7月27,28日に公演した作品「壁」
この公演を組み、数ヶ月に及んだ稽古の中で、
「ことば」という問題を考え続けました。
ことばが意思であり力であるとすれば、
「ことば」のない人や森羅万象の意思や力は何か。
冷房設備のない茹だるような体育館で稽古した中で、
この暑さは言葉のない自然の意思なのかもしれない・・・
という思いに襲われたりもしました。
また「壁」の主人公多賀谷誠は、
吃音症のために苛められ、
ことばの欺瞞を思い知ることで
そのことばを捨てたというふうにもとらえられる。
いま、民主党党首選挙真っ最中である。
前総理大臣鳩山氏がそうであったように、
マニフェストと言おうが選挙公約と言おうが、
そこに盛られたことばとはいったい何かを考える時、
破るのがことば、守らないのがことば、
多少物分りよく考えても、
その通りに行かないのがことばではないのか・・・
思い知らされたのはぼくだけとは思わない。
初めに言葉ありき・・・聖書にあります。
これは「神のことば」をいうとすれば、
ノンクリスチャンのぼくにも何となく分かります。
世界60以上の言語があり、
その中でさらに地方のことばに分化され、
数えれば100以上あるであろう「ことば」なるものは、
何を映すものだろうかを考える時、
それが唯一真実を説く手段であるとすることに
危惧を覚えざるを得ないと思ってしまいます。
昨日からアクターズクラス2010のワークショップが
始まりました。
「えッ、こんな小難しい話も?」
という思いもありますが、
どんなちっぽけな台本にでも、
交わされることば(セリフ)があれば、
立ち寄らざるを得ないエリアだと思うのです・・・。
何の疑問も持たず、「おはよう」「おつかれさま」を
交わすだけが仕事ではありませんから、
どうしても、「う~ん!!??」という対象が、
のっけから壁として立ちふさがります。
・・・が、答えはありませ~ん![]()
(じゃんね~ん!)
つまり、こういう中で、私たちは真実を求め、
確かな自分を求めようと生きているということでしょうか。






