演劇人生 -26ページ目

演劇人生

今日を生きる!

じゃ、俳優になるための勉強って何?


日々の生活を俳優としての意識的な生活に切り替えること。

俳優になるためのすべての材料は、

その大半が日常生活の中にあるからです。


まず初めに、普段の生活で意識下にあった身近なところに、

俳優として目を向けること。

~という意味は、

在って当たり前、いて当たり前という現象や出来事、

人、ものなどを角度を変えたりしながら、

もう一度(いや、二度、三度と)見直すことです。

「たんぽぽ」を見直してみる。

先ず、名前からでもいいです。

彼の正式名称は蒲公英と書きます。

「いちょう」も公孫樹さんなんです。

タンポポや銀杏じゃないのです。

「へえ、こんな立派な名前だなんて!!」

とびっくりするでしょう?

面前で、一度立ち止まりお辞儀をしてもいいような名前じゃないですか。


役者の勉強の第一歩はこれじゃないかと思います。


声は出すものではなく、

音としてそこに存在してますし、

いくら「あえうおいおあお」

とか「かけきくけこかこ」

なんて声を張り上げてもセリフは言えないのです。


どこでも誰も教えてくれないものを学ぶ自分をつくるのが先決かなァ・・・

と思います。


役の人物に近づいていける自分づくりです。

感性を磨く・・・この生活を気づき(築き)あげる。

「役に近づく」

これこそが役者の仕事です。

シェィクスピアのハムレットを考えて下さい。

女性ならジュリエットでもいいかなァ・・・

彼や彼女は、一歩も近づいてきてくれません。

あなたが近づいていくより方法はないのです。

大声を出して呼んでみたところで、

顏すら出してくれません。


続く。


民藝の作品を観たのは俳優教室に入って後のことで、劇団民藝という劇団がどんな傾向の作品を上演しているかも知らなかった。


「今度、秋の公演で出演できるらしい」

という噂が流れた。

教室自体は多少の緊張に包まれたが、

「火山灰地」という作品の村祭りの場面で、

出店をひやかして歩く村の若い人らしいことがわかった。


いずれにしても、私の初舞台になった。


俳優教室は2年間が一区切りで、

研究生になれないものは延長するか卒業する。

何年いたから研究生になれるというものではない。

「やめろ」とは言わないが「やめる」というのは、

各人の自由である。

こういうことが俳優教室の決まりのようだった。


半年が終わる頃に、

実習公演参加という学科が加わった。


劇団の本公演の作品の稽古に参加し、

配役された役者が休んだりしたときには、

その役を代役する役目を持ち、

本公演の前に、実習公演参加者だけで、

観客なしの公演を1回行うという画期的なものだった。


「初恋」という作品で、

私は清水将男さんの演じるチーホンという役をやることになった。

何せ、最初の大仕事だ。

稽古場で何回か代役をし、実習公演班でも稽古を繰り返した。

「いいよ、豪ちゃん」

と何人かの先輩に言われたことが、

多分に力になったのだと思う。


ところで役者の勉強についてひとこと。

タレント養成所という学び処や、

俳優学校なる学び処が数えきれないほどある。

そのカリキュラムを見ると、

発声訓練、殺陣、ダンス、声楽等々盛りだくさんだ。

テキストには、

「あえいうえおあお」

「外郎売」

「早口言葉」

その他、

お芝居の一場面や、テレビの数シーンがピックアップされて掲載されている。

こんなものは役者の勉強になるとは思えない。

そりゃ、何もしないよりはした方がいいかもしれない。

が、お金が勿体ない。

・・・私は、そう思う。

俳優教室


校長は宇野重吉さん。

最近の若者にはなじみのない人が多いようだが、


わが国の演劇界の大御所といっていいだろう。


さて俳優教室のカリキュラムは

発声

体操

日本新劇史

西洋演劇史

伝統演劇

戯曲論

社会科学

心理学

特別講座

などである。


大学で演劇学を専修した私にしては、

もう一回大学に戻った感じだった。

その殆どが座学で、

午前十時に始まり午後4時までである。

一緒に学んでいる数人から、

「こんなこと必要なの?」

という疑問が呈されていたが、

土曜、日曜を除き毎日行われていた。

一人は校長に聞きに行ったようだ。

すると、

「やめてもいいんだよ」

これだけ言われたそうだ。


講師はすべて著名な人ばかりだった。

驚いたことに、

戯曲論には「夕鶴」などの劇作家、木下順二さんでしたし、

社会科学には前衛党の文化部から、

心理学には社会心理学者、南博さんという超一級の講師をそろえていました。


「これは大学のそれとは違うな」

俳優づくりとは人間づくりなのだという感触を得たのだった。

続く。


散々な試験に、

偶然にも一緒になった早稲田の同級生に、

「おれ、駄目だと思うから帰るよ」

といい残し信濃町に歩いた。


宇野重吉さんに「実力で入ります」

なんて偉そうなことを言ってしまった自分を恥じながら神宮外苑を歩いている


と、スワローズの選手たちが練習をしていた。

当時(今年も変わらないが)弱いチームだった。

その中の一人が声をかけてくれた。

(それが松岡投手だったか杉浦選手だったか・・・)

「どう、練習を見ていて?」

という質問だった。

「何だかタランタランしてますね」

というと、

「これじゃ上へは行けないよな」

自戒の言葉が返ってきた。

「頑張ってくださいよ。国鉄時代からのファンなんだから」

それには笑顔を見せてくれ、

「よし、頑張るよ」


突然の出来事だった。

人にこんなことを言っておきながら自分は何だ。

家へ帰ろうとした負け犬じゃないか。

ここで再度、生き方を選択した。

「戻ろう」

青山一丁目に向かうことにした。

自分で不合格と決めてどうする。

「合格」「不合格」をこの目で確かめないでどうする。

どちらにせよ、おれの人生これからだよ。


合否の発表は始まっていた。

「・・・?」

なんと伊藤という名前があるじゃないか。

早速手続きをすませて意気揚揚駅に向かった。

スワローズの選手を見つけたら・・・

と思ったが練習は終わっていた。


続く。

試験の日が来た。

30名の募集に対して100人はいる。

これでも、書類選考を通過した人だという。

朝10時から開始して夕方には発表するというから大車輪の選考である。

内容は、

逆立ち(補助者に向かって逆さに立つ)

ドレミファ(ピアノの後にドからドまで)

面接(試験官2人を前に)

の3点セットだった。


逆立ちをさせられるなんて考えの中になかったので、

「あゝ、これで終わりだ」

と思いながら、

「よいしょ!」

と声を出したが補助者に足が届かず、

「もう一回」を三度繰り返した。

「もういいですよ」

こんなことを言われておめおめとひきさがれるか・・・

この思いで勢いをつけたおかげで、

足は補助者に届いただけではなかった。

勢いに押された補助者も一緒に倒れてしまった。

面接では「何処かで見たことのあり女優さんが質問者だった。

「尊敬する人物は?」

「はい、カストロとゲバラです」

女優さんは大きな口を開けて笑った。

「演劇人では?」

「・・・並木正三です」

「誰、それ?」

「回り舞台を発案した人かなァ」

それらの答えが全く不満そうだった。

「はい、これで終わり」

といった後に、

「そういえばカストロに似てるかも」

という声が後ろから聞こえた。


続く。