放射能の拡散は地域、国を選ばない。
かつて、米、ロ(旧ソ連)、中をはじめ、核兵器保有国は、
殺戮を目的にした兵器製造のために地上実験をくり返した。
それと並行して、その原子力の(平和)利用も進められ、
エネルギー源として原発が開発され、
水力・火力に代わるものとして方々に建設されてきた。
しかし、爆発によって拡散された放射性物質の量と、
原発事故の場合とでは漏洩の量に大差があるようです。
自然界には原子番号92のウランまでしか存在しないと習ったが、
プルトニウムは94で、まさに人類が創りだした猛毒の原子番号だと聞く。
その核分裂連鎖反応を利用して原爆は作られるが、
その連鎖反応をコントロール下におくことで原発は稼動するらしい。
原爆も原発も、
神も手を染めなかった危険極まりないエネルギーなのではあるまいか。
安全か危険かの問題ではないように思う。
<SOURCE>
The Sword of Damocles (1812), the Ackland Art Museum,
The University of North Carolina at Chapel Hill.
ダモクレスの剣に思えてくる。
それは、どれ程重い剣でも、髪の毛であろうがなんであろうが、
ぶら下がっている。(のだから安全だという理屈である)
原発を見直す国が増えている。
しかし、このような事態を招来しているこんにちさえ、
原発廃止を口にすることは「国を潰す」と非難されたり、
被災地や被災民に対する冒涜といわれる傾向もある。
政府も東電も、簡単に「保証」を口にするが、
これさえなければ風評被害も生まれていないし、
復興への切り替えも早かったに違いない。
原発事故が生み出したダメージは余りにも根深く、その範囲は広い。
「これまで恩恵を受けていたくせに」文句を言うなという理屈はあたらない。
利便性を、裕福さを追い求めて環境を破壊してきたつけの解決が
今世紀の大きな課題になったようにである。
人が生きていく上で切り離せない関係、
自然と共に生きているという現実から目を逸らしてはならないのだ。
「このような悲劇は二度と起こしてはならない」という。
しかし、今、現実に起きている悲劇をどうするのか、
まさに、その悲劇そのものが進行中なのだ。
私たちは、森羅万象と共にあって初めて生きられ、
その征服者ではない。
あらゆるものと共に、「よりよく生きる知性」を持っていなければならない。
万物の霊長として、すべてのものの頂点にあるという穿った考えを
捨てなければならないと思うのだ。
原発事故修復に命をかけている人たちがいる。
桜の季節に、花に心傷む人がいる。
それがわたしの弟や妹であり友人たちなのである。
それに比して、自分はどこに在るのだろうかと考えている。
「頑張ろう」「応援します」というのもいいだろう。
だが、「一緒にいます」とはいえないことをどう考えるかだ。
未だに1万人を超える親兄弟、友人たちが行方不明のままだ。
これからは、1対1の関係を大切にするときかと思う。
もちろん、集団であれば一括した対応が可能になるし面倒がないだろう。
対等な対応も可能になるだろう。
しかし、それが誰でもない、避難している人たちだったということだ。
避難しているということは、あくまでも仮の生活でしかない。
目的だった退避から、どう生きるかへいち早い対応が望まれる。
東北人は精神的強さを持っている。踏まれても立ち直る。
笑顔も見せるさ。
しかし私は、妹の笑顔をまだ見ていない。
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