76.櫻田山神社探検記(宮城県栗原市) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

今回の探検は、宮城県栗原市栗駒に鎮座する櫻田山神社です。


私が住んでいる常陸大宮市高部は茨城県でも北部に位置するので、東北方面は比較的近いのですが、それでも栗原市までは400km以上はあり、なかなか簡単には訪問することはできません。

今回はGWの間に1泊2日で宮城と岩手、メインは早池峰神社を探検しようと計画をしていたのです。

仮称八溝共和国(長髄彦や戸畔と、縄文+古代ヘブライが融合した一団)を検証するための調査です。

本当にざっくりといいますと、初期九州王朝の中心的役割をした勢力は、自然災害や新たな民族の流入により九州から脱出し、金属資源の豊富な中央構造線に沿って移動し、常陸国までたどり着いたと考えています。これは妄想ではなく仮説です(笑)。

歴史であれ、科学であれ、研究が面白いのは、文献でもフィールドワークでもそうなのですが、単に事実を確認することだけではなく、自分の仮説がそれらによって実証された時の高揚感、つまりアドレナリンの分泌を感じられることでしょうか。現象的にはギャンブル依存症とさほどの違いはありません(笑)。

古代においては常陸国は気候は温暖で、広大な平地と、海や湖沼、さほど急峻ではない山岳地帯を有していましたから、常世の国と考えられていたようです。しかし現代では、ブランド総合研究所の魅力度ランキングでは数年にわたり最下位を独占しています。所長のコメントによれば北関東は「3県とも豊かな地域で、工業や農業が盛ん。放っておいてもモノは売れたし、人口も増えた。住民の地元に対する愛着度が低く、あまりお国自慢をしないということもある」

特に茨城県は太平洋に面していて温暖な事と平地が広いことが他の2県とは大きく異なりますが、これと言った観光地がないことも大きな特徴です。人口は茨城県が300万人弱、群馬、栃木とも凡そ200万人で、茨城県から見てみれば3分の2程度なわけですね(笑)しかし茨城県は有名な観光地がないことが魅力度の低い要因になっているようです。栃木県には何と言っても世界遺産の日光と天皇の御用邸のある那須があります。群馬県にも、世界遺産(悲惨ともいう)の富岡製糸場があります。つまり「あゝ野麦峠」に代表される富国強兵政策の強制労働がそこにはあります。結局、魅力度ランキングとは、単にミーハーな観光地があればいい、ということの裏返しでもあるわけです。(笑)

それを「魅力度」ということ自体が自らの低能さをさらけ出していることに気が付いていません(笑)

結局、ブランド総合研究所の調査は、単に遊びに行きたい県のランク付けであり、観光でお金をばらまきましょう,という経済的(単なる金儲け主義)なランキングなのでした。

真の地方創生と言うものではありません。

しかし古代においては、何にもまして食べ物が豊富なことと、自然災害が少ないことが重要な事だったと思います。

さらに地下資源が豊富だったら言うことはありません。したがって、当時の常陸国は「常春の国マリネラ」のようだったのでしょう。(パタリロか?)


さて神社です。桜田山神社はお笑い芸人の狩野英孝の実家だから有名になりました。

しかし由緒は相当古く、武烈天皇までさかのぼります。


WIKIより引用

武烈天皇の崩御後の6世紀初頭(古墳時代後期)、同天皇の側近であった狩野掃部之祐および久我大連が、現在の東北地方(陸奥国設置前)へ左遷された際に当地に創建したとされる。当社は、北上川水系江合川上流の二迫川南岸、栗駒山から南東に延びる舌状台地上にあり、「山神社」と呼ばれた。1879年(明治12年)6月には村社に列せられ、1926年(大正15年)に神饌幣帛料供進指定神社となった。1908年(明治41年)12月、当社の東の桜田字中屋敷にある八幡神社を合祀した。

2008年(平成20年)頃からお笑いタレントである狩野英孝の実家として知られ、参拝客が県内外から訪れる観光地となっていた。





神社入り口の道路沿いにあった由緒書と一の鳥居



祭神は=武烈天皇と明治時代に合祀された誉田別命。

記紀では、先代は仁賢天皇(億計天皇:おけのすめらみこと)、千先代は顕宗天皇(弘計天皇:をけのすめらみこと)で、前回紹介した飯豊青姫のいわくつきの兄弟あるいは甥となっています。


飯豊青姫やその甥の武烈天皇は記紀では奈良県葛城で即位したことになっていますが、福島県白河市や宮城県栗原市の東北地方においてそれらを祀る神社があることは興味深いことです。

上図の由緒では左遷された狩野掃部之祐が、小長谷若雀(おはっせわかささぎ)命=武烈天皇を奉斎し山神と尊称して祀ったとありますが、これが史実であれば、やはり狩野英孝の先祖だけあってお人よし過ぎます。(笑)


飯豊青姫や小長谷若雀(おはっせわかささぎ)命が東北の地で即位したと考えた方が素直ではないでしょうか。そうなれば、奈良県葛城の伝承や史跡は、不比等が編纂させた記紀やその後の史書(に合わせて創作したとの見方も可能になります。(狩野なだけに)武烈天皇の次代は越の国からでた継体天皇になります。



  
 一の鳥居                          道路わきにあった社標
 

 拝殿 狩野英孝のお母さんが書いたと思われるもの。人の良さがあらわれています。


 二の鳥居


 

二の鳥居脇の石碑 山神牛王        

フルール・ド・リス紋 女神が祀られているはず。

山神とは牛頭天王ではないのか。つまりスサノヲ。


 拝殿内部の扁額と拝殿の天井



 拝殿内部 右三つ巴紋の和太鼓

 
  

拝殿外側の扁額と桜紋                  本殿の千木は男千木



 境内のミヤギケンタウルス(狩野英孝とサンドイッチマンをモデルにしたキャラクター)と桜の木



 狩野さんの家紋 下がり藤

桜田山神社であることから、コノハナサクヤ姫との関連性を考えていましたが、フルール・ド・リス紋を発見できたので、その可能性は十分にあります。山神牛王の石碑からはスサノヲが導き出され、われわれの説では、コノハナサクヤ姫は双子の長髄彦とともにスサノヲの御子ですから、スサノヲとコノハナサクヤ姫が一緒に祀られることは十分に考えられることです。長髄彦も隠されているかもしれません。

狩野姓は加納や叶などと転訛される場合があり、また私の苗字である河野にも転訛されるようです。

つまり、狩野(かのう)河野(かわの)と同系統の可能性が無きにしも非ずです。

証拠の一例として、茨城県那珂市本米崎(もとこめさき)の三嶋神社の由緒書を掲載します。
 


これは河野氏が大山祇の系統であるイヨ(卑弥呼宗女)が孝霊天皇(この場合の孝霊はヤマトタケルではなく天足彦でしょう)との間に儲けた伊予皇子が先祖に当たることから、大山祇が加納(河野)明神と呼ばれたと考えられます。

つまり河野が転訛し狩野や加納になったということになるでしょう。


百嶋神社考古学にご興味の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野まで。携帯090-3479‐3438


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