天地の諸の動きの狂いなきは観音行の鏡なりけり

 

森羅万象、天地一切、あらゆるものの動きが観音行になっている。

 

これを人間一切の行いにする。

 

そうすれば永遠に栄える。

 

それで人間が決めるところに天地自然の運行に反するから止まる。

 

行き詰まる。

 

ですから観音会はどこまでも栄える。

 

天地一切の生成化育と同じことで、個人がそうなれば必ず栄えて行くにきまっている。

 

その家はどんどんよくなる。

 

天地自然の運行と外れることのないよう始終心掛くれば、だんだんそうなる。

 

そうなるように人間は造られている。

 

そうならないのは間違っている。

 

人と話するにも、ちょうどそのときいい気持ちで聞ける話があり、それを話せば喜んで聞く。

 

先方がまだその気にならないでおれば、時期が来ぬのですから話さない。

 

四人五人と人がいても、その人達や、その場の空気によって言うべきことや、態度とか座り方などちょうどいい所がある。

 

そういうことが判り、自然にそういうように行いができれば、魂の磨けた人で、根本はあくまで平和で行かなければならぬ。

 

観音様は天国ですから、争いがないから、地獄的なことは絶対にいけない。

 

争いなどの場合は観音行とはぜんぜん違う。

 

ですから水浴びたりなどの荒行は観音行ではない。

 

水浴びるのは、魚か亀の子か蛙のすることであります。

 

日光浴などありますが、あれは亀の子のやることで、人間は天日に背を干すべきものではないと私は言っている。

 

 

   (昭和十年一月十一日)