二月になり、心配事をよそにして、娘の誕生日や大切な出会いなど、忙しいことに紛れて、気が付くと二月は半分終わり、嫌でも心配事に向き合わなければならなくなった。
娘が亡くなる前は、「しなければならないこと」は、家族のため、娘のため、自分のため、という目的がはっきりしていたので、何の迷いもなく「しっかりこなしていたつもり」だった。
娘が亡くなり、未来の希望無くし、生きている意味も無くし、幽霊のように「ただ生きているだけ」を「させていただいた」この5年だが、今年春からは、安易にそれが許されない。
自死遺族の会を主催されている素敵な方が遠方から、ある遺族のお墓参りに来られたのに便乗してそれに加えていただき、悲しいことではあるけれど、ワクワクとして楽しくお会いできた。
ずっと楽しみにしてきた計画に向かい、しなければならないことを後回しにして、自分に言い訳してきたが、やっと思い腰をあげて行動しなければならないのに、まだ動けない自分に苛立ちを感じる。
楽しい時間と言うのはいつも「あっと言う間」。
もうこれからは、数えるほどしかないだろう大切な「思い出」という宝物のような「時間」。
自死遺族が、自死遺族として心置きなく話せるのは、やはり「同じ立場…子供を自死で亡くした母親」なのだ、とあらためて確認できた気がする。
厚くお礼を申し上げたいと思います。
あっと言う間に過ぎ去った日…霊園から見た、高い晴れた空…、おとぎ話のような茅葺の古民家、美しい夕暮れ…一日の時間の流れを眺めていると、楽しい時間も、娘を亡くしたこの世の苦しい悲しい時間も同じ一秒の集まりであり、津波のように押し寄せては去っていくのに過ぎないのか…とも思う。
娘が生きていた時間も、亡くなった時間も、その後の時間も…。
楽しみにしていた「この時間」も、私にとって宝物であっても、「時間」はただ残酷に過ぎていくだけなのか…と。
この5年と4か月、鼻先に人参をぶら下げ走る馬の気分で、娘亡き後、過ごしてきた気がする。
四十九日、一周忌、初盆、三回忌…その間にも自死遺族の会に出たり、養子里親の資格の手続きに奔走したり…小さな計画や希望という「鼻先の人参」に向かい「走る」ことで、時間稼ぎをさせていただいた。
生きるための時間稼ぎだ。苦しい悲しいことを忘れさせるための…
まるでこの先に希望があるかのような勘違いを自分にさせるための…。養子という希望の叶わない今を思うと、自分が情けなく、そのようなことを感じてしまう。
この「時間稼ぎ」は、いつまで続くのだろうか。絶望という津波がやってくるまでなのだろう、というのは覚悟しつつ、鼻先の人参、という自己暗示、自己催眠をかけながら頑張っているのだ、と思う。
ギターは「人参ではない」が、大切な時間稼ぎに含まれる。
夜のひとときだけ、何もかも忘れて没頭することのできる有難い時間稼ぎだ。
最近出会った素敵な曲ふたつ。
私の選曲が好きだと言ってくださった方へ捧げます
聴いてくださる方々へ
音楽が何もかも「いっとき」悲しいことを忘れさせてくれますように。
ピアソラ作曲の「ワルツ風の詩」
気だるい空気の中に、悲しいメロディが浮き上がってきます。ただ、悲愴とは言えないほどで、この悲しみにはお酒で気を紛らわし、時々高揚するものの、溜息ついているような…
バーデン・パウエル作曲の「アペロ・哀愁」
哀愁、というタイトルが意外なほどリズムに乗った、血が騒ぐような快活な曲ですが、やっぱり人生の哀しみを嘆いているメロディが印象的。前奏の半音階的進行が個人的な好みなもので、このタイプの曲はクラシックもジャズもロックも見境なく気に入ってしまうのです…
弾くのは無謀といってもいいほどギター歴2年の私には難しいのですが、練習を始めています…ギタリストたちの演奏とは程遠いものです…