痛ましい事件が絶えない・・・
自分だけ安穏としていていいのかという思いもある。
今年9月に三浦綾子さんの「母」を劇化上演するが、
それまでの期間のもどかしさを感じながら、
いささか暗い話になるが、いまの思いを書いてみたい。
私たちが生まれてきたのは、
人を殺すためにでも、殺されるためにでもない。
人を愛するために生まれてきたのだ。
(三浦綾子)
世界中、争いは絶えない。
自爆テロ・・・
殺戮、騒動、対立、資源、権益の奪い合い。
通り魔事件、家族同士のいがみ合い、
親が子を、子が親を、或いは兄弟姉妹間での
溝埋まらない争いなど・・・
広大な宇宙の中に、
地球は超驚異的な働きによってこんにちを迎えている。
そこに存在する生命体も、非生命体もすべて、
神秘的な誕生と育みを受けて今日に至っている。
しかし人類は自らを万物の霊長として位置づけ、
破壊を繰り返し、多くの生命を絶滅させ、
その欲望を達成させるための蹂躙を重ねている。
そして、人の世の中においては、
何時の世も頂点にいるものは常に権益と向き合い、
地位保全に汲々とし、攻撃の手段を選ばず。
底辺にいるものは常に命と向き合って喘いでいる。
その時々に繰り返される悲惨は、
喉が潤えば忘れ去られる。
かつて(昭和初期)の日本を生きた人々に、
飽食などという時代の来ることを想像し得たろうか。
コンビニで時間を過ぎると廃棄される弁当を、
もし当時の日本人に見せたら・・・何というだろうか。
今どきの若者にこんなことを言おうものなら、
「北朝鮮じゃあるまいし」
(言われたことがある)
戦争もそうだ。
ゲーム感覚でとらえられている若者もいる。
数十年前の出来事も忘れ去られようとしている。
人間の歩んできた歴史のすべては
私たちの足跡なのだ。
「何を今更・・・」
といえるような歴史はひとつとてない。
立ち止まる必要はないかもしれない。
しかし、振り向くことは必要ではないかと思う。
ただただ前を見て、突っ走るのではなく、
さまざまな進歩や発展には功罪あい半ばするという
二面性のあることを常に考える必要がないだろうか。
秋葉原の無差別殺傷事件の公判のニュースや、
ロシアでの自爆テロ事件、少女傷害事件と
サッカーアジアカップなど様々なニュースが渦巻いている。
勿論、サッカーの韓国戦勝利を喜ぶのもいい。
だが、その前後の痛ましいニュースに、
「またかよ」
「へえ、考えられないよな」
「おれには出来ねぇな」
「そうか?」
「アッ八ハッハ・・・」
こんな反応を耳にする。
これは理解できない・・・いや許せない思いだ。
しかし、こんなことを書いている我輩も
その人間の一人・・・
そして、
我輩は何も言わずに、そこを立ち退いた。
・・・これも許せない。


































