クチコミネタ:初デートの思い出
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実家は大きな温泉旅館をしていてね、親から言われたそうだよ…
東京の名の知れた大学で、この人となら一生苦労してもいいという男を探して来い。
婚約してもいいと約束をもらったら、いつ帰って来てもいい。
お前が大学を出る必要はない。旦那さんだけ学歴持っていればそれでいい。
そう言われて、彼女、一生懸命探しているんだ・・・」
さらに、

というのだ。(多少の言い回しは違うだろうが、かなり正確に覚えている)

授業で一緒の時には、いつも横に座っては話しかけていると言うのだ。
そういえば、「今日も劇団で稽古ですか?」
とか、「この次の授業は何ですか?」
・・・と、声をかけられたのを覚えているが、
それ以上でも以下でもなかったと思うし、
僕には熱中していることが別にあったので、
聞き流していたのだと思う。
友人は、「誘ってやれよ」と言い、
おれからは彼女にはイエスともノーとも言わないで置くからな・・・
こんなことがきっかけになり、
彼女の行為が目に付くようになったのだが、
しかし何故か、座る場所も、途端に遠くなったように感じる。

しかし、僕を見る目は以前とは違い、
いつも何かを尋ねているような光をた帯びているように思った。

一途な女の気持を裏切ると大変だぞ・・・
友人の一人は、このような忠告をしてきた。

「いいか、一度誘って抱いてやれ」
などという無責任なアドバイスをする者もいる。
日を重ねるうちに、周囲から聞こえる声も過激になる。
「思いを遂げられなかった女の恨みは怖いぞ」

「いつかは背中を刺されるかもしれない」

「自殺されたらどうする?」

これは不条理だ・・・
僕が彼女に何もしていない。
聞かれたことへの返事以上のこともしていない。
勿論、誘いのひと言もかけていない。
だが、何らかのアクションをすることで、
彼女の思いに終止符を打たなければならない・・・

日に日にまとわりつくような彼女の目線からも解放されたい・・・

このような思いからある日、声をかけた。
「今日、これから「茶房」へ行きませんか?」
彼女は明らかに戸惑いを見せたが、「はい」と同意をしてくれ、
二人揃って喫茶店に入った。

女性と二人だけで来たためしのない僕が、
いつもにない神妙な態度で入ってきたのを見た主人は、
「いらっしゃい」の声も出さずに、
店の中では多少独立気味の席を指差した。
こちらもギゴチないかもしれないが、
親父までが固まっていた。
それが僕への一層のプレッシャーになった。
これが、言ってみれば初デートになるのだろうと思う。
「霧子さん(仮名)、僕は今、演劇のこと以外のことに気を向けられないのです」
オーダーもそっちのけにして切り出した言葉だった。
「は?」
彼女は、鳩が豆鉄砲をくったような顔をして、目を白黒・・・
「大学に婿さん探しに入ったなんて聞きましたが・・・」
芸も何もない直裁的な言い方だが、仕方ない。
「そんなことを誰から聞きましたか?」
「え、違うんですか?」
「わたしは婿探しで大学に入ったりしませんわ。そりゃ、伊藤さんのような方が、
わたしのお婿さんになっていただけるなら考えてもいいですが、
別に急いで決めるつもりもありませんし、まず大学を出て、
大学院にも行くつもりなんです。
そこで美術をしっかり学んで、画商になるのが夢なんです。
実家は温泉旅館をしていますが、兄がおりますから、わたしは気ままなんです」
・・・・・・・ここで、奴にすっかり騙されたことに気づいた。
「そうですか!?・・・安心しました」
つい、こんな言葉が口をついて出てしまった。
何を安心なさったのですか・・・などと聞かれなくてよかった。
大きな温泉旅館の美人オーナーの旦那になり、
着物を着流しにして、湯煙たなびく街を歩きながら、
「いやさ、いい気分だなァ・・・」
な~んてのも…いいかもしれないなァ・・・

こんなことを一度も思わなかったかと言われれば、
否定できない・・・一度ならずあったからである。

それでいながら聖人君主を装っていなかったか・・・
コーヒーを飲み終わって、
「ね、伊藤さん、穴八幡に行きませんか?」
に誘われて、
「実は弁当も食べたいのですが」
急に身軽になったことと併せて、急に解放されたことから、
筋の外れたことを言ったのだと思う。
「わたしも弁当を持って来ました。一緒に食べましょうか。おかずを交換しましょうよ」
「はァ、いいですね」
そこで、馬場下にある穴八幡に並んで行った。
歩きながら、
彼女の故郷の温泉街を湯煙を浴びながら散歩している姿を想像した。
「楽しそうですね」
「はい。女性とこんな風にして歩くのは初めてですから」
「わたしもです」
こんな会話を交わしながら(…多少のアレンジあり)
社にある切石に腰をかけ、弁当を出した。
「わたしはベーコンとほうれん草の炒め物と焼いた鮭です」
「あゝ。僕もベーコンですよ」
一緒に弁当をあけると、
「・・・???」
彼女の弁当にはベーコンの姿がない」
彼女は彼女で、「伊藤さん、ベーコンって何処にあるんですか?」
「これです」
僕にとって、ベーコンとは鯨のベーコンであり、
彼女にとってのベーコンとは豚のベーコンだったのである。
「あら、これ、ベーコンですか?」

豚のベーコンなんて見たこともなければ食べたこともなかった。

「ベーコンってこのことですわよ。そんなベーコン見たことがありません」
ついに、食べられるんですか・・・とまで言われた。
「おかずの交換はやめよう」
こう言って、ムシャムシャ食べ終わり、
「じゃ、僕演劇の稽古があるから・・・」
言い捨てるようにその場を離れた。
今は、鯨のベーコンは高級食で、ミッドタウンのスーパーなどでは
50グラムで1,000以上もする。
豚のベーコンの3倍以上はする。
・・・が、当時は、貧乏人のベーコンだったのである。

その後、彼女とどうだったのか・・・
さっぱり覚えていない。
初デートにして、この話をせざるを得ないのは、何となく寂しさを覚えるのだが、
おれは当時、高級食材の鯨のベーコンを食べていたんだ・・・
時代が変わればこんなものだ・・・
・・・と思いながら、霧子さんを思い出そうとするのだが、
顔も姿も思い浮かばないのだ。

ただ…「これ、ベーコン?」という声だけが、耳のそばに聞こえてきそうな気がするだけ・・・・

※そういえば、霧子が僕に気があると言って来た奴が誰だったかも覚えていない。