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演劇人生

今日を生きる!

劇場のかみさま





劇場といってもいろいろある。


日生劇場や神戸国際ホールのような大きな劇場もあるし、


目黒ウッディシアターのように小さな劇場もある。


いろいろな劇場での演劇公演にたずさわってきた。


今はオフィスフロアーに変わってしまったが、


劇団のフランチャイズ的な存在だったのが


六本木駅0分のオリベホールだった。


このホールがなくなって以来、


港区の麻布区民ホールをよく使うが、


それぞれの劇場には特有の雰囲気がある。





劇場には「演劇の神様」がいる。


そう思い始めてから30年は経つ。


いまの劇団を起ち上げたのが14年前。





演出として関わる舞台では特にそれを感じる。


以前は鬼が棲んでいると思ったことがあったが、


今は間違いなくいるのは神様である。





八百万の神の中の一つかもしれない。


紛れもなく演劇の神様だ。


この神は、悲しみに涙してくれるし、


怒りに眼をむいてもくれる。





劇場はさまざまな人物を生み出す場であり、


活かしてくれる場でもあり、千秋楽には野辺送りをしてくれる。





人々の思いを凝縮して、一つの世界を構築してくれる。


ある役者はハムレットに呼吸を与え、


ある役者はオイデープスに涙を与えた。


場合によっては出来損ないのハムレットだったかもしれない。


だが印した軌跡は残り続けている。





その大向うに演劇の神の存在がある。


ギリシャ古典劇は神の祭りとして上演された。


ディオーニソス祭だったかな?


ま、それはそれとして、


劇場に入ると、演劇の神の息遣いを感じる。


わたしにとっての劇場は常に神聖な場所なのである。


声って出すもんじゃないんだよ。


さて、先入観念のすべてを除けて考えてみたい。

声は二の次にあり、

言葉なんて三の次、四の次かもしれない。


「はい」

という返事一つをとっても、

ドレミファの何処かにあるかもしれないが、

「ソ」の音でしかありえないとすれば、

その「はい」でなければならないのです。

「レ」だったりすると、

「本当にそうだと思っているの?」

ということになるかもしれません。


つまり、声はどの音かで、

最初から存在しているのだというのがわたしの考えです。

「最近、読み合わせをちゃんとやる劇団が少なくなった」

という人がありました。

わたしもそう思います。

以前は、およそ一ヶ月は読み合わせに費やしました。

その中で、

セリフの音を吟味したものです。


Aという役の人物がいます。

その人物が、「暑いね、今日は」と言います。

「暑い」の音は、すでにあります。

その音さがしが読み合わせの第一歩です。


セリフの一つ一つ、(これは動きにも通じます)

に、その人物でしかあり得ない、

その状況でしかあり得ない、

その相手にしかあり得ない、

その時の気分だからこそ・・・の音があるはず。


それを考えると、

5回や6回でOKが出るとは思えないのです。


だからこそ、

役者には声(ボイス)づくりという大変な基礎的勉強が必要なのかもしれません。

独りよがり

この種の芝居を観るのは辛い。
特に、ちっぽけな劇場で、
途中に立って帰るわけにもいかず、
じっと辛抱して心の目と耳を閉じ、
「あゝ、何故こんなところにきてしまったのか」
・・・と、誘ってくれた人を恨むわけにもいかず、
何の調査もしないまま、
劇場に入ってしまった自分を責めるにも、
せいぜい2~30分の時間もかからない。
拷問だ!
この時間をもっと貴重なものに使えるはず・・・
こんな思いになっている時に、
数人の笑い声が耳に入る。
「何が可笑しいのだろう?」
身内笑いだとわかる。
お兄ちゃんが出ているらしい。
そのお客さんの横にいるのは友人らしい。
「あんなことやるなんて信じられない」
「あるんだから、ああいうところが」
そんなやり取りをするささやきが聞こえる。

あ、そうか・・・客席の観察をしていればいいんだ。
斜め横を見上げていると、
真横にいる人も同じように舞台は見ていないようだ。
真っ暗なのに文庫本を見ている。
「えっ、活字が見えるの?」
と思うが、目を本に落としたまま動かない。
と、寝息らしい音が聞こえてきた。
「そうか、寝ているんだ」
だが、わたしは鼾かきだ。
こんなに静かには寝られない。
が、意識が遠退いていきそうだ。
横の人に誘われているようだ。
「まずい!」
目をしばたく。
と就眠を断ち切るような笑いが起きた。
また、さっきと同じ人が笑っている。

このような2時間を過ごして劇場を出た。
「面白かったね」
さっき笑っていたお客さん二人が話していた。
そうか、身内とはいえ、面白いと思う人がいる・・・
これでいいのかもしれない。

芝居には独りよがりなんてないのかなァ・・・
でも、これに何千円と払っている身内以外の人は、
何を思っているのか・・・
駅までの道、みんな無言なのでわかりようもない。

招待されたわたしが贅沢なのだろうか・・・

ことば


最近、役者の勉強をしたいという若者が来ましたが、

気になることばの使い方がありました。


「“ら”抜きことば」が話題になったことがありますが、
テレビ画面では、映像の中の人が「ら」を抜いても、
テロップで補っている場合が多いです。
「食べれる」はテロップで「食べられる」となるように。

しかし、無声音、有声音、濁音、鼻濁音、
無声音や有声音などは地方によって違いがあるので、
そのままにされているのが一般的なようです。


しかし最近目立つ明らかに「?」言葉に、
丁寧語として使っているのかもしれませんが、
「~になります」が耳につきます。
以前、豚の角煮を注文したのに、



間違って焼豚を持ってきて「角煮になります」と言われ、
「えッ、これがこれから角煮になるの?」

そして「間違えた」と持ってきたのがこちら、


紛れもない角煮そのもの。

「角煮になります」

「もうなってるんでしょう?」

いささか意地悪な人間に思えるかもしれませんね。

これは例外中の例外としても、

テレビでも「~になります」が思いのほか多い。

或いは、レジでのことばに、

「おつりになります」は

「おつりです」でいいし、

「680円からお預かりします」

「680円お預かりします」でいい。


有声音を無声音、濁音を鼻濁音をなおすのは多少時間が必要かもしれませんが、「ら」抜きことばなどは、意識すれば簡単になおせます。


役者の勉強というのは、

日常の中に教材はころがっている・・・

といえる一つかもしれません。


「演じるな」

「芝居をするな」ということである。
役者の仕事である役づくりとは何か。

師匠と尊敬する宇野(重吉)さんから、
少なくても3回は言われた言葉です。

一つは、
「うちのお姉さん」で、
もう一つは、
「イルクーツク物語」
それに、
「審判」
という作品でだった。

この「演じるな」という意味を理解するまで、
数年の時間を要した。
頭ではわかったつもりでも、
自分を理解しない限り実際の場で役に立たない。

「演じる」のでは、
つくられる人物の呼吸は望めないというのだ。

そういうタマにならなけりゃ駄目なんだよ。
ブツだよブツ・・・

コチャコチャ、お前がつくるような役じゃないんだよ。
もっと相手はでかいんだよ。
ブツじゃなきゃならない。
天ぷらだのフライだのの、衣で隠しちゃいけないんだよ。

つまりわたしの役づくりは、
ネタになる海老や獅子唐や穴子そのものではなく、
衣しか見えないということなのだろう。