168.星神社古墳探検記(常陸太田市小島町) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

星神社については、すでに記事にしていますが、最近古墳においても「向き」の重要性に気付き、再度現地確認をするために行ってきました。

いわゆるフィールドワークつうやつですね。


星宮神社探検記

この記事は五年前のもので、百嶋資料をもとにして神社調査を始めた初頭の頃なので、神社ついては考察していますが、古墳については、まだまだ興味が湧かずスルーしていましたね。

われわれのテーマである神代史は、まさに古墳時代のことにもかかわらず😂

歴史研究とは、その時の生活様式を明らかにすることであると言えるでしょう。

発掘物、遺物はもちろんそのための重要な資料です。

ただし、古墳は特権階級のものであり、庶民のものではないという特徴があります。


われわれが神社の向きに注目するのは、その先にあるものが、あるいはその背後にあるものが、祭神の理解につながると思ったためです。

つまり、奈良の大神神社の御神体は、背後の三輪山である、というような例です。

太陽の子孫は、太陽に向かってはならぬ、太陽を背にして進軍するぜ、なんて考え方にも似ているでしょう。


星神社古墳は梵天山古墳と中野富士山古墳の間に位置しています。



測量図は、以下のようです。


星神社古墳測量図(常陸太田市郷土資料館梅津会館のリーフレットから引用)


方向は、主軸N80°Eと現地の立て看板にはあります。

考古学的には、前方が向いてる方向を数字だけで表示する習慣はないのでしょうか?

それとも後円の向いてる方向を表示することにしているのでしょうか?

部外者には分かりづらいですね。

まぁ、でも真北から80°傾いた方向を主軸は向いているということはわかります。




現地では、後円部は神社も立っているので登って確認できましたが、前方部は立木が多く、よくわかりませんでした。


なので、地図アプリ「スーパー地形」の出番です。


スーパー地形の「見通しの判定」を使ったシュミレーション


前方部の前方には、八瓶山がありますが、中野富士山古墳の丘に遮られ目視はできません。(下図の❌印部)







前方部の先には中野富士山古墳の丘があって、遠くの山は見通せない感じでした。

わたしたちは、目視できることを重要視しています。

それは、古墳築造において主軸を決定する

重要な要素だからです。

図面を書くときにはまず中心線を書かなければなりません。これは機械工学科を出て、機械設計に携わっていた私がいうのですから間違いありません。🤣

円を描く時も重要なのは、中心点です。

中心点は、縦線と横線で決まります。

いわゆる座標です。

地球で言うなら、緯度と経度です。

中島みゆき的に言うなら、縦の糸はあなた、横の糸はわたしです😆

織物でもしかり。


星神社古墳は、富士山古墳を向いていると言っても良いかもしれません。

その意味では、中野富士山古墳と星神社古墳の埋葬者には深い関係が認められると考えることもできます。

しかし、その丘に登れば、軸上にあるらしい茨城県と栃木県境の八瓶山が見えるはずです。

前方部の延長上に、山の頂上があることが、多くの前方後円墳で確認できます。

地図上で著名な前方後円墳、後方墳を20ヶ所ほど調べてみましたが、ほぼ100%と言っても過言ではありません。

例えば、茨城県第一位の大きさの石岡市舟塚山古墳の前方部は奥多摩の雲取山を向いています。




那須の下侍塚古墳は、筑波山を向いています。





群馬県高崎市市の保渡田古墳は、埼玉県の武甲山を向いています。

もちろん、前方部の方向です。





また、このパノラマ展望図を使うと、山だけではなく、重要なランドマークも併せて表示されます。


ご覧のように、星神社古墳は、静神社を向いていたと言っても良いでしょう。

八瓶山と静神社。

八瓶山は、神話から推測できますが、スサノオが八岐大蛇退治に使った、酒を入れた瓶に由来しています。

笠間市の稲田神社(祭神はクシナダヒメ)と深い関係が示唆されます。

静神社の祭神は建葉槌、天日鷲の子とされ、神話では鹿島の武甕槌や香取のフツヌシでも成敗出来なかった、まつろわぬもの悪神、星神香々背男を銀の靴で粉砕したことになっています。

まぁ、これは光圀が江戸時代に作らせたおとぎ話でしょうから、スルーしても良いでしょう。

建葉槌の正体をわれわれは活玉依姫だと睨んでいます。通説では神武の丈母、百嶋系図では崇神の母になります。

百嶋系図では、崇神と神武を明確に別けて捉えています。


香々背男の牙城は、日立市の風神山(大甕山)だと言われています。

星神社古墳の後円部は、風神山を向いています。


立て看板に記載のあった、80°方向。









建葉槌は、那珂市の静神社。

次の図を見ておったまげて下さい。🤣


方位約260°ですから、N80°Eですね。





多少のずれはあります。


ほぼずれはない。


つまり、星神社古墳は風神山と八瓶山を結ぶ線上に位置していたのです。

なおかつ、その線上には、静神社もあった。

峯山や、梵天山古墳、中野富士山古墳もその線の付近に位置しています。

常陸国の神話がいろいろつながってきますね。

中野富士山古墳は、鷲子山を向いていました。


現時点での考察だと、

八瓶山ースサノオ、クシナダ姫

風神山ー香々背男=長髄彦、オキツヨソタラシ姫

静神社ー建葉槌=活玉依姫=ハエイロネ=姉橘姫、ヤマトタケル

です。


星神社という後世の名前からも、この古墳の埋葬者は、星神香々背男=長髄彦になりそうです。😱

カガセオだから、蛇でナーガスネーク彦になるのです。単なる親父ギャグではありません。

超高度な親父ギャグですからね🤣

活躍した牙城風神山から、父母のおわします八瓶山に向かって荷車に乗せられたのかもしれません。


前方後円墳は、その形から牛車と考えれたので、前側を矩形の方に決めたらしい話をどこかで読んだ記憶がありますが、だとしたら、車には何を乗せて運んだのでしょう?(古墳時代に牛車はないと思うけど🤣)

古墳はなぜ山を向いているのか?

頂は、天に近い場所です。

磐梯山のように、梯子にちなむ名前もあります。

参考→

https://ameblo.jp/nanohanacr/entry-12658715996.html


古代から、人は亡くなると天に帰ると考えられていたと思われます。

前方後円墳、後方墳は、荷車に模され、死者の魂を山頂を経由して、天に送り届ける魂の乗り物だったのかもしれません。


記事の引用はフリーですが、引用元をきちんと表記してください。


動画も撮影したので下に貼り付けておきます。

https://youtu.be/sPLOxMqcpp4