
本文はここから
物事の良し悪しや、
物事の良し悪しや、
印象の良し悪しの価値として評価は生まれます。
その価値判断は観る人、聞く人、食する人・・・等々、
好みによって決められますが、
社会的評価になると、選考する上での基準が必要になります。
また評価が、対価(値段)に結びつくかどうかは、
社会的評価と個人的評価とイコールではない場合が多いようです。
ここで、「評価されすぎ」を取り上げる難しさがあります。
ノーベル賞受賞者にも「評価されすぎ」と思える人もいたし、
アカデミー賞やヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞、
日本アカデミー賞などもあるが、選ばれる作品すべてが
他と比較して、
それだけの評価に値するかといえばそうでもないものもたくさんある。
文化勲章や褒章などに至れば尚一層、その感がしてくる。
「評価されすぎ」転じて、何故、「評価されないか」を考えたい。
何とかが、芸術祭奨励賞をもらったの、
○○賞をもらったのと聞くたびに、
選者は、他の作品をどれほど観ての選考かということである。
選者が観ているのは、
太平洋に浮かぶひとつの無人島なのかもしれない。
これは評価されているわけではないが円高が続いている。
昨年は坂本竜馬ブーム、アップル社のジョブズさん等々・・・
「評価され過ぎ?」といわれているが、
「何故、評価されないの?」
といわれるものに焦点をあてると、
その分野を含めた、
広くは国の姿勢までが見えてくるように思えてならない。
ちょっと、いじましい感がするかなァ。
でも、「評価され過ぎ」の周囲や背後にある、
「評価されな過ぎ」
に目を向けたいし、向けて欲しい気もしてきます。