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演劇人生

今日を生きる!

大学時代からの知り合いに会った。

本職は放送作家だが、

著作はいろいろあるらしい。

芝居も書いてもらって上演したことがあります。

「海賊オーロカーナの冒険」という詩情溢れる物語で親子劇場などには最適なものでしたが、大赤字に終わりました。

あれから20年以上・・・

「お互い変わらないなァ・・・」

などと顔を見合わせながら1時間30分、

赤坂見附の上にあるサンマルクなる喫茶店で語り合いました。

で、出されたのが四本の作品。

上演するかどうかを今朝から読み始めました。

因みに、彼の作品のいくつかを紹介しておきます。

アマゾンなどでも販売しています。

関心をお持ちでしたら・・・




     

2月6日はブログの日♪今日はブログを書こう! ブログネタ:2月6日はブログの日♪今日はブログを書こう! 参加中
本文はここから


人間のいるところ争いは絶えないようだ・・・

暗澹たる気持ちになります。

戦争、侵略、略奪と環境破壊の世紀と評した20世紀から21世紀へ・・・

私たちはここから何を学んだのでしょうか。

人間には学習能力が備わっているはずだと思うのですが。


先日後藤健二さんが、いわゆるイスラム国によって殺害されました。

私たちの身の回りでも殺人事件が急増しています。

人が人でなくなるような時代に向かって歩んでいる・・・

そんな思いに駆られてしまいます。

命って何だろうか。


身の回りには沢山の命があります。

道端で見かけるタンポポやぺんぺん草にも、

石ころの下を住まいにしているミミズにも命があります。

雨に打たれて震えながら歩く犬を見て、

「行くところがあるのか」と心配したり、

家に入れず玄関前でドアを見上げる猫を見て、

「飼い主は?」と心砕いたり・・・

そんな心を持っていても、

人の命に、どうして無関心になれるのだろうと思います。


やはり人が人でなくなる時代って来てしまうのでしょうか。


いまならまだ間に合うのでは?

そんな時代が来ないようにするには、

「いま」が大事なのではないかと思います。


国会で繰り広げられている論戦を聞いていて大きな疑問を持ちます。

後藤さんがとらえられているのを承知の上で、

中東で大風呂敷を広げ、何故いい顔をしなければならなかったのか。

テロを許さない気持にも根本的な考えの違いを感じてしまうのです。

また、後藤さんの亡くなったことへのコメントに、

ご家族のご心痛を思うとことばもない。政府として全力で対応して来たが痛恨の極みだ~云々ということでしたが、

「彼を救えなかったことは痛恨の極み」

或いは「彼を殺させてしまったことが痛恨の極み」

なのではないのですか?

その後、憲法9条を変えるだの、特定秘密保護法によって内容は明るみに出来ない等々・・・

人もそうですが、この国もろともに何処へ行こうとしているのでしょうか。

こんな危うさを感じているのは私だけなのでしょうか。


きょうはブログの日ということです。

 人が人であって はじめてのブログかな

と思います。

「いまならまだ間に合う」

わたしは、そう思っています。






2月6日はブログの日♪今日はブログを書こう!

2月6日はブログの日♪今日はブログを書こう!

朗読発表会を観(聴い)てきました。


「う~ん、朗読って難しい」

実感しました。


わたしは脚本を書いていて、

たいていの作品に朗読ではなく「語り」を入れます。

三浦綾子さんの作品が多いのですが、

「母」でも「青い棘」「この重きバトンを」でも、

昨年の「貝殻」でも語りを入れました。

しかしこれは、小説の文章を語り用に切り替えたつもりです。

「語りのおかげですんなり劇に入って行けた」

という反応を欲しいがために入れています。


さて、朗読の難しさについてひと言。

作家が、

これを声を出して読んでもらおうと思っていたかろうかと考えてしまうのです。


わたしが作家だとしたら、

「でしたら、それ用に書き直します」

と言うかもしれません。


特に朗読で気に入らないのは、

活字を読まれることです。

朗読者の表現と作者の表現の中庸をとる・・・

それは本を前にした表現ですから。


芥川龍之介さんの「藪の中」や「蜘蛛の糸」程度なら、

半月も稽古すれば記憶の中に納まるのではと思います。

「朗読」というより「語り」にすることで、

表現者による解釈として聴けるように思うのです。


今回の朗読の夕べは残念ながら中途半端だったかなと思いました。

明智光秀の娘で後にキリスト教の洗礼を受け細川ガラシャとなる玉子なる人物がいます。


妻に迎えた細川忠興は玉子を人前に出すのを極端に嫌いました。


男はみなその美しさに釘付けになるからだといいます。





ある遠方の戦場に夫の忠興が送られた時、女好きで有名な秀吉に茶席に招かれた玉子は懐剣を忍ばせて行ったそうです。


案の定、茶を呈するのに合わせ玉子の近くににじり寄り、胸に手を差し入れようとしたとき、後じさりする玉子の胸から懐剣がポトリと畳の上に落ちました。


秀吉は驚いて飛びのいたという話があります。





そのガラシャが石田光成の人質の求めに従わず、


散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ


という辞世の句を残して世を去りました。





、「細川ガラシャ夫人」の脚色にとりかかっていますが、


果たしてこの玉子を演じる女優は・・・


と考えるとつい筆が止まってしまうのはやむを得ないにしても、


いざ稽古に入る前に探し当てられるだろうかというところに立たされています。


10代のガラシャ時代ですが、


「わたしがやりましょう」という女性はいないでしょうか。





自分で「わたしは美しい」と言う気持ちを持っていないといけません。


その美しさが心の美しさであれば、更にいうことありませんが。





その母親明智煕子は三園ゆう子、
また第二部での玉子は三園ゆう子になる予定です。
それを考えれば、三園に似ている方がいいのかもしれません。









































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































今年11月公演の予定です。


呼吸
一口で言っても難しいものです。
役者の呼吸のジャンルに入る、
息遣いや間の問題・・・
この間の問題にも広さと奥深かさがあります。

半間というものがあります。
呼吸が半分ずれる「間」です。
ひと間なら指摘もしやすいが、
厄介なのが「半間」といわれるひと間の半分です。
「息が合わない」だけではなく、
直しようのない間だといえます。
古い芝居の世界では「半間野郎」などといい、
間の悪さ、間抜けを象徴したものです。
「野郎」というから男のものというわけでもありません。
勿論女性にもいます。