146.佐波波地祇神社探検記(北茨城市大津町、華川町小津田) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

佐波波地祇神社(サワワチギジンジヤ)は、北茨城市大津町と華川町の二ヶ所に鎮座しています。

相当前に訪問していたのですが、祭神の天日方奇日方命がさっぱりわからず記事にできませんでした。

頭の中は、ザワワ、ザワワと、とうもろこし畑のようにざわめくだけでしたが、やっと最近になって祭神の特定ができたので144.多珂神社探検記で予告したとおり、記事にする運びとなった次第です。


大津町の佐波波地祇神社は、国無形民族文化財 常陸大津の御船祭で大変な賑わいを見せます。


(これについては5月に祭りを実見してから考察したいと思います。諏訪神社と津神社が絡むとのことですので、興味深いことが判るかもしれませんって、江戸時代に光圀の命で始まったと推測できる祭りなど見る必要もないとは思うのですが、たまにはMEHERになることもよいでしょうしね。磯原饅頭でも食べてきましょう。

でもほとんど予想はついていますけど、笑)

基本的に江戸時代に始まった祭りは、為政者による百姓のガス抜きだと考えています。それも一つの文化と考え「民俗学」とかいって研究されている方もおられるので、それはそれでよいでしょうが、歴史の本筋にはそれほど重要ではないでしょう。


常陸国多珂郡(旧多珂国)に位置し、以前報告した花園神社が山の神社ならば、こちらは海の神社になります。 リンク→70.花園神社探検記(北茨城市華川町)  






大津町の佐波波地祇神社拝殿

 


華川町の佐波波地祇神社 拝殿


とはいっても大津町の方は平野部にあるわけではなく、海に近い山(崖)の上にあります。

米米クラブのリーダー石井竜也の実家から歩いても10分くらいで到着します。高校を卒業し東京に出るまでは何度も足を運んだことでしょうね。大津町とはいうものの、五浦(いづら)といってもよい場所です。

安曇磯良(あずみのいそら→いづら)との関係が示唆される地域になります。

磯原町の弟橘姫神社や常陸太田市の台地にあった神社のように、灯台の役目をしていた可能性を感じる神社です。


リンク→65.弟橘媛神社探検記(北茨城市磯原町)

番外34.佐竹氏以前の太田を考える-太田地名の考察


祭神は

大津町:主祭神:天日方奇日方命 

    配祀:大己貴命 事代主命 大物主命 姫蹈鞴五十鈴姫命 五十鈴依姫命


華川町:天日方奇日方命


神社名では地祇を祀ると思われますが、天日方奇日方命は大物主の子だから地祇ということになる

でしょう。

天神と地祇の区分けは曖昧なもので、おとぎ話の範疇ですから、あまり気にしても仕方ありません。

百嶋神社考古学では、天手力男をスサノオの別名としていますから、天神でもあり、地祇でもあります。

大津町の神社に配祀されている五十鈴姫たちは、相当あとになってから祀られた印象を持ちます。記紀神話に準じているからです。もっとも、天日方奇日方命という名前を使うこと自体が記紀に準じているのです。この時点で本当の祭神はかくされていることになるでしょう。


神社の概要は、玄松子さんのHPに掲載されていますのでリンクしておきます。

佐波々地祇神社  (大津町)佐波々地祇神社(華川町)


茨城県神社庁のHPには、以下のように掲載されています。


由緒

社伝によれば「多珂郡皇浦(今改大津)佐波ノ湊ニ鎮座佐波波神 天日方奇日方命而号大宮大明神云々」とあり、このことから、少なくとも1200年前の、齋衡(854~)・天安(857~)の間に創立と伝えられている。
 古くは佐波波神また六所明神と尊称されていたが、元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して、神鏡一面を奉納し、大宮大明神と尊称を奉った。

 

唐帰山(カラカイサン) 

海上よりこの山を望めば鬱然たる森を見、東海の船舶は常に航路の目標にしている。
上古日本武尊が東征の砌、大津の沖で逆浪に漂い給いしこと数旬、一夜白衣の神人、雲龍に乗って御
夢枕に立ち「吾ハコレ佐波波ノ神也。今皇子ノ御船ヲ守護センガタメ来レリ、直チニ順風ニナサン」と。夢覚めれば果たしてその言の如く波穏やかにして遥かに社を見る。依って使いを遣わし幣を奉った。と古記に有り。またその後にも、源義公(光圀)が船で北地探検の途中海上で漂い給いし時、遥にこの神山の松

影を認め針路旬日にして無事接岸できたと言う。
前述の奇瑞と松影からこの鎮座地の山を唐帰山と呼ばれている。


なぜ唐帰山と呼ばれたのかは、この説明からはまったくわかりませんが、光圀はヤマトタケルが大好きだったようで常陸国内の八幡社の多くを吉田神社に変更させています。

(ほかにも、鹿島神社、静神社に変更させられた神社が数多くあります。いずれ考察したいと思います。)

ここでいう吉田神社は、京都の吉田神社系ではなく、ヤマトタケルを祀る水戸市の常陸国三宮吉田神社になります。

ただし光圀は室町時代の新興宗教、吉田 兼倶が大成した唯一宗源神道を導入しており、常陸国内の神社は唯一神道流に改変させられていますから、表向きは由緒書の祭神を祭ってはいるものの、ヤマトタケルに替えて、こっそりと藤原氏の祖「アメノコヤネ」を祀らせていたのかもしれません。

しかし、アメノコヤネは武甕雷ではありませんからご注意を。正当な武甕雷をハベクイカスリ百済藤原氏が乗っ取り付けた名前です。

京都の吉田神社の祭神は、春日大社とまったく同じです。光圀の出自を明らかにする手がかりの一つでしょう。(答えだけ書いておきます。源氏ではなく藤原氏だということです。)

鎮座地の浦から祭神の予想がつきますね。
皇浦の皇は文字を好く見れば「白王」です。長野県の皇足穂命神社でもこの例がありました。
白はイヨ。卑弥呼宗女イヨですね。

さて、確認してみましょう。

 祭神の天日方奇日方について、玄松子さんのHPより引用します。

『古事記』によると、大物主神は陶津耳命の娘・活玉依毘売と結婚して、櫛御方命をもうけられた。 この櫛御方命の子が飯肩巣見命。、その子が建甕槌命(鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神)。 その子が意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子である。

 子孫の大田田根子は、崇神天皇の御代に三輪山の神主となった
 三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』に、天事代籤入彦命(事代主神)と大陶祇命の女、活玉依比売命の子、 天日方奇日方命(一名、武日方命櫛御方命阿田都久志尼命鴨主命)とあり、 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄で、 『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている。
 また、『先代旧事本紀』に、天日方奇日方命は、神武天皇の時、食国政申大夫として橿原宮に供奉したことある。

百嶋系図でこの引用を解析すれば、


この大物主は代理大物主=事代主であり、陶津耳命(すえつみみのみこと)は山末大神で大山咋で、その子活玉依姫と結婚していますが、大山咋自身が大物主でもあり、意富多多泥古(おおたたねこ)は事代主でもありますから、同じ人をぐるぐると使い廻しして、系統をねつ造していることが判ります。

活玉依姫は神武の母を神玉依姫にしていることの繰り返しでしょう。

ここで言う神武は百嶋系図ではハツクニ神武で崇神となります。

鴨主命は神主命とも読め、神主玉につながります。

食国政申大夫は神饌供え祭り申す臣であり、景行天皇時の磐鹿六雁を彷彿とさせます。日方は干潟で、覚賀の鳥(=コウノトリ)がカタカタ鳴いていそうです。(笑)

(リンク→番外33.建御名方は事代主であり、磐鹿六雁である


(景行、崇神、垂仁は孝霊、孝元天皇から創作された、を考察中)崇神も大山咋も、事代主=御年=建御名方を借用して成立したと考えるものです。

それだけでは済まされず、「 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄」の解釈は、「スサノヲの奥さん・アカル姫(=クシナダヒメ)の兄、五瀬命」になることでしょう。
媛蹈鞴五十鈴媛命はアカル姫=クシナダヒメ=アイラツ姫=神大市姫であり、富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすけよりひめ)は、スサノヲ姉で五瀬命の妻、神俣姫に相当し、神武がスサノヲと五瀬命の二人を表していることにつながります。

蛇足ですが、アカディミズムはこんな時には「建甕槌命(鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神)」としています。こんな重要な神の名を間違えて使ったと考える方が非常識ではないでしょうか。ならば、この鹿島神宮の神ではない建甕槌命はどうなったのか。古事記に書いていないから解らない?これこそが文献史学の限界でしょう。小説家のごとく無限の情報が潜む行間を読みましょうよ。

ブルース・リーのごとく Don't think!Feel!ではなくわれわれは、Feel&Thinkで古代史の謎に無謀ともいえる挑戦をし続けていく所存です。(笑)

天日方奇日方は御年とイヨを重ね合わせた名前です。それぞれの本殿の千木が男女神であることを証明しています。

   

 大津町の本殿千木 女千木

  

華川町本殿の千木 落ちかけているが男千木


おそらく、天日が御年=タケミナカタ=事代主ことしろぬし→かたしろぬし)で、奇日方がイヨ=日向姫でしょう。奇(くし)=櫛、つまりミナクシからの推測です。

 二人合わせて「方向」ですね。
 日の本の方向を決めたと思われる二柱に最適な名前です。(笑)
 そして「方」は潟でもあり、真鍋大覚著「儺ノ國の星」によれば星辰(日月星の総称)でもあります。
 

まず「潟」の分析から。

 砂州によって外海から隔離された海岸の湖。浅海の砂が沿岸流などによって移動して砂州が形成され,内側が湖になる。潟は浅く,波が静かで,海と通じる口が狭いものほど塩分が少い。土砂の堆積によって,次第に浅くなり,淡水化して,やがて湿地となり,ついに海岸平野の一部になる。

貝や小魚の宝庫であり、最終的には水田の適地になることでしょう。つまり生命の糧になる場所です。
ここで佐波波地祇神社のある北茨城の地形を見てみましょう。
由緒にあるように海に関係がありますから、華川町下小津田の方も海に関連性を持たすために、例によって、FLOOD MAPで海水面を30M上昇させます。



大津町の方はいい具合に灯台になりますね。
華川町の方はまさに潟になりやすい場所でしょう。
華川町の方は、字小津田(こつだ)であり、これは大津に対しての小津と考えてもよさそうであり、さらに小津田の隣の字は小豆畑(あずはた)であり、小(こ)豆(づ)畑(はた)で小津畑であろうと推測され、小津田と同源であるが、それよりも高台に位置し、水田より畑にしやすい土地だったと考えられます。
そして、星辰は、日月星の総称ですから、一般的によく知られている神様の名前で言えば、天照も、月読も、星神=スサノヲあるいはカガセオも含まれることになります。
本来は天照は太陽であるから、スサノヲか五瀬、月読は女神で、櫛稲田姫か神俣姫、木花開耶姫、星神は彦国オキツ=後のナガスネヒコ、あるいはヴィーナスとしての木花開耶姫が代表的な名前となるでしょう。
つまり「方」は天空の全てを象徴することが推測できます。それほど重要な名前になるのですね。
だからこそ、御年とイヨの二人は神代史にとって重要な存在になることが判ります。
以前にイヨが白山姫のモデルだと書いたことがありますが、その連れ合いウマシアシカビヒコヂは御年から創作されたものでしょう。御年の別名ウマシマジ(可美真手命)は、ほぼウマシアシカビヒコとほとんど同じ発音が含まれています。
これは、新羅系といわれる勢力が権力を保持していたと考えることができそうです。考察の浅い列島の区分では出雲系に相当するでしょう。
出雲系というより、スサノヲ系と言ったほうが実態をよく表していと思いますが・・・。
佐波波地祇神社は、また佐波大明神ともされています。諏訪神社は州波と表記されるところもあります。
上記の地形のような、潟(方)は州にもなりますから、州波が佐波と転訛したものと考えられます。
つまり、建御名方とイヨはのちに天日方奇日方に変えられた可能性を指摘しておきます。
さらに、「州浜」は安曇磯良の紋章であり、建御名方の娘婿で、多珂国の名にも関連する日多珂=天日鷲と鴨玉依姫の子になるのです。

追記
東海村須和間に住吉神社があります。
祭神にはもちろん表筒男=安曇磯良が含まれるますので、鎮座地の須和間(すわま)は州浜(すはま)の転訛かもしれません。

{AB56EC11-061D-404A-AB47-042569A65748}
須和間住吉神社の位置

さらに安曇磯良は、上諏訪と下諏訪の間に生まれた弟橘姫の夫になります。
さらに、この住吉神社はなんと、橘諸兄が創建したとされているのです。
桜川市の鴨大神御子神主玉神社の祭神、橘の祖、神主玉はイヨ(あるいは御年=建御名方)です。
醸す玉です。醸造の神です。まさに酒解子=コノハナサクヤ姫の子になりうるのです。
そして母親のコノハナサクヤ姫は山の中の花園神社に祀られており、イヨをしっかりと見守っているように思われるのです。

華川町小津田の佐波波地祇神社の動画はこちら→


大津町の佐波波地祇神社の動画はこちら→

https://youtu.be/0xZoxdAE5xg



百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野克典まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp


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