カッパの伝言板53 高校教育の無償化

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参考動画

【日本の公教育は、古くて貧しい】東京と地方の差が大きい/不登校34万人/知識

   の詰め込み方も多様/学校のWiFiが繋がらない/フリースクールの月謝補助を/教

   育機会確保法による変化/軍隊教育マインドの名残

   PIVOT 公式チャンネル 2025/03/22  29:56

   白井氏が指摘しているように公教育の古さと貧しさは確かに日本の学校教育における大問題であろう。そしてフリースクールを含む学校の多様化を生み出すにはまず国家による学校教育への統制を緩めることが必要である。

   公教育だから統制を厳しくするのは不可避だ、とするのは教育観の古さと教育予算の貧しさに由来する側面が小さくないのではあるまいか。教育行政の画一的管理主義こそが学校教育の管理主義を蔓延らせている根源ではないのか。

 軍隊教育のマインドが残存する学校教師の問題は確かにあるが、そもそも軍隊教育のマインドを持つ政治家と官僚の責任こそ、強く問われるべきであると考えるが、いかがか。教師の質の低下を問う以前に、問われるべき問題は数多くあるはずだ。

参考記事

公立学校の廃校、延べ数は8,850校現存廃校の活用は7割超

 リシード 2025.4.10

 このデータが意味しているのは、かつて白井智子氏が指摘したごとく、まさに日本の公教育の古さと貧しさそのもの、であると考えるが、いかがか。

 将来的に児童生徒数が大幅に減少していけば、やがて学校の施設や教職員にゆとりが生まれる、一学級の児童生徒数が劇的に減少し、一人一人の児童生徒へのきめ細やかな配慮が可能となってくる…などといった30年ほど前の教師たちが抱いた期待は無残にも悉く裏切られてきた。

 むしろかつてよりも教師の負担が増大し、しかも不登校やイジメ件数は増加している。一クラスの児童生徒数が最悪の50人から35人程度まで減少したにもかかわらず、教師たちの中途退職や休職は増える一方となり、教員志望者数と正規教員数とが同時進行で急速に減少し、地方によっては学校としての体裁を保つこと自体が危ぶまれるレベルにまで不足してきている。

 今後、高校の無償化が進むにつれて、公立を中心に高校の統廃合は一層加速していくに違いあるまい。そして東京や大阪に限らず、将来的に公立高校はいよいよジリ貧となり、全国規模で一気に縮小、削減されていくのかもしれぬ…

 児童生徒数の大幅な減少という、教育環境の改善においてはせっかくの追い風を有効に生かせなかったばかりか、かつて以上に負担増という形でひたすら教師への逆風を吹かせ、教師の疲弊と若者の教職離れを加速させてしまった…教育行政の責任は、今こそ間違いなく「万死に値する」ほど重い…と言うべきではないのか。

橋下氏知事時代に教育委員会と激突して進めた教育改革 少子化で定員割れの公立

 校に統廃合必要と主張 関西テレビ 2025年3月12日

 橋下氏の主張に対し、私としてもかつては新自由主義的な側面を危惧し、大きな懸念を抱いたことがあったが、今となっては十分な説得力があると考える。今日、全日制普通科の府立高校の半数以上が定員割れを起こした背景には公立高校における改革の歩みの鈍さがあるだろう。旧態依然のままの公立はもはや時代の急激な変化についていけなくなったのだ。その責任の過半は学校ではなく、個々の学校の自由な取り組みをひたすら妨害してきた文科省と教育委員会にある。

 この公立離れ現象は4月からの「高校無償化」によって瞬く間に全国に拡大するであろう。確かに詳しく政策を見れば、「高校無償化」とは名ばかり、高所得者層のニーズにばかり対応することでさらなる格差拡大へと向かってしまう懸念は大きいが、何はともあれ全国的なレベルでの公立の没落自体は大歓迎されるべきことである。

 こうした事態を招いてしまった文科省や教育委員会の責任は極めて大きく、結果的に教育行政全体への根源的批判が大きく広がることを私は願っている。こうした動きが文科省や教育委員会のあり方、教員養成や教員採用のあり方、学習指導要領のあり方などを根本的に見直す、絶好の機会だと捉えたい。

知っておきたい!新しい教育の形「メタバースの学校」とはどんな場所?メリッ

   ト・デメリットも紹介 saita 2025.3.12

   こうした斬新な学校の在り方も視野に入れて高校教育の無償化を論じていく必要があるだろう。税金が投入されているがゆえの制約、不自由さが公立高校にはある。学習指導要領などでガンジガラメに学校を縛り付けてきた教育行政の在り方を根本から見直す上で、先進的な取り組みは大きなヒントとなるだろう。

 N高やメタバースを利用した学校を念頭に置くことは柔軟な発想を生み出す上で役立つに違いない。たとえば週の二日は通学し、三日はメタバースの学校を利用する…といったような、まったくタイプの違う学校を組み合わせた通学もOK、とする視点は、学校への固定的な観念を柔らかくほぐし、自由な発想を可能にするはず。

 しかし、日本の画一的で管理主義的な教育行政の現状ではこうした取り組みはとりわけ公立学校では極めて難しいだろう。大胆な発想の転換はN高のような私学の取り組みに期待するほかない…違うだろうか。

実はデメリットだらけの「高校授業料無償化」 日本維新の会による党利党略で「大

   阪府」が丸もうけ AERA dot. 古賀茂明 2025.3.11

   古賀氏の意見の多くは確かに正論であるが、やや現実的ではあるまい。公教育の動きを振り返ると、公立高校の改革を望むことをもはや諦めるほかないほどに迷走を繰り返してきたからである。少なくとも今の政府、文科省に本質的で根本的な取り組みは出来ないだろう。まず文科省自体を一度、全面的にリセットしなければ教育改革は前に進みようがないからである。文科省の迷走ぶりについてはブログの随所で指摘してきたのでここでは割愛するが、そのトンチンカンさには呆れるほかないのだ。

 どうやら同じ官僚出身の古賀氏の認識には公教育への危機感が、文科省の官僚並みに欠如しているようなのだが、いかがだろう。

 古賀氏の論点で特に違和感を覚えるのは「第2に、私立高校への志願者が増えると、財政的に楽になるため、一部の私立はあぐらをかいて努力を怠り、本来は淘汰されるべき質の低い私立高校の温存につながる可能性もある。」という指摘。「あぐらをかいて努力を怠り、本来は淘汰されるべき質の低い」教育を行ってきたのは一体どこのどなたなのか。それは日ごろから淘汰圧にさらされてきた私学ではなく、官僚制の下で上意下達のお役所仕事に甘んじて責任逃れに終始し、学校経営の当事者意識が校長ら管理職たちにスッポリと抜け落ちていた公立高校の方ではなかったか。

 続発してきた学校、教育委員会によるイジメ事件等の隠蔽工作、入試を巡る数々の不祥事、繰り返される部活動や学校行事における体罰や学校事故などはまさに中央集権的で画一的管理主義をとってきた教育行政の有り難き賜物というほかあるまい。

 文科省の致命的欠陥は地方の教育委員会以下、学校現場の実情にまったく無頓着で興味関心が無い、という点である。このお役所の現状把握の意欲の低さは驚くばかりであり、教育現場への認識能力が大きく欠ける組織にまともな教育改革を期待する方こそどうかしているのだ。教育予算を引き上げて教育の質向上と教育環境の整備、充実、とりわけ教師の労働環境の改善に早急に努めなければならない中での、文科省が次々と打ち出す的外れな政策の連打にはもはや絶望しか感じられない。

 高校の無償化が公立高校の衰退を招いたとしても、それが直ちに高校教育全体の荒廃を招くわけではあるまい。私学、公立を問わず、高校における学校間格差は極めて大きい。むしろ当初は「安かろう、悪かろう」の公立が真っ先に淘汰されることで一時、学校の質が整う可能性だって無きにしも非ず、なのだ。これは古賀氏の言う、暴論などではない。それほどまでに文科省直轄下の公立高校は行き詰まり、停滞を極めている…違うだろうか。

 私学のN高のような、新鮮で大胆な取り組みを、公立においてはひたすら妨げてきた教育行政の在り方を変えない限り、公立高校の再建は不可能であろう。つまり私たちが教育改革への期待を寄せられるのは個性的で大胆な私学の試みの方ではないか。したがって公立中心から私学中心へと高校教育の軸を変えていく事こそ、現状では高校改革の王道であり、「正義」であり、「正論」そのものかもしれないのだ。

 ただし私学中心の高校改革を実現する上で重要な条件がある。当然すぎる事であるが、市場における自由競争に委ねればダメな学校が淘汰されて自動的に教育の質が向上する…とは限るまい。これは古賀氏の懸念する通りであろう。今後、どのような高校教育が望ましいのか、意見は大きく分かれる。今こそ、じっくりと腰を据えて現状をきっちりと把握した上で、時間をかけて検討を繰り返し、根本的で効果的な改革の道筋をつけていく時なのではあるまいか。

 その検討を始めるためにはこれまで教育予算を削り続けて子ども、若者、女性を見下してきた老害政治家たちを政界から追い出す事が先決となるだろう。そのためにも政権交代がまずは必要不可欠となる。さらに文科省とは独立した審議会を設けて教育改革の方向性を定めていく必要が出てくるだろう。

 「国家百年の大計」…拙速は禁物なのである。

ちょっと待て!「高校授業料無償化」で得するのは年収910万以上、私立に通わせ

   る恵まれた世帯のみだ/佐藤治彦「儲かる“マネー”駆け込み寺」

   アサ芸biz 2025.3.10

   国民民主党が主張する「103万円の壁」の撤廃に対抗するために維新や立憲民主党と「高校無償化」で手を組み、政府の予算案を通過させて「103万円の壁」問題から国民の目を逸らそう、骨抜きにしよう…という魂胆を感じて政府に反発する声が出てくるのは至極、当然のことである。しかし高校の無償化自体はいずれ必要だろう。そして無償化の結果、公立高校が淘汰されてしまう事には、もちろんマイナス点があるだろうが、積極的な意義もまた見い出せないわけではあるまい。

   加えて高校の無償は年収910万以上の恵まれた世帯のみ得をする…とはあまりにも視野が狭い指摘であると思うがいかがか。たとえ通学が不便でも我慢して遠隔地の公立高校に通っていた児童生徒にとっては、公立高校の没落によってバスの送迎でたやすく私学に通えるようになった方がよほど助かる話であろう。一部の私学の通信制高校では極めて意欲的に授業改革を推進しており、公立高校での「金太郎飴」のような没個性的授業を受けるよりは遥かに有意義な授業を受けられる可能性がある。地方にはびこる保守的な公立高校信仰を払拭する上でも、公立高校の衰退は高校教育全体においてむしろ極めて有益なのではあるまいか。

高校無償化「ますます教育格差進む」…知事、政府予算案修正案受け

   読売新聞 2025/03/07 12:00

 公立高校への依存度が高い地方では今後、少子高齢化の急速な進展に伴い、通学の便の悪さがさらに増大し、生徒数と教員数の不足による公教育の質の低下がいよいよ放置できないレベルまでに達していく可能性があるだろう。富裕層と貧困層との教育機会の不均衡は確かに問題であろうが、児童生徒の居住地間における教育環境の格差拡大にも目を向けるべきであると思うが、いかがか。

   地方の私学の多くは送迎バスを用意して広範囲から生徒を集め、定員拡充や受験倍率の向上に努めている。一方、予算の無い公立高校は生徒たちの通学上の不便を解消する手立てをほとんど講じられていない。公立高校しか存在しない地域では私学こそが通学上の不便を解消してくれる唯一の高校なのであり、地方においても私学に進学希望者が殺到するようになるのは必然的なのだ。

 現在、高校の無償化に対して経済的格差拡大の観点から盛んに批判する風潮が見られるようだが、無償化は公立の没落を招くことでむしろ格差の縮小と教育の質の向上にもつなげられる可能性を持っている、といった考えも成り立つはず。

 無償化に反対する人々は、本音の部分では批判する目的を格差拡大への懸念には置いておらず、教育への国家統制を強化、ないしは維持することに主眼を置いて批判しているのではあるまいか。私学よりも公立の方がより画一的であるがゆえに文科省や教育委員会の統制下に置きやすい…したがって公立高校の衰退は好ましくないと考えている向きは、おそらく保守的勢力において決して少なくあるまい。

高校無償化は「地方公立に不利」 細る通学の足、私立は県境越えバス

 朝日新聞社 2025.3.9

 高校無償化が公立高校の没落を加速するのは大阪府や東京都の現状を見れば明らかであろう。最大のポイントは公立の没落が高校受験生にとって不利になるのか否か、である。すなわち全国すべての公立高校が消滅し、すべて私学となってしまう事でどんな事態が予想されるのか、よくよく考えておくべきだろう。

 朝日新聞が指摘するように、通学の便からみて私学は圧倒的な優位に立っている。

交通の便の悪い地域の生徒たちはこれまで、本数の限られた電車やバスを乗り継いだりしながら1時間以上、場合によっては2時間近くもかけて遠くの公立高校に通学している。当然、放課後の部活動に参加することは極めて難しい。地方のこうした地域では私学が存在しないことが多いので、今まで進学先に私学の選択肢はほとんど視野に入れていなかった。そうした地域に私学のバスが自宅近くまで来てくれて送り迎えするようになれば、進路先にもっぱら私学が選ばれるようになるのは必然であろう。

 私学の中にはドワンゴ学園の様に通信教育を柱にして全国から大勢の生徒たちを集めている学校もある。少子高齢化が進み、ローカル鉄道やバス路線の廃止、縮小が進む厳しい地方の現状がある。したがって今後、一層多くの中学生たちが通信制をも含めた私学を有力な進学先として視野に入れてくるに違いない。無償化が進めば、何も無理して地元の公立へ進学する必要は無くなるのだ。結果的に公立高校の多くは淘汰されてしまうだろう。

 仮に公立高校へ通学するメリットがあくまでも教育費負担の軽さだけであったとしたならば、無償化の結果、公立高校が消滅していくとしても地方の中学生にとっては痛くもかゆくもあるまい。むしろ学校経営の個性と手腕が問われる私学を軸とした高校教育の方が選択肢の幅が広がり、受験生のメリットは大きい。これまで公立高校でも個性化が進められてきたものの、公立はやはり予算の制約が大きく、限界がある。たとえ授業がユニークで面白い、といったことなどで人気のある教師が複数集まり、高校の評判が一時的に良くなったとしても、公立では瞬く間に教師たちが異動してしまう。公立の評判は一部の伝統的進学校を除くとそのほとんどは極めて不安定。しかし教師たちの顔ぶれが急激に変化しない私学の評価は経営側が大きく失敗しない限り、さほど変動はない。

 経済的負担の軽さ以外で公立高校へ通学するメリットはあるのだろうか…おそらく無いだろう。もちろん個々の学校をつぶさに見れば、状況にはかなり学校間格差があるだろうが、総じて通学の便、施設の充実度、個性的な学校経営…ほとんどの観点において、私学は公立よりも有利である。結論として今後の高校教育は私学が軸となっていく他あるまい。

 もっとも私学に負けてしまう責任は公立高校側にはほとんど無い。先進国の中で教育予算が最低レベルまで低い、教科書検定制度など、公平さを求めるあまりの行き過ぎた画一的で管理主義な教育行政…つまり、これまでの政治が悪いから公立高校が没落するのだ。そして「安かろう、悪かろう」の公教育が淘汰されていくのは児童生徒にとって、むしろ大変喜ばしい出来事なのかもしれない。

 結局、若者や子ども、女性、そして学問や教育を軽視する日本の政治が変わらない限り、公立高校のみならず、義務教育から国公立大学までの公教育全体が徐々に劣化していくのは不可避であろう。

「ますます教育格差も」 自公維の高校無償化に、和歌山県知事が苦言

   毎日新聞 2025.3.7

 高校の無償化が公立高校の志願倍率を下げ、私立高校のシェアを拡大することで教育格差の問題を悪化させるという意見は、保革の立場を超えてかなり多く支持されているように見受けられる。確かに東京都や大阪府のような、公立高校の低受験倍率状況が全国に広がっていくことの可能性は決して低くは無いだろう。

 教育無償化を進める本来のメリットの一つは、この政策が一見すると、家庭間の経済格差によって生じてしまいがちな、教育を受ける機会の不均等さへの是正措置となりうるように見える点にある。しかし、維新の会の真の狙いは、それよりも無競争的であるがゆえに自己改革を怠りがちな公立高校の淘汰、すなわち学校間、教師間の競争を煽って公教育の民営化を強力に推進することにあるように見受けられる。そうした立場からは公立高校の没落はむしろ大歓迎されることになるだろう。

 ところがこれまで文科省が及ぼしてきた高校教育における影響力と教育内容への統制力の大きな低下を恐れる官僚たちや自民党の保守派は、管理統制しやすい公立高校の没落を必ずしも歓迎しないのではあるまいか。だからこそ和歌山県知事のような論理を用いて高校無償化を危惧し、本音では公教育の保守性を固守せんとする…そういった動きも各方面で見られるのだろう。

 教育の画一性を緩め、過剰な管理統制主義を排して児童生徒の個性や多様性、自己決定権を重んじる方向へと大胆に舵を切ろうとするのであるならば、改革への動きの鈍い公立高校の淘汰は少なからずプラスに働くかもしれない。

   私立高校のシェアがたとえ半分を超えたところで、和歌山県知事のように教育の格差が拡大すると決めつけるのはいかがなものだろう。実際には、彼の主眼は教育の格差拡大を脅し文句に使って財政負担の避けられない高校教育の無償化を妨害しつつ、公立高校のシェアを守ることで公教育が孕んできた頑迷な保守性の存続を画策することにあるのではあるまいか。

高校無償化巡り、教育の質の重要性を石破首相強調「卒業証書さえもらえばよいと

   いうものではない」 読売新聞 2025.2.26

県立高校一般入試、最終倍率は0.82倍 志願者は3159人

   朝日新聞社 2025.2.26

     県立の全日制普通科高校の受験倍率が県単位で平均1倍を割り込んだのは宮崎県だけではない。富山県では史上初めて0.99倍となっている。高校教育全体の無償化が検討されている中で、公立から私学へと受験生がかなり流れてきているのだろう。このようなことは大阪府や東京都では以前から表面化していた。当然、早くから予想されていた事態ではある。

   競争原理が働かない上に、「金太郎飴」のような没個性の公立をできるだけ数多く淘汰して高校教育全体の質を向上させる、維新の会の目論見はいよいよ全国レベルで進んでいくだろう。しかし、無競争もあって停滞気味の公立高校の没落を今後、加速させていくことが実際に高校教育全体の質を上げていく…という保証は必ずしもない。私学の教育の質が公立よりも本当に高いのかどうか、は多少、議論の余地があるだろう。もちろん、公立高校の質は全体として決して高いレベルではないが…

   真っ先にここで問われるのは学校教育における「質の良さ」とは一体、何なのか?ということだろう。石破首相が言葉にする「質の良さ」とは具体的に何を意味しているのか、詳細に問うべきである。学校教育を語る際、抽象的な美辞麗句、理念は誤魔化し、誤解、曲解を避ける上でも語るべきではあるまい。

東京都立高の一般入試スタート 全日制の倍率は過去最低1・29倍 無償化が影響か

 産経新聞 2025.2.21

   大方の予想通り、東京都も大阪府と同様、公立高校の入試倍率が低下している。しかし、それ自体は高校教育の改善に関してプラスでもマイナスでもないだろう。

   府立高校や都立高校が多少、統廃合されたとしても高校教育の改善には必ずしも結びつかない。問題は教科書検定制度と共通テストによる授業内容の過剰な画一化や統制強化、教育行政の過剰な管理主義化、知識偏重主義の横行、一斉講義形式の蔓延、肥大化するばかりの学校業務、大学での教員養成教育の遅れ、旧態依然の教員採用試験と管理職登用試験、各高校における不公平な校内人事・・・などなど数多い。これら、山積する難題を学校間、教師間の新自由主義的競争、単純な市場原理だけで解決できるわけがあるまい。法制度の大幅な見直しを前提とする、1980年代の臨時教育審議会並みの、腰を据えた本格的で中長期的な展望に立った議論が、今後は避けて通れない、と考えるべきだと思うのだが、いかがか。

「大阪ではタダなのに…」大阪で私立人気高まり公立70校定員割れ 兵庫県の県立高

   は独自策で志願者増 高校無償化巡る維新・与党議論は平行線

   FNNプライムオンライン   2025.2.11

   高校の授業料を完全無償化すること自体に反対する人は少ないだろう。現状として義務化と言って良いほどに高校の進学率は高い。同調圧力の強い日本である。高校への通学を半強制的に強いる日本社会ならば保護者の経済的負担は少ない方が好ましいに決まっている。しかし高校授業料の無償化自体は授業改革を柱に据えた、高校教育の質を高める経営努力に直結するわけではあるまい。

   もちろん授業改革を軸に据えて学校の個性化を大胆に推進し、教育の質を高める経営努力を行えるような環境がしっかりと公立高校に存在していれば、授業料の無償化は教育の質を上げていく可能性が出てくるだろう。授業料という壁が取っ払われる分、授業の良し悪しを巡って公立と私立との競争が激化し、授業の質が良くない高校や教師は淘汰され、質の良い教師や高校は生き残る…結果的に高校教育全体の質は向上する…という事態は考えられなくもないからである。

   問題ははたして公立高校が授業改革を軸とした独自の経営努力を行えるほどに自由な環境にあるか否か、という点。あたかも金太郎飴みたいに授業内容から授業方法まで均質で、共産主義社会の様に厳重に管理されてきてしまった伝統を持つ多くの公立高校は、決して民間企業のような、独自の経営努力を行えるような環境に置かれてはいない。そもそも校長を含めた教師自体、自分の所属する学校への帰属意識は極めて低いのが現実であろう。

     社員ならば企業の成長が自分の生活に直結するため、管理職を含め、私企業の社員たちは会社の経営状態に無関心ではいられない。しかし公立高校の多くの教師は、勤務校の定員割れや中退者の増加に、我、関せず。公立高校教師の多くは運命共同体的帰属意識など勤務校に対してほとんど持っていない。学校経営の責任者たる管理職自体、勤務校の経営に無関心であるばかりか、授業の質を高める事への意欲、知識すら皆無の人物が少なくない。そもそも勤務校へ3年間しか在職しない管理職に独自の学校経営など出来るわけが無いのだ。彼られのほとんどは自己保身に走り、ひたすら不祥事が起きない事だけを欲している。ゴールはあくまでも自身の円満退職とその後の好条件な再就職先の確保なのであり、本音では目の前にいる生徒たちの人生など知ったこっちゃない…

   管理職に授業改革の意欲、資質すらほとんど存在しないような公立高校と、少子化の中で必死に生き残ろうとあがき、独自の経営努力、授業改革を強いられてきた私立高校とがこれまでのような公私の「棲み分け」をやめて生徒募集で激しい競争を行うことになれば、その勝敗は明白である。大阪府や東京都の様に公立高校の過半は淘汰されていく他あるまい。もちろん、それは好ましくもあるのだが、視聴率稼ぎに奔走するあまり、不祥事を招いてしまったフジテレビの例もある。中学生の人気取りに走るだけの高校は大きな危険性も秘めているだろう。

   特に管理主義的傾向の強い千葉県などでは学校経営という言葉が教師や生徒たちへの管理統制、というマイナスの意味合いでしか用いられてこなかった伝統が濃厚に受け継がれてきた。だからこそ入学試験の志望者が入学定員の3割にも満たない県立高校が毎年のように複数、存在しているのだ。そうした高校を含めて授業の見直しを軸とした独自の経営努力を目に見える形で行っている学校を、私自身も経験したことはまったく無い。

   つまり、今、根本から見直すべき重要案件は公立高校の硬直した管理主義、画一的教育の在り方なのである。もちろん、授業料無償化は直ちに実現すべきであるのだが、授業改革もまた別途、真剣に検討されるべきである。ただし、授業改革にあたって先立つものがある。学校のブラック化対策である。授業料完全無償化と教師の仕事の削減は喫緊の課題であり、どちらも蔑ろにはできない。授業料の無償化に加えて、教師たちが自己の授業改善に取り組めるだけの時間的体力的余裕を生み出すべく、学校の仕事量の大幅な削減こそが、現在、真っ先に求められていると考えるが、いかがか。

なぜ今になって…? 教育研究者が「日本の公教育の崩壊が大阪から始まる」と嘆 

   く“納得の理由” 文春オンライン 鈴木 大裕 2024.12.5

   新自由主義的な観点から導入された全国学力テストの点数争いと入学希望者数を軸とした学校間の競争が一体、学校現場に何をもたらしているのだろう。大阪府民の多くはこのことにあまり関心が無いようだ。

  公教育の解体と教育予算の削減、節約が文科省の真の狙いならば大阪府の取り組みはモデルケースとしてかなり高く評価できるだろう。実際、大阪府の公教育は衰退の道を順調に辿っている。維新の会が大阪府政を掌握してから廃校に追い込まれてしまった府立高校は既に20校以上にも上っているのだ。東京都も大阪府に追いつけ追い越せとばかりに新自由主義的立場からの都立高校再編を矢継ぎ早に進めている。事は大阪や東京に限るまい。少子化という追い風に乗って全国的に公立高校の多くが定員割れを続け、統廃合の嵐が吹き荒れている。

 はたしてこれで良いのか、真剣に問い直すべきだろう。

東京都立高校の4分の1が定員割れ。授業料の実質無償化で私立or都立のどちらを選

   ぶべき? ダイヤモンド・教育ラボ 2024.12.5

   いわゆる公立高校民営化の動きは大阪府、東京都で真っ先に先鋭化してきている。少子化への強い危機感をバネにして柔軟かつ大胆に改革を進める私立校の人気は今後、一層増大していくだろう。他方で硬直した官僚主義のシステムに縛られがちになり、改革が遅れ気味な公立校の人気はさらに低下していく。これは教育予算のさらなる削減を狙う都道府県としてはまことに好都合な状態であろう。

   少子化に便乗して学校の統廃合を推進し、教職員のリストラも同時に実現できれば、行政としては願ったり、かなったり。確かに地方財政の赤字は緩和されるだろう。しかし選択肢の多い都市部はともかくとして、公立しか選択肢の無い地方はどうなっていくのだろう。実はこの問題もコンパクトシティ構想の枠からすれば想定内であり、財政的に重荷となってきた地方が今後はさらに情け容赦なく切り捨てられてていくことになるのだろう。地方もどんどん「スマート」になっていくのだ。

  動きの取れない高齢者も切り捨てられ、公教育の改革は中途半端なまま、公教育の衰退だけが進行していく。現今の教員不足も、都道府県の財政からみれば人件費節約につながり、実に好都合。だからこそ文科省も都道府県も市町村も、軒並み、本音の部分では公教育の改革に消極的なのではないか。行政側は表向き、批判をかわすために「教育改革」を声高に叫ぶが、本当に改革する気は毛頭無い…とすればこれまでの文科省の的外れな弥縫策の連発も、実は本当の意図を知られないための、国民への「目くらまし」戦法として極めて有効なのかもしれない。

 何よりも目先の損得勘定を優先すれば、確かにこうしたプランが生まれてくるかもしれないのだが、はたしてこれで良いのか、疑念は尽きない。