昨日港区のカルチャーで「表現教室」があった。
今回初めて参加した男性でNさんがいる。
昨日は夏目漱石さんの「吾輩は猫である」を朗読した。
他の人たちは芥川龍之介と向田邦子さんの作品だった。
読み終わったNさんに、
「速いなァ」
と言った。
「速いですか?」
「速い、速すぎる」
「自分ではゆっくり読んでいるつもりなんです」
「それNさんのスピード感覚ね?」
「ええ」
「吾輩は猫でしょう?」
「あ、そうか・・・これ、猫ですね」
「ええ」
「そうか。その感覚持てなかったです。ぼく、やっぱり素人ですね」
相手は人間ではなく猫なんだァとしみじみ言う。
「でも猫にはなれないでしょう?」
「でも、これ猫にならないといけないでしょう?」
「なれますか?」
「さあ・・・」
「これを書いた人は人間だし、猫じゃないですよ」
夏目漱石
「でも吾輩は猫だって名乗っているし」
こんな議論になるはずが、途中でま~るく収まってしまった。
私たちがよく耳にする言葉で、
「相手の身になって考える」
とか、
「気持ちはよく分かります」
などというものがある。
しかし、
議員たちが「国民のため」とか、
「みんなの幸せのため」
「国民の身になって・・・」
などという言葉が実現されたことがなかったように、
相手に「どれだけ接近できるか」
ということしかできないのではないのだろうか。
「猫の気持ちになりました」
などという言葉を聞いたら、
「この人、錯覚を起こしている」
のではないかと思うのです。
とまぁ、こんな話になりました。
どんなものでしょうか・・・![]()



