昨年の正月に書き始めた記事ですが、途中でへこたれてしまいまして、尻切れとんぼですがとりあえずアップしておきます。続きはまたそのうち気が向いたらね。
香取、鹿島神宮についてはこれまでに何度訪れているのですが、そう簡単にリポートできる神社でもなく二の足を踏んでいましたが、今年で平成も終わることもあって、まとめてみることにしました。
江戸時代に東国三社と言われた、鹿島、香取、息栖神社。
香取、鹿島は延喜式当時伊勢の大神宮とともに三か所だけ神宮と呼ばれた格式のある神社。
神栖市の息栖神社だけは、ナガスネヒコを追いかける我々は、百嶋由一郎氏の資料などから感化され、ブログ開始当初に,浅薄な知識で、恥も外聞もなく記事にしましたが、鹿島、香取は後回しになってしまいました。
古代史的には、平安時代中ごろの延喜式に何ら意味を感じることはないにしても、百嶋先生ですら使用する「九州王朝」という、黎明期に正統派だったらしい勢力が、のちに藤原氏に乗っ取られた経緯を考えるには最重要時期になりそうです。
藤原氏の祖は中臣鎌足とされていますが、その子不比等とさらにその子たち、いわゆる藤原四家は、鎌足の血統なのかを猛烈に疑っているところです。
鹿島曻を筆頭に、鎌足は百済王徐豊璋(ほうしょう)ではないかとの見方があり、われわれも追従しているのですが、単純に百済系が藤原氏となり、現在に至っているのではない感じを強く抱いています。
簡単に私説を記しておけば、新羅や百済を対立したことにした、唐や高句麗の息のかかった、徐福後裔を名乗る秦氏が、蔭で彼らを操り、平安以降の日本の歴史を作ってきたと考えています。
徐豊璋と徐福、姓がおなじですね。(笑)
蔭にいるフィクサーは、どの勢力が表向きの天下を取ろうが、関係ないのです。年貢(税金)を吸い上げて、働かずしてのうのうと裕福な生活ができればよいのですから。
それなりに国家の形態ができてからは、通説では多くの対立があったことになっています。
中学時代に教科書で習った、蘇我対物部、藤原対平家、源平合戦、南北朝、戦国時代、明治維新、55年体制、経世会対清和会、自民党対野党。
そしてこれらの対立に組み込まれていない勢力がいるように見えます。
それは、万世一系などと明治時代に高められた一族です。
南北朝だけは、後醍醐天皇が中心人物の一人になっていますが、対抗するのは源氏の足利尊氏です。
しかし、尊氏は清和源氏。
通説では清和天皇の後裔ですから、天皇家の内部争いと言ってもよいかもしれません。この対立の起源は、おそらく奈良時代中期の弓削道鏡までさかのぼることになるでしょう。
上記の蘇我対物部だけは少しばかり様相が異なると考えています。
通説によれば、蘇我の祖は武内宿祢、物部氏の祖はウマシマジとされていますが、百嶋系図からはかれらは同族であり百嶋先生のいう「九州王朝」の中心であることがわかりますから、かれら正統派を隠すことが大きな目的の一つではないかと考えられるのです。
ここでの「九州王朝」は古田武彦氏の「九州王朝」とは概念が異なるのでご注意ください。
この「九州王朝」は、フォッサマグナより東側に位置するわれわれ関東、東北の研究者からいえば、八溝共和国に引き継がれていると考えています。王朝などという高飛車⁈な形態はとっていない、と思います。
それもごく初期のスサノウの時代にはすでに「九州王朝」の中心は八溝に移ってしまったと考えるのが、これまでの茨城、栃木、福島を中心とした神社探検から導き出した途中経過です。
何者かを神と称える考え方は、スサノウ、ナガスネヒコには似つかわしくありません。
なぜなら、考え方の中心が、生命の永続性を第一に考える「ミトラ」だからです。
それは頂点に核となるものが存在すると考える一神教的なものではないからです。
生命の永続性を考えれば、女性が大切なことが推測できることでしょう。
したがって、スサノウの実態は女神だと思われます。
スーザン→スシアナ→スザンナがスサノウのもととなった名前だろうと考えます。
つまり、クシナダ姫の夫としての存在、クシナダ姫を守る者がスサノウの本質ではないでしょうか。
文字にすれば「ス」を「佐く」「王」
言い換えれば、古代のこの時代においては女性が中心であったと。
魏志倭人伝は、倭国騒乱に卑弥呼を起てたら国が収まったとあります。
女性が中心であれば、男が中心の社会より間違いなく平和的であろうかと思います。
現代においては、日本会議、神道政治連盟に所属している、タカ派の議員だけがもてはやされていますが、私には頭の中が男にこびているのは見え見えの「ノータリン」にしか見えません。
さて、神社に移りましょう。
所在地は千葉県香取市香取。
祭神は経津主(フツヌシ)
経津主(フツヌシ)をwikipediaより引用
フツヌシ(経津主) 「フツ」とは刀剣の鋭い様を表した言葉といわれ、刀剣を表す神名とされる。関連して記紀には「>フツノミタマ(布都御魂、韴霊)」という神剣が見え、フツノミタマはタケミカヅチから高倉下に下され、のち物部氏氏神の天理市に祀られたという。 フツヌシやワカフツヌシの神名は『出雲国風土記>』にも多く登場し、諸国にも多く分布するといわれる。これは物部氏が神剣フツノミタマを奉じて各地を征討した結果、各地でフツノミタマを神格化したフツヌシが祀られたためとされる。そしてこれらの伝承を基にして、フツヌシが国譲り神話に登場すると説明される。一方、フツヌシは『古事記』には見えないため、『古事記』に見えるタケミカヅチ>の別名「建布都/豊布都」からの造作と見る説もある。 香取神の本質をこのフツヌシと見る説では、『古語拾遺』のみ記載が異なることについて、同書が斉部広成によって記された中臣氏・藤原氏批判の書物であり、より本質に近い記載である可能性を指摘する。史書が異なる記載をしたのは、祭祀氏族(香取氏)の本源が物部氏であったためとする説もある。イハヒヌシ(イワイヌシ、伊波比主/斎主)「いわう」にあてられる「斎」「祝」の字義から、「イハヒヌシ」とは「祭事の執行者」を意味する神名と推測される。 香取神をイハヒヌシと見る説では、『古語拾遺』以外が全てイハヒヌシと記すことを根拠とする。『古語拾遺』のみ記載が異なることについては、斎部広成が中臣氏の神について正しい知識を持ち合わせなかったとする説がある。祭神名からは、「鹿島 = 朝廷の神」に対する「香取 = 在地の神(奉仕する神)」という、伊勢神宮の内宮・外宮に似た祭祀構造が指摘される。また神階が鹿島に遅れること、勲等がないことは奉仕する神であったためとも推測されるほか、神を祀るのは女性の任であったことから祭神を女神とする見方もある。祭祀氏族としては、古くは経津主神の神裔を称する香取氏(かとりうじ)であったことが知られているが、その香取氏の本質は物部氏であると指摘する説がある。その中で、フツノミタマとフツヌシの関連性、史書に見える周辺の物部氏族の存在から、フツヌシが物部氏の氏神として祀られたと推測がなされている。一方、香取神宮下海上国造神であったとし、その国造を担った他田日奉部氏(おさだのひまつりべうじ)を原始氏族に推測する説もある他田日奉部氏は宗教的部民で、直(あたい)という従属性の強いカバネを有しており、「イハヒヌシ」という奉仕する神の性格とも合致すると指摘される。一方、香取氏はこの下海上一族の支配下にあったと見る説もある。
さて、百嶋系図では山幸彦とされるフツヌシがなぜこれほどまでに東国で祀られているのか。
当ブログをお読みの方はすでに、山幸彦=フツヌシが、ナガスネヒコやタケミカヅチ=海幸彦から創作されたらしいことをご理解していると思われますが、まとめておきますと、
系図
フツヌシの別名
山幸彦
猿田彦
彦火々出見
ニギハヤヒ
五十猛
大伊乃伎
伊の大神
四の大神
そして大目姫との子がウマシマジと卑弥呼宗女イヨになります。
動画はこちら