松本龍の発言が国民の自立(自律)を促す意図をもっていたかどうかは定かではないが,彼の発言の客観的意味はそこにある。


阪神淡路震災の時,被災者を元気づけるつもりで,ボランティアの人が,「一緒に夕飯の支度をしましょう」と呼びかけたら,被災者に「何を言ってるの,それはあなたたちの仕事でしょう」と言われたという話がある。こんな発言をする被災者は,ほとんどいないかもしれない。しかし,野党や財界やマスコミにあおられて,行政が,国が何もしてくれないと不満を言う被災者を見ていると,先の発言を思い出す。


原発事故による被災,とりわけ,近隣の特別の補助金を受け取っていない地域の住民に関しては,東電はもとより政府の責任を追及するのはうなづける。

しかし,原発の特別補助金を受け取っている自治体の住民は,被災の保証金を前もって受け取っているのである。九電の原発が立地している佐賀県玄海町は町の予算の6割が補助金によって成り立っており,原発がなくなったら,町の財政は成り立たない。町と原発は,運命共同体である。地域の住民は,原発賛成の首長や議員を選挙で選ぶという自らの行為で,原発との運命共同体を選択したのである。



地域の住民が「東電と政府が安全だといった」のに,だまされた(想定外だ)と言っているのを聞くと,東電が先の地震と津波を想定外だといって,責任逃れができると思っているお粗末さと二重写しになってくる。

私も原発には反対であった。多少は反対運動にも参加した。だが,気が付いてみれば,30%の電力を原発が賄うようにまで,増加していた。それを我々は阻止できなかった。その限り,事故が起こって被災すれば,その結果は引き受けなければならないと思っている。


もちろん電力会社や政府を批判もすればその責任を追及することもする。しかし,自分に降りかかった結果は,自分で引き受けなければならないと思っている(私にその気はないが,国外脱出も引き受け方の一つであると言われれば,それも認めるが)。その程度の覚悟は持って生きている。


九州電力のある課長が,説明会に,原発賛成の立場から意見をメールするように,指示したことが問題になっている。指示されたら,メールするくらいなら,指示される前にやれ,といったら暴論だろうか?


日本の社会では,「世間が考える,個人は考えない」と言った人がいたが,おそらくそれは真理である。個人が自分の言動,生き死にに責任を持つことを抜きには,何も解決はしないだろう。それがあってはじめて,助け合いは効果を発揮する。


国や行政の援助が遅れていることに文句を言っている人によってではなく,自分たちの力で何とか復興をはかろうとしている人たちによって,東北の復興は成し遂げられるであろう。

7月5日,松本龍復興担当相が辞任した。任命されたのが6月27日だから,わずか9日の在任であった。


「知恵を出さないやつは助けない」という発言が被災者を傷つけたこと,村井知事には漁港集約方針について「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと何もしないぞ」と命令口調で語ったことが直接の理由だという。


彼の語り口調に問題がなかったとは言わない。流行りの表現でいえば「上から目線」であったろうし,いささか乱暴であった。おそらく,直接的には,蓄積されたストレスと待たされたイライラによるものであろう。菅政権に打撃を与えるためというのは,うがちすぎた見方であろう。せいぜい,いやいや引き受けさせられた役職の投げ場を求めたという程度であろう。


確かに,被災者から見れば,我々の苦しみを考えもしないで,といいたくもなるだろう。だが,政治家たちからすれば,我々がそこで生きている「政争」の重大さを考えもしないで,ということにもなる。政治家たちは,「政争」に命をかけている。彼らには,「手段(政治家としての出世)のためには,目的(国民の福祉)を選」んでいる暇はない。それが政治家が政治家として生きるということである。「権力をとらなければ,何も実現できない」という現実が手段と目的を統一させているのである。

誰かが言ってたように,政治とは「あいつは敵だ,あいつを殺せ」というところに真髄がある行為である。それは経済活動において,「利潤がすべて」であるのと同じことである。現代社会においては,人間の生活は,それらの材料であるにすぎない。


横道にそれた。本筋に戻そう。


松本龍が語った内容は,それほど変なことだろうか?

市町村の行政は,県は,国は,何もしてくれない。こんな発言は聞きあきた。

瓦礫が片付かないのも,仮設住宅の建設が遅れているのも菅総理の責任などというばかげた発言がまかり通っている国は,何か変である。


国民全てが,「親方日の丸」,「お上の下」で生きている。言葉を替えれば「百姓は,生かさぬように,殺さぬように」という権力者の支配のもとに,明治も150年になるというのに,どっぷり漬かっているのである。

松本龍の発言に,何か隠された意図があったとすれば,菅を引きずり落とすなどというチッポケナものではない。国民の国に対するもたれかかり,国民の側からする従属に警鈴を鳴らしたのである。

それにもかかわらず,「政治家は,国は,私たち被災者のことを何も考えていない」などと被災者が嘆いているとすれば,彼のショック療法も,今回は空振りだったのかもしれない。

***** つづく *****

6月2日,管総理に対する不信任案が,反対多数で否決された。

否決されるとすぐに,「辞任」を約束したか否か,辞める時期はいつかについて,管・鳩山の間で言い争いが始まった。

辞めると宣言した総理が政策遂行が困難なのは,常識である。たとえ6月いっぱいで辞める場合でも,それは裏約束のままにして,管が表向き,少なくとも来年一月までは辞めないと言い続けることを容認するくらいの度量は鳩山にはなかったのか。

たしかに,そうしたことができないところが,民主党の素人政治のよさでもあったのだろうが。


それはともかく,私には,依然として管降ろしの理由が明確に語られているとは思えない。

西岡参院議長は,管総理のどこがダメなのか,という問いに「全て」と答えて得意顔であった。また石原自民党幹事長は,管が辞任した後は「信頼できるもの同士での話し合い」で,政策遂行ができるという。

箸の上げ下ろしから息の仕方までいやだなどという倦怠期の夫婦ではあるまいに,「全てイヤ」などと言って何か語ったと思っている感覚はおよそまともな政治家のそれではない。「全て」とは「なにもない」と一般的には同じであろうが,何もないということはないだろうから,この場合は,口に出しては言えないということであろう。


口に出しては言えないこととは何だろうか。

それが石原幹事長の「信頼できるもの同士」という言葉に端的に示されている。近代社会においては,とりわけ日本の政治の中では「信頼できる関係」とは「利害関係が一致している関係」と同義語である。

管降ろしの理由があいまいなのは,ほんとの理由をだれも口に出せないからである。以前も指摘したように,それは単純に,政治家(およびその背後の企業)たちの間での利権争いにすぎない(また,同じことだが,かつて,自民党がいかにでたらめな原子力行政をやってきたかが,次々に暴露されるのを恐れているからである)。


たとえば,福島第一原発の1~4号炉の廃炉に至る過程で,どれくらいの金が動くか考えてみただけでもわかる。汚染水の処理だけでも,少なくとも千億単位,場合によっては兆単位の金が動く。管はこれを仏アレバ社に任せようとしている。当然国内の企業にとっては「トンビにアブラゲ」である。当然国内企業による政治的働きかけ(政治献金)は激しさを増す。


また,「復興」に動く金は,私など個人の想像を絶する(おそらく年間の国家予算,約100兆円をうわまわる)。土建業者をはじめ多くの企業が動く。政治家にとっては100年に一度の稼ぎ時である。だが,それもたとえ間接的にせよ権力の一部に食い込んでこそ,実を上げることができる。中枢に近づけば近づけるほど,成果は大きい。


かつて,自民党政権の時代には,社会党の議員にまでも,おこぼれを渡すことによって,安定的な利権構造が出来上がっていた。それが,民主党政権下で再編されることを恐れる者たちが管降ろしに必死なのである(小沢のたわいもない献金問題に,自民党があんなに必死に追い落としに動いたのも,小沢による利権構造の再編の露骨さに恐怖感を持ったからである。今回は,小沢と共闘することで再編を阻止しようとしているだけである)。


お金がその出所によって区別されないように,金さえ得られるのならば,昨日の敵は今日の友,敵の敵は味方なのである。ただ金が得られることだけが政治家にとっての正義なのである。

管では何も解決しないとみんな言ってる,と政治家たちは言う。だが,国民の80%以上は,今変えなければならないとは思っていないのである。