第5講 奉仕の意味するもの
世の平和 人と世の幸を図るこそ 人と生まれしつとめな るらめ (!) Proporcionar paz a todos, felicidade espalhar eis, ó homem, a missão que, ao nascer, recebeste.人の為 世の為励む人見れば 砂に埋もる金剛石かもAo mundo servir, ao próximo amar é ser diamante que brilha, embora escondido na areia.力なき 身にしあれども道の為 尽くさせ給へ伊都能売神Mesmo sem força, permita, Miroku Ookami, que eu me devote sempre ao bem da humanidade.第5講 今日のテーマは「奉仕」。奉仕とは、神のために働くこ と、神の御業に身を捧げることを意味します。普通の人々 が「おひかり」を授かり、弟子となり、信徒となり、これ は彼らの人生において非常に興味深い出来事となります。 そのような人々を助けるために、私はこのようなクラスを 行って、彼らを神の道へと導いているのです。 日本語の信者という言葉には不思議なところがある。信 者=信じる人」とある。しかし、音節を逆に読むと、「邪 信=否定的な存在」となる。この好奇心の裏には、ちょっ と不思議なことがある。 おひかりを受け取る人々は、神の道具として奉仕し、神 の意向に従うためにそうする。神聖な大義の邪魔をしよう という願望や意図はない。しかし、場合によってはこのよ うなことが起こる。なぜか?授与において、信徒たちは実 際に明主様から直接、神聖な光のごく一部を受け取ってい るのです。ですから、物質的な観点からは、その人はメダ ルを受け取っているに過ぎませんが、霊的には、その人の 胸の中に光の玉を受け取っているのです。これは非常に重 要です。しかし、ほとんどの人はこの事実の大きさに気づ いておらず、目に見えないものであるため、神の恩寵に従っ て行動することはない。そうでなければ、誰もが怖いと感じ、それを受け取ること が難しくなると思う。光の玉を胸に、どこまでも歩いてい くことを想像するだけで、とても怖くなるだろう! ブラジルに到着してすぐに、私はミナス・ジェライスで教 えを広めるために赴き、そこで霊界の影響力について多く のことを学びました。そのうちの一つは、おひかりの霊視 が何を意味するかを明確に示してくれた。浄霊を受けに来 たある女性が、強い霊障を示したのです。彼女は非常にネ ガティブな悪魔に取り憑かれているように見えた。彼女の 大きな苦しみを心配して、彼の周りには7人がいて、そのう ちの3人は光を取り次いでいた。誰もが知っているように、 メダルは服の内側にあるので、外から見ただけでは誰が 「お光」を持っているかはわからない。その時、女性が「お 光」をつけた人たちを指差し、「胸につけている光の玉は 何ですか?誰もが驚き、同時に不思議に思った。これは、 彼らでさえ、自分たちがいだいている「お光」の重要性を 知らなかったことを示している。それはまた、「お光が」 が物質界に住む人々に隠されたものであっても、実体のな いと思われる霊魂には隠されないという事実の証明でも あった。 一部の人間には超感覚的な感受性があり、「お光」を授 けられた人に近づくと神の光を感じる。しかし、大多数は 何も感じない。会員が道を歩き、バスや電車に乗っても、 誰も何の違いもわからない。しかし、パラレルワールド、 別の次元が共存している。だから、家であれオフィスであ れ、一見誰もいないようなどんな環境にも、多くの霊が存 在することがある。もしすべての人がこの領域を垣間見る ことができたら、それは恐ろしい光景となり、発狂する人 も出てくるに違いない。 この目に見えない存在に気づくために、少し考えてみま しょう。 バスに乗っていると、別の乗客が近くに座ってい て、あくびを始めたという経験をした人はどれくらいいる でしょうか? これは、あなたが環境全体にわたって胸に抱 えている神の光の影響によって起こり、周囲のすべてを浄 化します。 多くの会員はまだこの事実を知りません。 しか し、物質と並行してこの世界を今も歩き回っている魂たち は、この光を非常にはっきりと見ることができます。輝く 存在を見ると、これらの魂は、それが非常に特別な誰かで あると信じます。なぜなら、というのも、夜の時代には、 自分自身の輝きを少しでも得るためには、宗教的に洗練さ れ、霊的な道を堅実に歩むことが必要だったからだ。この 魂の輝きを得るのは容易ではなく、成功する者は稀であ る。 列聖の例は、この地位を獲得した人々の聖化の例であ る。聖人とみなされるためには、3つの証明された奇跡が必 要であり、それは、高潔な人物の生前または死後に起こっ たものである。この証明は基本的なものであり、彼らが神 とともに生きたという事実、言い換えれば、彼らが普通の 存在ではなかったという事実を証明するものである。迷っ てさまよっている霊が、胸に光の玉をつけた人を見たとし よう。明らかに、その霊はすぐにその人について行きたい と思うだろう。彼女が自分を神の光の道、言い換えれば幸 福へと導いてくれることを意図して。ホームレスの乞食が、 高級車に乗り高価な宝石を身につけた金持ちを見かけたと きと同じ考えだ。大金持ちが自分の困難を和らげてくれる ことを期待して、その大金持ちに助けを求めるのだ。似た ような状況として、霊的に困窮している人が、輝く光を垣 間見たとき、自分の苦しみをなくそうと思い、その光に従 い始めることがある。 残念ながら、このことに気づいている会員は少ない。自 分が授けられた「お光」の大切さにも気づかず、魔法にか かった女性のような状況に直面したとき、どう行動すれば いいのかわからず、途方に暮れてしまうのだ。しかも、具体 的な現実から見れば、目に見える状況はなくても、目に見 えない領域では、「お光」の光に引き寄せられたさまざま な霊が近づいてきて、助けを求め、自分の周りに集まって きていることに気づいていない。「お光」を授与されるやいなや、信徒は真心と謙虚さと 信念をもって奉仕する。多くの奇跡が起こり、幸福感は増 す。しかし、時が経つにつれて、彼は「息苦しさ」、圧迫感、 まるで自分を取り囲む圧力があるかのように感じ始める。 私たちはこの状態を、空が曇っていて太陽の光が見えない 曇りの日のように理解することができる。雲の上では太陽 は明るく輝いているが、雲の下では空は暗く息苦しい。神 の愛は太陽のようなもので、人間の状態に関係なく輝き、 神を求める者にも無視する者にも無条件の愛を放つ。この 状態は、空が曇っていて太陽の光が見えない曇りの日のよ うなものだと理解できる。雲の上では太陽は明るく輝いて いるが、雲の下では空は暗くどんよりしている。人間の心 は、誰かを助けようとしないときに閉じてしまう雲に相当 する。愛する者には全力を尽くすが、共感できない者には 心を閉ざして助けようとしない。さらに言えば、心に曇り が多ければ、光を輝かせることはできない。 人間は信じられない!本来は素晴らしい光を持っている はずの「お光」に、重い雲という "マント "をかぶせて窒息 させてしまう。残念ながら、多くの会員がこのような状態 に陥り、神の道具として働くことができなくなっている。 20年、30年前に入信した信徒がまったく変わっておら ず、時代に取り残されたままだったり、人生のある面で衰 退している、というのはよくあることだが、実際にはもっ と多く繁栄や健康や平和を獲得しているはずである。しかし、これはすべて、自分たちが神の光、すなわち天 からの絶大な恩寵を受けているのであって、自分自身 の功徳による勲章ではないことに、当初気づいていなかっ たことに起因する。さらに言えば、他の宗教でより高い霊 的レベルに到達しようとするときに必要とされるような、 多大な向上心や禁欲的な修行も必要なかった。彼らは純粋 に神の愛からこの驚異を受けたのであり、この恵みに応え たのではなく、ただそれを享受したかったのだ。 先月、私はサンタ・カタリーナ州のグアラミリン・布教 所で1週間を過ごした。祭壇の「観音」のお文字は、驚くほ ど強烈な光を放っている!太陽が輝いているのと同じだ! しかし、その光は教会の中だけにとどまっていることもあ る。もし、その光が外に広がれば、ムーブメントが起こ り、人々はその光を通して救いを求めるだろう。 多くの人々がこの救済を待ち望んでおり、それを探して いるのだが、光が広がっていないため、そこにたどり着く ことができない。霊的な環境に注意を向けると、静止して いることがわかる。ある場所では激しい霊の動きがあると いう。それは物質的な動きではなく、物理的な行動の結果 でもなく、アストラル界(幽界)に影響を与える宗教的で 霊的な流れであり、突然止まることもある。 私は、時に無意識のうちに魂の動きを妨げ、霊的世界へ の扉に鍵をかけているような印象を与えていると信じてい ます。 では、どうすれば誰でも入れるのか。 しかし、奉仕者自身は、このような状況は、自分自身、 つまり想念の世界から生み出されたものであり、光の拡大 の邪魔にならないように注意する必要があることに気づか なければならない。明主様は、私たちが何を感じ、何を望 むか、つまり私たちの意志が重要であると教えています。 こうしてみると、人間の想念は霊的な面を邪魔する可能性 があると結論づけられる。 最も想念が邪魔をするのは、感謝の欠如である。しか し、感謝の気持ちは言葉だけでなく、心の底から湧き出る ものでなければならない。不思議なのは、神が無限に与え てくださる賜物に気づいていないために、自分が受けた恵 みに対して感謝の気持ちを表すことさえできない人がいる ことだ。少し無理をしてでも「神に感謝します」とか「あ りがとうございます!」と言えば、それが心を開く第一歩 になるだろう。しかしその代わりに、彼らは不満だらけで 不平を言いながら一生を過ごすのだ。自分たちを何度も包 んでくれた数え切れないほどの祝福を忘れ、泣き言を言わ なければならない理由だけを思い出すのだ。このような態 度は、スピリチュアルな動きへの扉を確実に閉ざしてしま う。 ここ数日、ある奉仕者と話していたとき、彼は引退して 暇を持て余している信徒についてコメントしていた。彼女は 何年も前におひかりを授かったとても良い人で、教会の近 くに住んでいるので、神様に奉仕することでとても役に立 つと思いました。この人は定期的に教会に通っているのか と尋ねると、週に2回しか通っていないという答えが返って きた。それを聞いたとき、私はとても残念な気持ちになっ た。その人は犠牲を払って週に2回教会に通っているよう に思えたからだ。彼は神に奉仕する機会に喜びを表してい ませんでした。つまり、彼女の心はまだ、聖なる場所で隣 人のために徳を積むことの喜びを感じていなかったのだ。 長年、会社に出勤しなければならなかった頃と同じ状態が 続いている。最初は2日がもう重荷になり、次に1日だけで も苦痛になり、やがて月1回が重荷になる。もし彼女が教会 に行く喜びを感じたら、必ず毎日行くだろう。目が覚め たとき、彼女はすでに自分に至福をもたらし、他の人々に 幸福をもたらすことのできる場所を恋しく思っているはず だ。それが彼女の人生の究極の目標になるだろう。 しかし、この気持ちは信徒の心の中に自然に生まれるべ きものである。奉仕者が強制するのは正しくありません。 さらに悪いことに、一部の人々が今でも、次のような者た ちを浄化すると脅す姿勢を維持しています。 人々が神殿に来るのは、献身ではなく、恐れからであ る。自分の意志に反してでも、義務感や天罰への恐れから やってくる。しかし、このような態度は重荷に感じられる ため、長続きしない。しかも、それは神の願いとは一致し ない。だからこそ、明主様はしばしば奉仕者たちに、もし 助けることができなくても、少なくとも妨げるべきではな いとおっしゃったのです。指導の立場にある人々は、明主 様の御業を助けていると信じているが、実際には、教会の ための神の計画に大きな混乱を引き起こしていることがよ くある。従って、奉仕者は、人々が好んで滞在し、心地よ いと感じるような空間を作るよう努めなければならない。 無理強いしたり、脅したり、命令したりする態度に反する ように行動しなければならない、 これは夜の時代の宗教の やり方であり、明るく快適なはずの環境を、重く乾燥した 雰囲気の場所に変えてしまうからである。 最近入会を許された人が、明主様の教えに奉仕する道を 歩み始めようと意気込んで教会に行くが、教会に着くと、 「これをしなければならない、あれをしなければならな い、奉仕しなければならない!」と多くの任務や義務を与 えられる状況を考えてみよう。新会員はまだ、これらの義 務の重さを背負うだけの力と霊的な経験を持っておらず、次 第にそれを避ける言い訳を見つける。さらに、おそらく献身を最も難しくしているのは、どんな 計画でも自分が優位に立ちたいという、人類一般に蔓延し ている考え方だろう。自分にとって価値のないものを運ぶ ことに関わる人はほとんどいない。誰かに1kgの鉄を運んで もらい、別の誰かに1kgの金を運んでもらう。誰が、最大の 喜びをもってそれを持ち運び、どこにも無造作に置き去り にしないだろうか? それは想念であり、思考と欲望が結びついたものだ。し たがって、ある行動の結果は、その人が与えられた状況に ついて何を考えるかによって決まる。教会に心地よい雰囲 気を作り出し、その中で相手が気持ちよく、幸せな気分に なれば、新会員は必ず戻ってくるし、そのようなポジティ ブな場所にいることを喜び、感謝して自分の時間を捧げる だろう。この心地よい雰囲気を作り出すためには、形式的 に表面的に行うだけではダメだ。この感覚は内面から生ま れるものでなければならない。もし私たち自身が悲しんで いたり、落胆していたり、心の中に空虚さや寂しさを感じ ていたら、どうやって親切で高揚した気持ちを伝えること ができるだろうか?それは不可能だ!たとえそれを隠そう としても、私たちは結局、この雰囲気を他人に伝えてしま うのだ。 だから私たちはまず、自分の感情を変え、至高が与えてく れるすべてのものに対する感謝のレベルまで高めなければ ならない。これはとても深遠でパワフルなことだ。 神は、幸福が光と幸運を引き寄せ、精神的な強さを増す ように、世界と法則を創造した。その結果、幸福を感じる 人はより高いレベルへと上昇し、さらに積極性をもたらす のだ。誰もが実験的に、自分の心の中に神殿を作り、そこ に神が宿り、常に存在できるようにしなければならない。 そうすることで、神が感じているのと同じ愛を感じること ができ、そうして初めて、どこに行っても、誰と出会って も、幸福を広げることができるのだ。 高みに達した存在は、他の多くの人々をも惹きつけ、彼 らはその存在に幸福を感じるようになる。これと同じよう な状況が、善言讃詞の「世尊の威徳なびかひて」にも書か れている、 観音の徳に引き寄せられる。観音様のそばにい ることで、幸せを感じるからだ。しかし、信念を持っているように見えても、心の中に深い 悲しみを感じているような信徒は、誰にも魅力を感じない し、誰かが近づいてきても、数分も接すると、その瞬間に 気分が悪くなって、その場を立ち去りたくなる。だからこ そ、私たちは自分自身の内面を評価し、思考や感情に有害 なものを感じたら、それを取り除く努力をする必要がある のだ。小さな改善が、すでに非常に良い効果をもたらすだ ろう。 こんな簡単なことが、人間の強いエゴによって難しく なっている。これに加えて、物質的なものだけでなく、自 分の考えや信念、欲望にも執着があるため、たとえ物事が うまくいかなくても、その考えを手放すことはほとんど不 可能だ。しかし、自分を新しくするためには、つまり、毎 日、一瞬一瞬、新しい生まれ変わりを経験するためには、 執着をなくさなければならないのだ。 一日の終わりに、その期間に行ったことをすべて書き出 して、しばらくしてからそのノートを読み返してみると、ほ とんど何も変わっておらず、生産的な結果も出ていないこと に気づく。明主様は、人間が人生において何事においても ポジティブなバランスを持つことの大切さを強調された。 このように、私たちがいかにうまくやっているかを語って も、私たちの生活の成果がそれに見合うものでなければ、 何の意味もない。自分の内面や霊的なレベルを向上させれ ば、物質的にも大きな進歩を遂げることができるからだ。 目に見える改善がない場合は、どこかで間違っていること を意味する。したがって、毎日、霊的なものと物質的なも ののバランスを反省し、翌日にはもう少し改善しようと努 力する必要がある。このように行動しなければ、結局成長 することなく、毎年毎年、毎日が前と同じで何も変わらな い。この内省は、創造主である神に捧げるものでもある。なぜ なら、人間は運命を持って生まれてくるが、神とともに生 き始めると、もはやその運命に従うのではなく、神が定め たことに従い、神の神聖な計画に役立つようになるから だ。これが献身の偉大さだと私は信じている。生まれつき 素晴らしい才能を持っていなかった人が、創造主とともに 努力し、働くことによって、素晴らしい才能を持つように なる。そうすることで、彼らは他の誰かに変身する。 明主様は、人を見ただけで、すでにその人の運命がわ かっていた。幸運な運命に生まれた人々について、彼はよ くこう言ったものだ。彼らは概して、あまり努力せず、信仰 を向上させず、それゆえにそれ以上の進化を遂げなかっ た。しかし、そうでない人たちは、霊的な向上に多くの努 力を払い、皆を驚かせ、進化の道筋で先を行く人たちを凌 駕し、生まれたときよりもずっと良い状態で人生の終わり を迎えた。これが信仰の価値であり、運命の転換である。 神は絶対的な存在であるため、困難な時には常に創造主 の支援を求める、この信念を育むことが必要なのです!私 はしばしば、家賃を払うことさえ経済的に困難な教師の例 を挙げてきたが、その教師が明主様にどうしたらいいか尋 ねたところ、明主様はただこう答えた。"心配するな、すべ ては神のものだ!" つまり、あなたさえも神のものであり、すべては神の手 の中にあるということだ!あなたが神と共にあるならば、 あなたはすべてと共にある!このような単純な論理!至高 の神と共にある者は、何一つ欠けることはない!しかし、 先に説明したように、何も残らない。そのため、文句を言 う人もいるかもしれませんが、法は正義です。しかし、必 要なものは何でも手に入るという考えであれば、それは最 善の状況になります! 今、私たちはサンタ・カタリーナでの仕事を始めている ところだが、こんな壮大な建設費をどうやって支払うの か、みんな心配している,すべては父なる神の御手の中にあ る!計画が進展するにつれて、まるで天から降ってきたかの ように条件が整ってくる。足りないものは何もない。今見 ると、すべてが欠けている!しかし、必要なものはすべ て、高みから適切な時期に「降りてくる」。 重要なのは、次のことに注意を払うことである:神の意 志とは何か?神が望まれることは起こるし、神が望まれな いことは起こらない。心配する必要はない。ある仕事に打 ち込むなら、たとえそれが人間の目から見て不可能なこと であっても、喜びをもってやり遂げることができる。大き く考えればできる!それが神の仕事に献身する秘訣であ り、違いなのだ。ありがとうございます!