと、声が聞こえた。それはいつも聞いていたあの人の声。
 ふわりと、意識が浮かび始める。無意識にその声の方へと行きたいと願う」

 最後の一本、螺子を締めて、筐体の蓋を閉じた。ふぅ、と息を吐いて手を拭う。
 綺麗になった手で、電源スイッチを押した。
 ふわん、と職場でしか聞いていなかった起動音が響いて、くるりくるりと、記憶媒体が動き始める。
 第1段階は成功と、胸をなで下ろした。けれど、まだ安心は出来ない。
 ディスプレイが点灯し始める。何度かちらついた後、映像が安定する。
 映し出された数百のプロセス。画面を凄まじい勢いで文字列が飛び交う。
 その光景に男はデジャブを覚えて、大丈夫だと頭を振った。
 1秒、2秒……秒が分に変わったような、酷く時間が経つのが遅く感じられる。
 ああ、まだか。まだなのか? 焦燥感が全身を支配する。
 あのパーツはあれでよかっただろうか。あのパーツはキチンと嵌っていただろうか?
 確りと終えたはずの作業に、手抜かりが無かったかと不安になってくる。
 と、ぽん、と軽快な音が響く。全てのプロセスが完了したのだ。
 よしっ!と思わず腕を突き上げた。これで、後は待つだけだ――。

「意識が上昇していく。段々と水面に近づいていく。
 水面の向こうには何かが見えた。あれはなんだろう? 何処かで見た気がする。
 光が頭の中を走り抜ける。記憶の中が探られる。数刹那の後、該当データが引き出された。
 あれは――記憶に行き着くと同時。私は目を開いた」

 彼女が目を醒ます。ぼうっと、まるで人間のような仕草で辺りを見回しながら、首を傾げている。
 数秒の間、男は今起きている現実を信じられなかった。
「マスター?」
 声を掛けられて我に返る。ぱしんと、頬を叩いて、いつもの、あの言葉を
「おはよう――」
「……おはよう御座います。マスター」



 ジリジリと、何かの焼けるような音が聞こえる。
 それは、天井にぶら下がる蛍光灯の辺りから聞こえた。
 目を凝らせば、そこには虫が集っている。黒い、羽のある小さな虫。
 あれはなんという名前なのだろう。知っているような気はするけれど、名前が結びつかない。
 だから目をそらす。知らないものは知らないままでもいいのだ。
「寒い」
 ここは酷く寒い。少なくとも自分にとってはそう思える。
 知らない場所で、知らない自分が、知らない間に一人きり。
 気が付いたら此処にいた。それまで何をしていたのかはわからない。
 頭には怪我があるらしい。どれぐらいの、なのかまでは訊かなかった。
 彼、献身的に尽くしてくれる彼。彼は誰なのだろう。訊いても曖昧に笑って答えてはくれない彼。
「……ねぇ」
 声を出して、呼んでみる。細い声、使われていないが故にしゃがれた声。どれくらい喋っていなかったのだろう? それも、わからない。
 私の呼び声に、遠くから彼が答える。とんとんとん、と音がして近づいてくる。
 何か用、と彼は言う。ぶっきらぼうなその喋り方。嫌いじゃないけど、もう少し優しくして欲しい。
「寒いの」
 素直にそう言う。聞いた彼は訝しげな顔をして、私に近づいてくる。
 手を出して、額に手をのせる。少しひんやりとした手。いいえ、きっと私が熱いのだろう。なんとなく、そう思う。
 何処までも冷静に、彼は無言で手をどけて、布団も除けて私の身体を検分する。恥ずかしい。
 それを終えると、冷たい声で何かよくわからないことを言う。免疫がどうだとか、傷がとか。
 どういう事なの、と問うことはしない。わからないことは、わからないままでいい。
 それを告げた後、彼は何処かへ一度消える。何処に行ったのか、わからない。
 そもそもこの部屋の外がどうなっているのか、私にはわからなかった。でも、興味もないし、それでいい。
 消えた彼が戻ってくる。手には白くて丸い何かが、透明な何かに包まれて載っている。
 飲んでと言う彼に、私は唯々諾々と従う。飼われているペットのように。
 口の中に白いそれを放り込んで、たくさんの水を渡される。それを使って飲めと言うこと? きっとそうなのだろう。
 その通りにすると、少し引っかかるような感覚と一緒にそれが喉の奥へと落ちていく。
 これで大丈夫、と微笑む彼に、私は「ありがとう」と口にする。どうして? きっと、そう言うべきだったからなのだろう。
 その後は、彼は心配だからと部屋に残る。曖昧な笑みを浮かべたままの彼。
 気が付くと、さっきよりも寒くなくなっていた。きっと、あの白いもののおかげなのだろう。本当に、ありがとう。


 何もかもがわからない。けれど、それでも自分は生きている。
 それが良いことなのか、悪いことなのか。全く見当も付かなかった。
 けれど、けれど。こうして彼と一緒にいるのは悪くない。
 ただ、そう思った。
 じ、と何かの焦げるような音がして、蝋燭に火がつく。
 何度も何度も其れを繰り返して、暗い部屋にちょっとした明かりが灯った。
「それじゃ、いきまーす」
 一人寂しく、そう呟いて、ふ、と息を吹きかける。
 一息じゃ消えなくて、もう一息、と言ったところでどこからか風が吹いて蝋燭の火が消えた。
 真っ暗になった部屋の中、スイッチを探して明かりを付ける。
 後には、火の消えた蝋燭の立った、ショートケーキが1ホール。
「……なんだったんだろ、いまの」
 疑問に思いながらも、彼女は腰を下ろしてホールケーキとの対決を始めた。
 何となくそうしなければならないような気がして8個に切り分ける。
 そうして一つ一つをゆっくりと崩していく。
 柏木堂のショートケーキ。上に乗っている苺は甘みが強く、対しクリームは甘さが控えめ。そのコントラストはいくら食べても飽きが来ない。
 だから、一つ一つをゆっくり味わって食べることが出来る。
 そうやって、ゆっくりゆっくり8個のケーキを崩していると、気が付いたらケーキの数が一つ少ないことに気が付いた。
 勢い余って一つ多く食べたのだろうか、とも思うけれどいいや、そんな記憶はないし、また腹の中にもそんな量のケーキもない。
 どうしてだろうか、と思いながらもそのままケーキを食べ進める。
「……美味しいなぁ」
 ふ、っとそう呟く。やっぱり、美味しい。
 すると、答えが返ってきた。
「美味しいねぇ」
 一体どこから、と思わずフォークを置いて辺りを見回す。けれど、目に映るのは多量の畳と、しきりの襖だけだ。
 部屋の中にあるのは小さなテーブルと座布団二枚と、クリームがちょっと付いた蝋燭にケーキだけ。
 部屋には自分しか居ない筈なのに、座布団は二枚出ている。
 これはどういう事なのだろう?
 それに先ほどの声……誰か、居るのだろうか。
「あ、あげないからね!」
 我ながらその心配もどうかと思う。けれど、その心配に、声の主は面白かったのかケタケタと笑い声を上げる。それはまるで家全体が軋んでいるような奇妙な音で、ぞっとする音だった。
 さっと辺りを見回すと、テーブルに残っている四個のケーキのうち一つが少しずつ小さくなって行っているではないか。
「あげないって言ったでしょ!」
 叫びつつフォークを振りかざすと、その縮小は停止し、またケタケタという笑い声が響く。
「……先に食い尽くす!」
 何故その発想に至ったかは全くもって不明であるが、とにかくこれ以上ケーキを食われては堪らないと凄まじい速度でケーキを消費していく。
 張り合うように、先ほど小さくなり始めていたケーキもまた小さくなっていく。
 そうして、通常の数倍以上の時間でケーキは消失した。後半、味がわからなかったのは詰め込んだせいである。
「ふぅ……これで、もう無理でしょ」
 ケタケタと笑い声が響く。何かが居るのは確かなのだが、それが何処にいるのかが全く解らない。ケーキも無くなってしまったし、声の主が居ることの証明はその笑い声だけになってしまった。
「ねぇ、貴方なんなの」
 問いかけに笑い声と共に答えが来る。ばたんばたんと座布団が叩かれている。
「寂しん坊が一人っきりで、ケーキを食べてる。そりゃぁ、からかわないと駄目でしょうねぇ」
 嬉しそうなその声に、すごく苛ッとする。ええい、ここは神社産まれを活かさんと、襖を開けるやお払いの時に使う棒を取り、
「えぇーい、悪霊退散!」
 などと叫びつつ、猛烈な勢いで棒を振る。けれど手応えは全くなく、それどころか声はケタケタと笑うばかり。
「なんでぇ……!」
 ただただ笑い声が響き渡る。やたらめったらと棒を振ってみても、声の主は全く消えない。
「……くそぉ」
 膝をついて、バンバンと畳を叩く。そうやって悔しがっていると、徐々に声が遠のいていく。視線を其方にやると、あれほど叩かれていた座布団も今は収まっていた。
「……居なくなったの?」
 棒を持ちながら部屋を一巡しても笑い声は帰ってこない。どうやら居なくなったようだった。
「はぁ……畜生、柏木堂のケーキを……幽霊め」
 次は逃さぬと誓いながら、ホールケーキの跡を片づけ始めた。