教会に来る信者さんを見ていると、何か悩みがあって来ているんですね。医者に行って、「あなたは癌だから、駄目です」 と言われたりしてね。
医者に「20日しか命がない」と言われて、教会に来ていた信者さんがいます。もう死を覚悟して、自分でお墓を作って、遺言も全部して、それから教会に来だしたのです。毎日熱心に通ってくるのです。毎日来ているから「信仰が熱心だ」というのではなく、自分が救われたいから来ているんです。他に治す手段がないので、神様に救われるしかないので、教会に来ているのですね。
また、乳癌の人で手術するのが嫌で、教会に来ていた方がいました。その乳癌が二週間ぐらいで消えてしまうのです。ところが、その乳癌が消えた段階で、その人も消えちゃうのです。もう教会に来なくなってしまう。「癌をよくして欲しい」から教会に来ていたので良くなったらもう教会には来ないです。目的は「癌を良くしてもらいたい」だけだからですね。だから、僕は、「あんまり早く治さない方がいいぞ」と言っているのです。あんまり早く治すと、来なくなりますからね。それがいわゆる、下魂です。中魂から下魂ですね。
乳癌で、本来なら医学では乳を切っちゃうわけですね。そこを切らずに浄霊で御守護頂いた訳ですよね。救って頂いたら、普通「ありがたい」という気持ちが起こってくるはずですね。救って頂いたので、「何とか人のためにしたい」とか「神様の信仰がしたい」というのが普通ですよね。そういう気持ちも起こらず、良くなった段階で、忘れてしまうというのは下魂ですね。魂が目覚めていないんですよ。
上魂の人だったら、涙を流して喜びますよ。神様に手を合わせて、感謝して、神様に使って頂きたい、御用がしたい、という信仰の芽が吹いてきますね。それが上魂ですね。魂が上にあるから分かるんです。魂が下にあると、何も分からないのです。いくら御守護を頂いても分からないですね。本当にそういう人は多いです。それは口で言っても駄目です。
教会によってはそういう人を脅かすところもありますね。
「あんた良くなったのに、そんなことしたら、また悪くなるよ。今度、癌になったら助からないよ」とね。そうすると、そういう人は怖いから来るようになるのです。それは本当ではないのです。下魂の人は怖がらせて連れてくるしか仕方ない面もあるんですがね。自分で魂が開いて、喜んで来るというようには、なかなかいかないんです。
毎朝、お参りに来る人がきますね。知らない人は「あの人、毎朝お参りに来て、熱心だな」と思うわけです。遠くから、毎朝通ってくるのです。よく調べると、熱心でもなんでもないのです。その人も肩の辺りに癌があって、救われたいから来ているのです。来ないよりは良いですけどね。その人も良くなったら、来ないだろうと思っていますよ。病院に来ているようなものです。
いろんな人がいますね。病気でも何でもなくて、「ありがたい」と思って来る人もいますね。体も元気で、何不自由もないのだけど、神様のところに来るのが楽しいのです。これは上魂ですね。そういう人は少ないのです。教会に来るのが楽しくて仕方ないというのは上魂ですよ。ただ神様のところに来るのが楽しいのです。こういう人は立派ですよ。自分の心が開いているから、ご神前に来ると楽しいし、幸せになるのです。人のためにという気持ちがあって、浄霊がしたいのです。そういう人は偶にいますね。1000人に1人ぐらいの割合ですかね。そういう人は間違いなく上魂ですね。
苦しい時の神頼みで、苦しみがなくなったら、「神様さよなら」これは下魂です。
そういうふうに見るというのは裁きではないのです。裁きというのは「この人は駄目だ」「この人は悪人だ」というのが裁きですね。それを判断するというのは智慧なんです。「この人は上魂か下魂か、善人か悪人か、信仰があるかないか、誠のある人か誠のない人か、人に対して愛情のある人かない人か」と見るのは智慧ですね。裁いているのではなく、はっきりと見えているのです。智慧がないと、皆いっしょなんです。それではいけないんです。「この人は下魂だな」と見れば、脅かさなくてもいいけど、義務を与えてやると良いですね。自分で御用しようという気持ちがないから、御用を与えてやるのですね。子供のように扱うのです。上魂の人は大人だから、ほっといても大丈夫なんです。上魂の人はこっちが、びっくりするような素晴らしいことをしますね。それは魂が上なんです。その判断ですね。判断ができるように魂が磨けていないとね。
ブラジルにはこういう諺があります。
「麦を刈って、麦を脱穀すると、石と麦が混じっているものが出てくる。それを分けるというのは智慧だ」
この人はこの辺にいるんだなと分かる、それは裁きではないんですね。智慧証覚があるというのは物が見えるということですね。
長く御用をしていると面白いものです。僕なんかも、もう50年くらいになるでしょ。50年前に知り合った青年でも子供でもいいですよ。その頃10才くらいの子供が、今は60才くらいになっているわけですよね。ずっとその人の人生を見てきて分かるのは、もう10才くらいの時に既に人生が決まっているんですね。幸せになる人はその辺からもう違うんですよね。不幸になる人はその辺から違うんです。幸せになる人は人のことをものすごく気にするんです。人のためにすごく役に立つんです。そういう人はどこに行っても好かれるんです。人のことが分かるからね。自分のことはあまり考えないで、人のために尽くすんですよね。そういう性格を生まれつき持っているんです。愛情が深いというか、誠があるというかね。いつも人のことを気にしているんです。
子供でも非常に、我の強い、自分のことしか考えない子供がいるんです。人のことなどどうでもいいのです。身勝手というか、自分のことだけしか考えない。人のことは一切関係ない。それは三つ子の魂がそのまま行ってしまうのですね。今、そういう人が60才ぐらいになっていますが、孤独で寂しくて、上手くいかないんです。不幸なんです。そういう人を振り返って見てみると、小さい時からそうなるのが決まっているんですね。
それは物を見る一つの判断ですね。今、子供が遊んでいるのを見れば、だいたいその人の将来が分かるんです。「この子は大丈夫だな」とか「この子は何か問題起こすな」とか。それは親がよく見てやらないといけません。だけど変わらないですけどね。驚くほど変わらないですよ。親が教育したんではなくて、生まれた時に持って生まれてきたんですよね。少しは変わるけど、そのままいっちゃうんですよ。
人間を見た時に、心が良い人なのか、誠のある人なのか、頭だけの人か、判断できないといけませんね。今の世の中は心が良くて、頭の弱い人がいじめられています。天国になってくると、それが反対になってくるんですね。頭は少々悪くても、心が良い人が伸びてくるというかね。信仰の世界はそうですよ。頭が良い人よりも、心の良い人が出てくる世界ですね。