カッパの伝言板

スポ根もの、戦争ものと学校教育との関係についての私的試論

 

・始めに

 昭和100年、戦後80年、あるいは前回の東京オリンピック、大阪万博から半世紀余りを経ての昨今のオリンピック、万博の再開催…何かと昭和時代を振り返りたくなるような機運が高まってきた現在、私が個人的に最も注目するのは、戦後日本におけるマスコミと学校が子供たちに果たしてきた役割の大きさとその内容である。

 家族を除けば、マスコミと学校の二つこそが当時の子供たちの心に最も大きな影響を与える張本人であることはほぼ間違いないだろう。学校教育の子どもたちへの影響力が甚大であることはもはや言うまでもないが、テレビを中心としたマスコミの力も実際には相当、強烈なものがあった。ちなみに私の家にテレビが据えられたのは多くのご家庭と同様、東京オリンピックをまじかに控えた1963年の末のこと。以後、テレビはラジオにとって代わり、たちまちお茶の間の王者として君臨するようになった。やがてテレビの無い生活が考えられないほどまで、テレビは私たちの日常に必須のものとなる。

 何せ私たちは当時、「テレビっ子」と呼ばれた世代に属していた。とりわけ子供向けのドラマやアニメが私たちの心の持ちように与えた影響には計り知れないものがあるはずだ。それは一体、どんな影響だったのか、誰がはたしてどんな目的をもって私たちを洗脳していたのか…それを探らない内は安心してボケることもできまい…

 私は昭和33年(1958)生まれなので、物心がつく幼少期は既に高度成長期のど真ん中であった。ひなびた房総、市原の海浜部はたちまち埋め立てられて煙突の立ち並ぶ工場地帯となり、ついには「市原ゼンソク」が脚光を浴び、中学校時代には光化学スモッグ警報が繰り返される日々を送っていた。田んぼや畑は次々と整地されて家や店舗が建ち、山林原野もまた続々と開発されて広大な新興住宅地や団地群と化していき、工場地帯の労働者たちの住まいに変貌を遂げていった。

 他方で私たちの周りにはいくつもの土管、ドラム缶が置かれた空き地が次々と出現しては消えていった。子どもたちの遊びの聖地は短期間で移動を余儀なくされながらも、しばらくは消えることが無かった。

 

 

 地域によって大きく事情は異なるだろうが、私たちまではいわゆるギャングエイジに辛うじて属しており、まだまだ草野球が盛んだった。異年齢集団でにぎやかに遊び暮らす日々は少しだけだが、私たち世代にはわずかながら残されていたのだ。

 しかし1960年代の中ごろからだろうか、経済成長期の活気が感じられる一方で、多くの私と同じ世代の子どもたちはある種の悪夢にうなされるようにもなっていたように思うが、いかがだろう。何か怖いものに追いかけられ、ひたすら逃げようとしてもがく…後味の悪い夢を少なくとも私は執拗に繰り返し見るようになっていた。

 落ちる夢、落ちそうになる夢、アリ地獄にはまる夢、追いかけられる夢、逃げるために空を必死に飛ぶ夢、空から落ちていく夢、殺される夢、テストで白紙のまま時間が迫り、焦る夢…それらの夢は一体、何に由来していたのだろう。

 まずは自分の悪夢の正体を探りたい、当時の私(あるいは私たち)に悪夢を見せ続けた張本人を見つけ出したい…もちろん、今更、フロイトの説を参照するつもりは無いのだが…

 

武道の復活

 敗戦後間もなく、日本は早速、GHQからいわゆるチャンバラ禁止令を出され、映画や演劇における剣劇の場面や、仇討ち劇(日本人のアメリカへの復讐心を煽るおそれから)が禁止されてしまった。また軍国主義的であるとされて学校における軍事教練や武道の授業が禁止された。

 あれから80年近く経ち、剣劇や武道を巡る状況は一変している。この間の劇的な変化がどのような目的でもたらされたのか、漫画やアニメ、さらに学校における武道の扱いの変化に注目して、その時代背景を絡めながら私的な考察を加えてみたい。

 以下、「戦後の武道教育についての研究―学校における武道の取り扱いに着目して―久保 優樹,武井 幸二,岸本 卓也 2017」の内容の概略を年代順に示しておこう。なおこの論文は非常に良く整理されていて武道復活の歴史的経過をザックリと知るにはもってこいの資料である。

ア.武道の復活

・敗戦後ただちにGHQの指令により軍事教練や武道が禁止

・昭和25年(1950)、柔道が学校教育に復活サンフランシスコ講和条約

・昭和27年(1952)、剣道が「しない競技」という名称で復活

・昭和33年(1958)、中学校学習指導要領の改訂により柔道や剣道は「格技」とさ

 れ、男子のみが各学年一種目を行うこととされた。

 「道徳の時間」が設けられたことで格技は徳育をも担う種目として従来よりも重視さ

 れるように。

・昭和44年(1969)、中学校学習指導要領の改訂で格技の授業時数が倍増。ただの体

 力作りに止まらず、公正な態度、規則遵守の精神、責任感などを育成する種目とし

 て一層重視されていく。

・平成元年(1989)、中学校学習指導要領の改訂で「格技」から「武道」に改称され、

 戦前からの呼称としての武道が復活。「伝統的な行動の仕方に留意する」と定めら

 れ、礼法の徹底が図られた。もはや数あるスポーツの中の一競技という位置付けか

 ら別格扱いに。

・平成10年(1998)、中学校学習指導要領の改訂で「我が国固有の文化として伝統的

 な行動の仕方が重視される運動」や「武道に対する伝統的な考え方を理解し、それ

 に基づく行動の仕方を身に付けることが大切である」 

・平成20年(2008)、中学校学習指導要領の改訂で武道がついに必修化され、伝統文

 化の尊重、愛国心や道徳心の涵養が武道を通じて図られた。

  ←教育基本法の改正(2006):第一次安倍晋三内閣

 なお、武道の禁止から復活への過程は武道を描いた漫画や時代劇の禁止から復活への過程とはほぼ平行して実現しているので、そちらの動向も以下に示しておく。もちろん公職追放の解除や戦犯の社会復帰、戦争物の漫画やドラマの復活、軍隊の復活もまた武道の復活と軌を一にしている。総じて「戦前への回帰」とも捉えられるこれらの動きをもたらした最大のきっかけは朝鮮戦争によるアメリカの対日政策の転換と考えられる。

イ.時代劇の復活と終焉

・敗戦後、いわゆる「チャンバラ禁止令」がGHQから出され、剣戟のシーンや仇討

 ちシーン(アメリカへの復讐心を煽るおそれ)は御法度に。

1951年頃から時代劇の復興が見られるように←サンフランシスコ講和条約

 姿三四郎の映画化、テレビドラマ化が続々と行われ、テレビアニメも登場。

 漫画の世界でも武道を描いた作品が登場し、1952年から1954年にかけて柔道漫画

 『イガグリくん』(福井英一)が『冒険王』で連載された。この作品は講談や時代劇

 などで描かれてきた伝統的な日本人的心情に則ったもので、柔道だけでなく異種格

 闘技戦の要素も含んだ作風は熱血スポーツ漫画のルーツとも呼ばれ、後の作品群に

 大きな影響を与えることになったという。

・1960年代半ば以降、時代劇の映画上映は減少する一方でテレビ放映が急増

・「柔道一直線」(TBS:1967~71)ブーム、スポ根ものドラマの一つ。

・「おれは男だ」(日テレ:1971~72)ブーム

・1990年代、いわゆるトレンディドラマの流行によって時代劇衰退

 なお、手段や理由が何であれ、「人殺し」シーンに子供たちまで拍手喝采を送るドラマの是非については、西部劇や戦争物の映画を含めてきちんと議論すべきだろう。

ウ.武士道と武道と阿部選手号泣の件

 戦争ネタと体育での格技の導入は子どもたちをより戦闘好みの競争的気質に変えていったのでは…うがった見方をすれば武士道と臣民の道の復活なのか…

 パリオリンピックでの柔道で阿部詩選手号泣の件をめぐり話題となった東国原氏の否定的意見をどうとらえるのかは、こうした点で興味深い。

 この問題に関して、柔道をあくまで武道として捉えるのか、国際的なスポーツの一種目として捉えるのか、どちらの観点に軸足を置くかで意見は分かれる、とする見方があるだろう。しかし、最も重要なのは戦後の武道を戦前までの武道と異なる視点で捉え直すことではあるまいか。かつての武道は基本的に神道や武士道と強く結びついており、道場は神聖な場として常に清められる必要があった。

 とりわけ剣道を中心に武道は武士道とも分かちがたく結びついていた。武道界にはびこる年功序列の体質は武士道の影響抜きでは語られないだろう。柔道をオリンピックの種目として維持していきたいのであれば柔道連盟は武道の持つ神道的な要素を薄め、かつ年功序列型の師弟関係を排除していく必要があるに違いない。

 他方で「礼を持って始まり、礼を持って終わる」武道精神は平和の祭典たるオリンピックにふさわしいものがあり、むしろ日本はこれを積極的に世界に広めていくべきであろう。すなわち武道を国際的なスポーツとしてより一層発展させたいのであるならば、まずは武道と神道及び武士道とを切り分けて考えていくことが肝要ではあるまいか。

 逆に剣道界の様に日本の伝統に固守する勢力が強いのであるならば、剣道がオリンピックの種目とされることは諦めるべきだろう。また学校体育や部活動においてもすべからく神棚を撤去し、暴力的な鍛錬主義を一掃できない限り、剣道は体育の種目および部活動からから全面的に外すべきと考えるが、いかがか。

 

少年向け戦争ものの隆盛(1960年代中頃)

 少年向け戦争物の先駆的番組「快傑ハリマオ」(1960~1961)は日本テレビ系ほかで放送。太平洋戦争直前の東南アジアやモンゴルを舞台に、正義の日本人男性・ハリマオが、東南アジア(第4部を除く)を支配する某国の軍事機関、彼らと結託する死の商人や秘密結社、スパイ団と戦う冒険活劇。

 太平洋戦争直前、マレー半島に大日本帝国陸軍に協力した義賊「マレーの虎」「ハリマオ」こと谷豊という人物がハリマオのモデル。谷の活躍は当時のマスコミで宣伝され、大映が現地ロケを行って『マライの虎』という映画を制作し、戦時中に大ヒットさせている(1943年)。

 敗戦後しばらくの間、軍国主義のシンボルとしてその存在は忘れ去られていたが、「昭和の妖怪」(1960年当時の首相は岸信介)の如く、なぜか子供向け番組のヒーローとしてブラウン管に復活していた。

 1960年代に少年時代を送った世代は本格的にテレビの洗礼を受けている。したがってテレビが家庭に普及し始めた頃に登場した「怪傑ハリマオ」が当時の少年たちに与えた影響は決して小さくなかったと思われる。

 当時の男子たちが楽しんでいたごっこ遊びは圧倒的にチャンバラが多かったが、やがて戦争ごっこも加わっていく。いずれにせよ、人の命を奪うシーンが繰り返されるような、殺伐としたごっこ遊びの増加は当時の子どもたちに一体どんな爪痕を残していたのだろう。しつこいようだが、個人的にはひどく気になるのだ。

 

    東京オリンピック開催の前年にあたる1963年、少年マンガの世界はどんな特色が見られたのか?少年キング創刊と戦争漫画の出現は一体、何を意味するのか?ヒトラー政権の下で開催されたベルリンオリンピックを思い出したい。

 実は切磋琢磨してメダル獲得を目指し、競い合うスポーツと戦争とは極めて相性が良い。日本のプロ野球の父、メディア王の正力松太郎が最初に目を付けたのはそこではなかったか?

    1968年創刊のジャンプが掲げるスローガンは「友情・努力・勝利」。見事に勝利至上主義、そして根性と協調性を偏重する日本の学校での運動部の伝統と響き合う。、

 

 

 高度経済成長をもたらした池田勇人内閣の時におけるこの集中豪雨的な戦争ネタの多さは当時の子供たちの好み、感性を戦闘好き、競争好きに変えていったはず。1964年の東京オリンピックをはさんだ時期における戦争ネタの洪水は同じ1964年、トンキン湾事件を機にベトナム戦争へのアメリカの介入に刺激されて国威高揚と日米安保体制の強化、再軍備の推進を図ろうとする日本政府の密かな意図が見え隠れする。

 罪深いのはテレビ局や新聞社、学校だけではない。講談社や集英社、小学館といったマンガ週刊誌を出していた出版社も同罪だろう。

 

 チャンバラごっこに加えて戦争ごっこという遊びも流行。これは身もふたもない言い方をすれば戦時中にも見られた人殺しを遊びにしてしまうような風潮が子供の世界に急速に復活してきた、ということに違いない。それは日本の再軍備の歩みと教育の管理統制強化とが平行しつつ、きな臭さを強めていたこの時代の空気感を素直に反映しているに違いない。

 1960年代に入り、突如として戦争ものの漫画、アニメ、ドラマ、プラモデル、玩具が激増する。この時期、子供たちにあたかも集中豪雨のようにして浴びせられた戦争ネタによる洗脳がその後、私たちテレビっ子世代にどのような精神面での爪痕を残していったのか、少しばかり考えてみたい。

 

学校教育とマスメディアの責任

 学ランとセーラー服が陸軍、海軍(水兵)の軍服に由来することは周知の事実。学帽やランドセルも軍隊由来。テレビ局や新聞社、出版社も罪深いが、最も罪が重いのは学校教育であると私は考える。マスコミと学校教育とが今の日本人の精神性を根底で形作ってきた二大戦犯ではないのか。

 特に近年はマスコミへの批判が集中し、「マスゴミ」などと揶揄されているが、子どもたちの洗脳という観点で一層罪深いのは学校教育の方なのだ。明治以降の150年以上の長期間にわたって国民がそのことに気付けないのは、私たちが幼い時から繰り返し無意識のレベルにも及ぶ学校での洗脳の成果に他なるまい。

 なお運動会の原点はイギリス海軍の指導で1874年、海軍兵学寮に導入された「競闘遊戯」である。組体操と騎馬戦は団結力と闘争心の養成に役立つため、児童生徒への危険性は承知の上で戦後においても強行されてきた。

 そもそも学校には早くから丸刈りの強制、体罰の容認など人権軽視、コンプライアンス度外視の伝統が根付いていたといって良い。たとえば学校での体罰は明治中頃、教育令(1879)、小学校令(1890)によってとっくの昔に禁止されていた。が、その当時から既に体罰禁止規定が学校現場で守られた試しはほとんどなかったのだ。

※なお学校の兵営化は戦時中、実際に行われた地域もあり、また校舎が軍需工場に利用された場合もあ

 った。こうした結果、学校は戦闘機による機銃掃射のターゲットとなり、教職員や児童生徒らにも数

 多くの犠牲者が生まれてしまった。

 

 学校は何よりも子供たちの心身の鍛錬の場であった。したがってクーラーが普及した時代でも長い間、学校だけは教室にクーラーが設置されていなかった。特に体育館はいまだにクーラーの設置率が低く、夏の間、住民が豪雨などの災害で避難のために殺到してしまうと地獄を見るはず。

 冬も床が冷えてきて小さなストーブでは安眠できず、ほとんど防寒としての意味をなさない。このことは東日本大震災で一度、世間に知れ渡っていたはずだが、能登半島での地震で、またもや学校の避難所としての設備不足、機能面に大きな懸念と疑惑が浮上してしまった。私たちは先進国で最低レベルの低予算で教育を切り盛りしてきたのが日本であることに、災害発生時、改めて痛感させられるのだ。

 敗戦後、日本の学校はアメリカの指導下、民主主義的な方向で大きく変えられていったはずだが、実際はそうでもなかった。たとえば高校はアメリカのハイスクールをモデルとしながらも、その実、新制高校の三大原則であった「男女共学、小学区制、総合制」の中で一部でも実現できたのは恐ろしいことに男女共学だけであった。しかもその男女共学ですら埼玉県などではいまだに不十分なままである。

 すなわち戦後の学校教育は実際には戦前と大差なく、相変わらず皇国民錬成の場におけるがごとく体罰を是認し、根性を鍛える精神主義的志向が強かったのだ。さらに一斉講義形式を中心とした画一的授業に見られる管理主義的で同調圧力の極めて強い集団主義が随所に色濃く残存していた。戦前から法的には禁止されていたはずの体罰や時代遅れのブラック校則の存在がそれを雄弁に物語っているのだ

 こうした学校の非民主主義的で非合理主義的な体質は、たとえば軍事教練を起源にした組体操(ことに人間ピラミッド)や騎馬戦、棒倒しといった危険な種目を戦後も長らく学校行事や体育の世界に温存させてきた。大阪府や神戸市で執拗に続けられた人間ピラミッドにおける重大な事故の数々はいまだ記憶に新しいだろう。

 学校での軍隊式鍛錬と次に述べるマスメディアが提供するスポ根ものとは、ともに協調性と根性を重視する精神主義的性格において共通しており、極めて両者は相性が良かった。そして心身の鍛錬を名目とする勝利至上主義は広陵高校野球部の件を例に出すまでもなく、校内での暴力やイジメを生み出す土壌となっていたはずである。

 

スポ根ものの隆盛(1970年前後)

 

 

 スポコンものの代表格である「巨人の星」(1968年から読売テレビ・日本テレビ放送、作画は川崎のぼるで原作は梶原一騎)は現在ではコンプライアンス上、放映の許されない描写が続く。しかし当時の少年達の多くは大リーグ養成ギプスにすっかり感化されて親にエキスパンダー(1954年発売開始)を買ってもらい、自分なりに巨人の星を目指して筋トレに励んでいた。1969年にベストセラーとなった石原慎太郎の「スパルタ教育:強い子どもに育てる本」(カッパホームス:光文社1969年)もその後のスポ根ブームを招来した土壌の一つに数えられるだろう。

 女子向け「スポ根もの」アニメの代表格が「アタックNO.1」(浦野千賀子原作)。1968年から週刊「マーガレット」連載。テレビアニメとしては1969年からフジテレビ系列で放送。現在では絶対に許されないレベルのスパルタ式猛特訓、まさに「不適切にも程がある」描写は東京オリンピック(1964)で女バレチームが金メダルを獲得した際の大松監督の指導を想起させる。なお女子向けスポ根ものは他にも「サインはV」、「エースをねらえ!」などがあった。

 スポ根ものの代表的な原作者である梶原一騎(1936~1987)は知的エリートの父と体格の秀でた豪放な母との間に長男として生まれる。戦時中、戦後間もなくの厳しい時代に少年期を送り、疎開などで九州、東京を転々とする中、小学生から中学生にかけて軽犯罪を繰り返し、4年間を教護院(現児童自立支援施設)で過ごす。しかし17歳でボクシング小説が「少年画報」で入選。1962年、プロレス漫画の原作が「週刊少年マガジンに連載され、26歳で人気作家となる。

 彼は「巨人の星」(1966~)、「柔道一直線」(1967~)、「明日のジョー」(1968~)、「タイガーマスク」(1968~)「キックの鬼」」(1969~)、「赤吉のイレブン」(1970~)、「空手バカ一代」(1971~)、「侍ジャイアンツ」」(1971~」などの作品を通じて底辺から這い上がろうとする男の子を主人公に据えてきた。彼らは皆、様々な試練を乗り越え、限界を突破しようとするスポーツマン、熱血漢であった。彼らの物語は敗戦の焼け跡から必死で立ち上がろうとしてきた世代からも大きな共感を呼び、10代の少年だけではなく20代、30代の若者をも虜にしていった。

 1970年3月31日に発生した『よど号ハイジャック事件』では、犯人らが「われわれは明日のジョーである」〔ママ〕と声明を残している。そういえばあしたのジョーの主題歌を作詞した寺山修司(1935~1983)の作品に「 マッチ擦るつかのま 海に霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや 」がある。

 「身捨つる」に足る何かを求める激しい捨て身の思いは「滅私奉公」を強いられた戦時に育った者に特有の精神なのかもしれない。彼は1935年生まれ、つまり国民学校世代に属していた。47歳という若さで肝硬変で亡くなる死にざまもこの世代らしさを強く感じる。

 寺山と一歳差、1936年生まれの梶原一騎は川崎のぼるの作画で「巨人の星」を少年マガジンに1966~1971年にかけて連載し、1968~1971年、テレビアニメ化された。大ヒット作となったが、父親の星一徹による暴力シーンは現在、コンプライアンス上の問題でテレビでの再放送を不可能にしている。また大リーグボール1号などは現在のスポーツマンシップとは明らかに相容れないものである。この作品、どう見ても青少年の健全な育成の反するレベルでの、手段を択ばぬ勝利至上主義の危険な臭いが濃厚に漂ってくるだろう。

 すなわち梶原一騎の作品にはどうやら目的のためには手段を択ばぬテロリストの論理のような気配が見え隠れする。後の過激派による捨て身のテロ行為、内ゲバを正当化する側面があったのかもしれない。しかし何はともあれ、現在の60代から70代の世代は間違いなく、こうした激しい闘争心を骨の髄まで沁み込ませられていたのではなかったか。

 「あしたのジョー」の最後で主人公矢吹ジョーが燃え尽きた姿を見せた時、日本人の過労死を美化しかねないほどの「燃え尽き症候群」的精神は私たちの世代にしっかりと充填されてしまっていたようでもある。

 これはもしかしたら三島由紀夫(1925~1970)の武士道的美学にも通じていたのではあるまいか?それは生き様よりも散り際の潔さを尊ぶ、「死に狂い」の武士道に通じる美学につながりかねない危うさを持っていたのではあるまいか?

 梶原一騎の晩年は傷害事件、麻薬疑惑(萩原健一に大麻を渡していた疑惑…)などのスキャンダルを連発させていた。そしてたちまち人気を失い、暴飲暴食もあって1987年に急死している。

 

 「明日のジョー」には熱狂的なファンが多く、作中キャラに過ぎない力石徹の死を惜しんで1970年3月24日、講談社で葬式が盛大に執り行われたことは有名である。

 マンガやアニメに熱狂したテレビっ子世代は他方で、60年安保、70年安保の敗退、学園紛争の収束に伴い、若者に成長していく過程で急激に政治離れを進めていった。かつての「テレビっ子」の多くは結局のところ、三無主義の「シラケ世代」と呼ばれるノンポリ青年となっていったのである。

 

 昭和世代の日本人には敗戦後の焼け跡から星一徹の如く逞しく裸一貫でのし上がってきたというそれなりの一体感と自負とがあった、と指摘する人がいる。おそらく戦後しばらくは普通の人々の間に現代ほどの経済的格差による大きな社会的亀裂は生じていなかったのではあるまいか。即ち1970年代の日本が「一億総中流社会」と懐古されるゆえんである。

 しかし1970年代後半からは簡単には埋められぬほどの経済的格差が随所に目立ち始めていた。その格差を何とかして努力と根性で埋められなければ周囲から怠け者、根性無しと罵られかねない・・・子供達はそのように身構えながら、毎日手に汗を握り、ブラウン管から繰り出される「スポ根もの」アニメの洗礼を不用意にも放射能のように毎日、浴び続けていたのかもしれない。

 少しでも怠けたり油断して手足を休めようものならズルズルと奈落の底まで堕ちてしまうかもしれないアリ地獄のような恐怖と悲壮感…自分の将来への得体の知れない重苦しい不安・・・いつ果てるとも分からない競争社会の闇にやがて多くのテレビっ子世代は飲み込まれていくことになる。

 

 

 酷薄な受験戦争とモーレツ社員の時代の到来である。どうやら軍国主義的な風潮の復活によって甦った精神主義、「滅私奉公」の集団主義は「スポ根もの」という平和主義的な装いを得て「社畜」とも呼ばれた企業戦士を力強く支えていく、闘争心あふれる精神を自らの魂に装填していたのかもしれない。  

 「血の汗流し、涙を拭くな…」といった体罰とシゴキを前提とする軍隊式、スパルタ式鍛錬の積み重ねこそが勝利をもたらす・・・そんな戦時中の「大和魂」の根性論に限りなく近い精神主義が当時の少年達に繰り返し刷り込まれていた。1972年の札幌オリンピックは「日の丸飛行隊」の活躍などにより、スポ根精神論を再活性化するのに大きな役割を果たしたに違いない。

 これは当時の少年達にとって実に効果的な洗脳策であったように思える。実際、この世代はやがて「受験戦士」として受験戦争を戦い、「企業戦士」となってからは苛烈な経済戦争の渦に巻き込まれて長時間の残業を耐え忍び、挙げ句の果てに「24時間戦えますか」(リゲインCM:1989~91))などと「過労死」まがいの世界へ向けてひたすら叱咤激励されていく。

 「シラケ世代」と揶揄されてはいたが、熱血スポ根アニメの影響力は私たちの世代から決して消え去ったわけでは無かった。彼らは長じて企業に就職するや否や「産業戦士」として新たな熱血ドラマの世界を駆け抜けていく。その多くは確かに政治的にはシラケていたが、勉学においては激しい受験戦争を努力の末に勝ち抜こうとする受験戦士であり、労働においては意外にも多くが熱血漢であったのだ。子ども時代にマンガやアニメから繰り返し受けてきた努力と根性の「熱血漢」として、精魂尽き果てるまで戦い続けるべし、という教え、呪縛から私たちははたして今、自由になれているのか、否か…

 

 テレビっ子世代はこうして常に激しい競争社会に踊らされ、煽られ、燃え尽きるべく強力に駆動されてきた、市場競争におけるただの駒の一つであり続けたのだろうか。そして私たちは「一旦緩急有れば義勇公に奉じ」…本物の戦士として潔く戦場に赴く「醜の御楯」となれるよう、学校や漫画、アニメによって洗脳されてきた…そうした側面をあわせ持つのかもしれない。武道が学校体育においてひときわ重視されたのは、それがスポ根ものと戦争ものとを密かに結びつける接着剤の役割を期待されていたからなのではあるまいか。

 

 今、体育教師に厳しく問うべきは武道の精神と武士道との違いとは何か、という一つの重大な疑問、疑念だろう。その境界が曖昧にされてしまうようなら、学校スポーツを軸とする日本の学校教育は、いつの間にか武道と言う名の戦場へと通じる通路を利用していずれ児童生徒たちを再び戦場へ送り込むことになるのかもしれない。

 とは言え、朝ドラの「あんぱん」で国民学校の教師だった主人公のぶが犯した過ちを、今さら現代の教師たちが繰り返すわけにはいくまい。私たちは今一度、立ち止まって戦後日本の歴史をじっくりと振り返ってみるべきであろう。

 

 人類はこれまで競い、争うことにあまりにも過剰なレベルで情熱を注いできたように思う。戦争やスポーツ、出世競争、受験勉強…ドラゴンボール、ナルト、ワンピースそして進撃の巨人、鬼滅の刃、チェンソーマン…マンガ、アニメの世界でも延々と何がしかの闘争が繰り返されている。闘争は自己目的化して次々とゲーム化し、エンタメ化して装いを新たにしつつ私たちを虜にし、いつまでも飽きさせない。

 あたかも魔法にかけられたかのように、私たちは考えることなく闘争というゲームに没頭してきたのではあるまいか。しかし、まさか私たちは競い、争うためだけに生まれてきたわけではあるまい。そろそろ闘争の場から少し距離を置いて、闘争がもたらした負の側面にもテレビっ子世代として目を向けてみる必要があるのではないか。