佐波波地祇神社(サワワチギジンジヤ)は、北茨城市大津町と華川町の二ヶ所に鎮座しています。
相当前に訪問していたのですが、祭神の天日方奇日方命がさっぱりわからず記事にできませんでした。
頭の中は、ザワワ、ザワワと、とうもろこし畑のようにざわめくだけでしたが、やっと最近になって祭神の特定ができたので144.多珂神社探検記で予告したとおり、記事にする運びとなった次第です。
大津町の佐波波地祇神社は、国無形民族文化財 常陸大津の御船祭で大変な賑わいを見せます。
(これについては5月に祭りを実見してから考察したいと思います。諏訪神社と津神社が絡むとのことですので、興味深いことが判るかもしれませんって、江戸時代に光圀の命で始まったと推測できる祭りなど見る必要もないとは思うのですが、たまにはMEHERになることもよいでしょうしね。磯原饅頭でも食べてきましょう。
でもほとんど予想はついていますけど、笑)
基本的に江戸時代に始まった祭りは、為政者による百姓のガス抜きだと考えています。それも一つの文化と考え「民俗学」とかいって研究されている方もおられるので、それはそれでよいでしょうが、歴史の本筋にはそれほど重要ではないでしょう。
常陸国多珂郡(旧多珂国)に位置し、以前報告した花園神社が山の神社ならば、こちらは海の神社になります。 リンク→70.花園神社探検記(北茨城市華川町)
とはいっても大津町の方は平野部にあるわけではなく、海に近い山(崖)の上にあります。
米米クラブのリーダー石井竜也の実家から歩いても10分くらいで到着します。高校を卒業し東京に出るまでは何度も足を運んだことでしょうね。大津町とはいうものの、五浦(いづら)といってもよい場所です。
安曇磯良(あずみのいそら→いづら)との関係が示唆される地域になります。
磯原町の弟橘姫神社や常陸太田市の台地にあった神社のように、灯台の役目をしていた可能性を感じる神社です。
リンク→65.弟橘媛神社探検記(北茨城市磯原町)、
祭神は
大津町:主祭神:天日方奇日方命
配祀:大己貴命 事代主命 大物主命 姫蹈鞴五十鈴姫命 五十鈴依姫命
華川町:天日方奇日方命
神社名では地祇を祀ると思われますが、天日方奇日方命は大物主の子だから地祇ということになる
でしょう。
天神と地祇の区分けは曖昧なもので、おとぎ話の範疇ですから、あまり気にしても仕方ありません。
百嶋神社考古学では、天手力男をスサノオの別名としていますから、天神でもあり、地祇でもあります。
大津町の神社に配祀されている五十鈴姫たちは、相当あとになってから祀られた印象を持ちます。記紀神話に準じているからです。もっとも、天日方奇日方命という名前を使うこと自体が記紀に準じているのです。この時点で本当の祭神はかくされていることになるでしょう。
茨城県神社庁のHPには、以下のように掲載されています。
由緒
社伝によれば「多珂郡皇浦(今改大津)佐波ノ湊ニ鎮座佐波波神 天日方奇日方命而号大宮大明神云々」とあり、このことから、少なくとも1200年前の、齋衡(854~)・天安(857~)の間に創立と伝えられている。
古くは佐波波神また六所明神と尊称されていたが、元禄年間に西山公(徳川光圀公)が神徳を景仰して、神鏡一面を奉納し、大宮大明神と尊称を奉った。
唐帰山(カラカイサン)
海上よりこの山を望めば鬱然たる森を見、東海の船舶は常に航路の目標にしている。
上古日本武尊が東征の砌、大津の沖で逆浪に漂い給いしこと数旬、一夜白衣の神人、雲龍に乗って御夢枕に立ち「吾ハコレ佐波波ノ神也。今皇子ノ御船ヲ守護センガタメ来レリ、直チニ順風ニナサン」と。夢覚めれば果たしてその言の如く波穏やかにして遥かに社を見る。依って使いを遣わし幣を奉った。と古記に有り。またその後にも、源義公(光圀)が船で北地探検の途中海上で漂い給いし時、遥にこの神山の松
影を認め針路旬日にして無事接岸できたと言う。
前述の奇瑞と松影からこの鎮座地の山を唐帰山と呼ばれている。
なぜ唐帰山と呼ばれたのかは、この説明からはまったくわかりませんが、光圀はヤマトタケルが大好きだったようで常陸国内の八幡社の多くを吉田神社に変更させています。
(ほかにも、鹿島神社、静神社に変更させられた神社が数多くあります。いずれ考察したいと思います。)
ここでいう吉田神社は、京都の吉田神社系ではなく、ヤマトタケルを祀る水戸市の常陸国三宮吉田神社になります。
ただし光圀は室町時代の新興宗教、吉田 兼倶が大成した唯一宗源神道を導入しており、常陸国内の神社は唯一神道流に改変させられていますから、表向きは由緒書の祭神を祭ってはいるものの、ヤマトタケルに替えて、こっそりと藤原氏の祖「アメノコヤネ」を祀らせていたのかもしれません。
しかし、アメノコヤネは武甕雷ではありませんからご注意を。正当な武甕雷をハベクイカスリ百済藤原氏が乗っ取り付けた名前です。
京都の吉田神社の祭神は、春日大社とまったく同じです。光圀の出自を明らかにする手がかりの一つでしょう。(答えだけ書いておきます。源氏ではなく藤原氏だということです。)
さて、確認してみましょう。
『古事記』によると、大物主神は陶津耳命の娘・活玉依毘売と結婚して、櫛御方命をもうけられた。 この櫛御方命の子が飯肩巣見命。、その子が建甕槌命(鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神)。 その子が意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子である。
百嶋系図でこの引用を解析すれば、
この大物主は代理大物主=事代主であり、陶津耳命(すえつみみのみこと)は山末大神で大山咋で、その子活玉依姫と結婚していますが、大山咋自身が大物主でもあり、意富多多泥古(おおたたねこ)は事代主でもありますから、同じ人をぐるぐると使い廻しして、系統をねつ造していることが判ります。
ここで言う神武は百嶋系図ではハツクニ神武で崇神となります。
鴨主命は神主命とも読め、神主玉につながります。
(リンク→番外33.建御名方は事代主であり、磐鹿六雁である)
(景行、崇神、垂仁は孝霊、孝元天皇から創作された、を考察中)崇神も大山咋も、事代主=御年=建御名方を借用して成立したと考えるものです。
蛇足ですが、アカディミズムはこんな時には「建甕槌命(鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神)」としています。こんな重要な神の名を間違えて使ったと考える方が非常識ではないでしょうか。ならば、この鹿島神宮の神ではない建甕槌命はどうなったのか。古事記に書いていないから解らない?これこそが文献史学の限界でしょう。小説家のごとく無限の情報が潜む行間を読みましょうよ。
ブルース・リーのごとく Don't think!Feel!ではなくわれわれは、Feel&Thinkで古代史の謎に無謀ともいえる挑戦をし続けていく所存です。(笑)
天日方奇日方は御年とイヨを重ね合わせた名前です。それぞれの本殿の千木が男女神であることを証明しています。
おそらく、天日方が御年=タケミナカタ=事代主ことしろぬし→かたしろぬし)で、奇日方がイヨ=日向姫でしょう。奇(くし)=櫛、つまりミナクシからの推測です。
まず「潟」の分析から。
大津町の方はいい具合に灯台になりますね。
大津町の佐波波地祇神社の動画はこちら→
百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野克典まで。
メール k_kplanning @yahoo.co.jp
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