㊾阿部詩選手号泣の件から

 

参考動画

「信じられないことが…」柔道・阿部詩選手(24) 一本負けの瞬間頭抱え号泣

 ANNnewsCH  2024/07/31 1:09

敗退に泣き崩れた柔道・阿部詩選手(24)号泣し立ち上がれず会場に響く「詩コ

 ール」ANNnewsCH  2024/07/31 1:08

参考記事

「一種のいじめ」「何回言うの」 東国原英夫氏、阿部詩号泣に「周辺に配慮欠く」

 と再度苦言...コメント欄では共感得られず

 J-CASTニュース によるストーリー 2024.8.1

 おそらく高校野球の場合、甲子園での敗戦で号泣する高校球児への批判はこれまであまり無かったように思うが、いかがだろう。今回の東国原氏による柔道家に対する批判は極めて執拗なものであり、オリンピック連覇という重圧と長く戦ってきた敗者に対して何やら陰湿で容赦ない「上から目線」の怖さまで感じる。

 おそらく号泣しながら甲子園の土を持ち帰る高校球児たちの涙は美しく、感動的ですらあると多くの人は感じるだろう。しかしオリンピック会場で号泣する柔道家の姿は幼稚であり、非礼極まりないものである…と捉える東国原氏の感性は、一体、どんな価値観に由来するのだろうか。ぜひ、生徒たちに考えさせたい。

 いくつかの観点から考察できるだろう。一つは武道とスポーツとの違い、スポーツマンシップと武道家精神との違い。もう一つは国家を代表するとされるオリンピック選手と郷土を代表する甲子園球児との違い。やはり国威発揚を狙いとするようなオリンピックにおいて選手たちに求められるパフォーマンスと、甲子園球場で高校球児たちに求められるパフォーマンンスとはおのずとそれなりの違いがあるはずだ。

 なぜ私たちはスポーツに魅了され、スポーツ観戦に熱狂するのだろう。「礼に始まり、礼で終わる」武道において求められる冷静さと敗戦時に見せた阿部選手の号泣は果たして相いれないものなのか。体育の授業で武道が必修化された背景にどんな目的があったのか。オリンピックの意義とは一体何だろう。SNSによる選手たちへの誹謗中傷問題…考えるべきテーマは多い。

 以下に紹介する動画を視聴させて生徒たちの考えを広げ、深めていきたい。

参考動画

号泣に賛否【テレビの五輪報道の弊害】過剰な美談と武士道精神を考える

 長谷川良品「テレビ悲報ch」 2024/08/01  10:53

 オリンピックについて深く考えるきっかけとなるだろう最もタイムリーな話題がこれだと思うが、いかがだろう。敗北して泣きじゃくる阿部詩選手への否定的なコメントをどう評価するのかを、武道に由来する柔道というスポーツの特殊性から考察する長谷川氏におおいに共感する。

 確かに私も日本代表の野球チームを平然と「侍ジャパン」と名付け、女性サッカーチームを「なでしこジャパン」と名付ける日本のスポーツ界、マスコミ界の古色蒼然たる体質の古さに辟易する。

 ここを切り口にして日本のスポーツ界、マスコミ界、学校教育界が抱える体質の古さにも気付かせたい。

【阿部詩選手】号泣の賛否について ロザンの楽屋  2024/07/30  16:22

 武道とスポーツとの違いに注目する点は同じだが、武道を否定的に捉えるのか、肯定的に捉えるのかでロザンの視点は上記の長谷川氏とかなりズレてしまうと感じる。また柔道や剣道などを当初は格技として学校教育に取り入れ、ついには武道と改称、さらに必修として授業時数が増加している近年の日本の教育の動きをどう評価するのか…という問題にも多少は触れる必要があるだろう。

 以上のことを踏まえると阿部選手号泣の件はおよそ以下の様に考えられるのではあるまいか。まず試合直後の号泣は明らかに武道の精神だけでなく、ラグビーのノーサイドの精神にもふさわしくない。さらには過剰なまでの勝敗へのこだわりが感じられてしまった点で号泣は「平和の祭典」として行われるオリンピックの精神に必ずしも沿うものではあるまい。もちろん相手選手への敬意や配慮にも欠けた行為である。つまり、いくつかの点で確かに好ましくはない。

 ただし阿部選手の号泣は選手個人だけではなく、選手団全体の勝敗,メダル争いへの過剰なこだわりにも起因しているだろう。さらには長期にわたって「国家の威信」といった過酷で明らかに余分なレベルでのプレッシャーを個々のオリンピック選手に背負わせてしまった日本の柔道界、スポーツ界、マスコミ報道、国民の多くにも少なからぬ責任はあるはずだ。

 どうやら私たちはオリンピック報道の過熱ぶりも手伝って柔道に対する「国技」としての過剰なまでのプライドを植え付けられてしまい、「阿部選手ならば金メダルをとってしかるべき」といった行き過ぎた期待を国民側の多くが無意識のうちに抱えてしまっているように見受けられるのだが、いかがだろう。

 つまり阿部選手以上に不適切だったのは、まだ若く、武道家としては未熟であっても仕方ないはずの阿部選手に対して、どう見ても過酷なまでのプレッシャー、過剰なまでの期待をかけ続けていた、私たち国民の方ではなかったか…

 だとすれば、あの場でまだまだ若い阿部選手に図らずも号泣させてしまった私たちの、大人としての責任の方が重く問われるべきだったはずである。そしてそのことを問うこともなく、阿部選手個人を批判するような大人たちの論評には4年に一度しか訪れないオリンピックのために長期にわたって奮闘してきた選手への思いやり、想像力に欠けた残忍な攻撃性をどうしても感じてしまう。

 そもそもオリンピックという行事が抱える負の側面や日本のスポーツ界、競わせることに偏った日本の学校教育界が抱えてきた種々の問題への視点を抜きにして選手個人への攻撃を行うことにさほどの意義は見いだせないと思うのだが…いかがだろう。

【五輪反対論】開会式で波紋!メッセージが強まりがち?住民生活に影響も...開催

   する意義はある? ABEMA Prime 【公式】 2024/07/30  19:17

 オリンピックの意義をもう一度、根本から見直す必要はあるだろう。4年に一度の例外的なお祭り騒ぎに隠れてこの時とばかりに違法に利権を貪る一部の企業や政治家が存在するようなオリンピックの運営の仕方、あるいは国家間の対立を煽りかねず、少なくとも国威高揚に政治利用されがちな国家主義に偏るスポーツ界全体のあり方をみると、多くの人が「平和の祭典」という美名に酔うことに躊躇してしまうのは当然であろう。東京オリンピックの負の遺産は一体、どう清算されたのであろうか。

 サッカーの勝ち負けで戦争が起きかねなかった中南米の歴史もある。ラグビーのノーサイドの精神は他のスポーツには必ずしも十分に浸透していない。オリンピックの運営には莫大な資金が投入されるが、資金の流れは必ずしも透明ではない。

 表彰式で「君が代」が流れ、日の丸が掲揚されることの意義は本当はどこにあるのだろう。実際、君が代を歌う日本選手たち全員に君が代が孕んでいる国家主権をめぐる深刻な問題意識があるとは思えない。おそらく選手たちのほとんどは君が代の歌詞すら正確に書くことはできないだろう。どうみてもしっかりと考え直すべきポイントはいっぱいあるようなのだが…

 生徒たちにはオリンピック開催の是非を、その歴史的経緯からさかのぼって明らかにしつつ、近年の課題をいくつかピックアップした上で議論させたい。

 

参考記事

パリ五輪で試合前に十字を切った柔道家が5か月の資格停止も「謝罪するつもりは

 ない」 東スポWEB によるストーリー 2024.9.20

 日本の柔道が神道の振る舞いを外国人選手に強要することがあってはならないのと同様に、外国人が自身の信仰に基づく行為をみだりに柔道連盟が禁止することは不適切に思えるのだが、いかがか。

 信仰上の行為が試合時間の遅延になるなど、競技の上で邪魔になったり、危険になるような場合はもちろん禁止すべきだが、さほどの支障が生じないのであるならば基本的にOKとした方が多様性の尊重と信教の自由の保障にもつながるだろう。

「もはや日本の柔道精神はない!」柔道混合団体、畳に“唾吐いた”ブラジル選手に

   ネット騒然「子供たちが見たらどう思うだろう」【パリ五輪】

   THE DIGEST によるストーリー 2024.8.4

 この件は生徒たちにとって議論しやすいテーマであり、授業に取り上げてみても良いだろう。この記事の内容への賛否を問うてみたい。

   畳の上は「神聖」だから唾を吐いてはいけない、という日本特有の宗教じみた論理が世界にすんなりと通用するとは思えない。単純に衛生面や競技上の観点から「唾吐き」を禁止すれば良いだけだろう。

   大リーグではマウンドの上で唾を吐く投手はザラにいる。マウンド上に選手が顔をつけるような事態はプレーとしてほとんど生じないので、アメリカではその行為が必ずしも不衛生とは感じられないのだろう。しかし柔道という種目では寝技などがあるため、畳に顔などがつく場面は決して少なくない。その際、畳に誰かの唾が付着していたとしたら、さすがに欧米の選手でも抵抗感を覚え、汚いと感じるだろう。もちろん唾で畳が濡れていたことで足が滑りやすくなってしまうことも考えられる。やはり柔道での「唾吐き」は汚いだけでなく、危険かつ競技の妨げにもなりかねない。だからこそ柔道では畳に唾を吐く行為を固く禁止すべきではある。

 日本の場合、柔道や剣道では道場に神棚が祀られている事が多く、道場内自体が神社の境内と同様の聖域とされてきた。しかしオリンピックの会場に神棚を持ち込んで選手全員を神道のルールに従わせることなぞ、選手たちの信教の自由を否定することにつながるので絶対的に不可能である。つまり畳の上は神聖である、という日本人の観念を選手全員に押し付けることは出来ない。

 柔道がオリンピックの種目である限り、柔道場は他の種目と同様にただのスポーツ会場でしかなく、日本のような意味での聖域では決してないのだ。

【柔道】斉藤立を破った韓国・金民宗の〝煽りパフォーマンス〟が物議「武道家で

   はない」 東スポWEB によるストーリー 2024.8.3

   これも阿部詩選手の件と同様に柔道を武道として捉える立場からの批判である。試合に勝った選手が礼をする前に派手なガッツポーズをしたことは相手選手への礼を欠く行為として好ましくないという。そういえばかつて甲子園でもヒットを打った、あるいは三振を奪った選手が派手なガッツポーズをすることが相手チームへの敬意を欠く行為として教育的見地から批判されたことがあった。

 確かに勝って兜の緒を締めよ、というようにかねてから日本では勝者の慎ましい振る舞いが称賛される中で、相手がいる前で自らの勝利を大袈裟に喜ぶのは恥ずべき行為とされてきた。もちろん近くに競技相手がいる場面では勝った喜びを押し殺し、負けた悔しさを面に出さないことを武道家として守るべき礼儀としてきた日本の武道の伝統を一方的に否定するわけではない。むしろ日本の誇るべき美風の一つとして大切にしていくべき心構えとすら言えるだろう。ただし「武道」としてではなくもっぱら「スポーツ」の一種目としての理解から柔道が1964年の東京オリンピックに採用された経緯を踏まえれば単純には判断を下せまい。

 日本では柔道の10倍もの競技人口を誇る剣道だが、オリンピックの種目として採用されたことは一度もない。柔道が一足先に解禁された際も、剣道は学校の体育で教えることをしばらくの間、禁止されてきた。その背景に剣道界が柔道以上に武道としての伝統に拘ってきた経緯があるからではあるまいか。

 ここではとりあえず武道の伝統の是非を論じる必要はあるまい。大切なポイントは現在、世界の柔道家がどこまで武道としての柔道とスポーツとしての柔道との差異をきちんと把握できているのか、であろう。また紛らわしいのが武道と武士道との関係であるが、この二つは明確に区別されるべきものであり、封建的主従関係を前提とするような武士道と近代オリンピックの精神とはまったく相いれないものがある。

 近代的スポーツの観点では武道と武士道とを切り分けて考えるべきであるのと同様に、既に指摘した神道と武道とを切り分けていかないと武道を近代的スポーツに位置づけることは難しくなるだろう。神道的発想を闇雲に選手たちに押し付けることは信教の自由を踏みにじることにもつながりかねないはずである。

 武道と武士道及び武道と神道とを切り分けて武道を近代的スポーツの枠組みに位置づけようとする取り組みに対しての共通理解が日本を含めて世界的に成立しており、しっかりと柔道関係者に共有されているのならば、今回の騒動の是非は疑う余地が無いほど明確になる。

 IOCや国際柔道連盟がこの件に関する明確な統一見解を世界に向けて公表しなければ、今後も特定の柔道選手に対する的外れな中傷誹謗を徒に招くだけではあるまいか。SNSの発達は一旦、炎上すると恐ろしいほどの速さで選手たちの精神的健康を蝕んでしまう。悲劇的な事態を防止する上でも柔道の位置づけを一刻も早く明確にさせ、その共有をはかりたいものである。

パリ五輪日本選手団が緊急声明 相次ぐSNS誹謗中傷に「法的措置も検討」 大会中

 に異例の警告「不安や恐怖を感じる」自制求める

 デイリースポーツ によるストーリー 2024.8.2

「何がいけない?」柔道・永瀬の”表彰台事件”に対する韓国人記者の反論と浮かび

   上がる「文化の違い」 FRIDAYデジタル によるストーリー 2024.8.3

   こちらも阿部詩選手の件や金民宗選手の件と同じで柔道を武道として捉える日本の立場からの考察である。日本と外国との間に柔道という種目への捉え方の違いが原因でこれだけ数多くの軋轢を生んでしまうのならば、IOCないしは国際柔道連盟による何らかの統一的対応が現時点で必要となっているのではあるまいか。

 スポーツにおける過度な勝利至上主義への批判がこうした軋轢を生む大きな原因となっている、と考えるのであるならば、いっそのこと日本の武道精神に基づく礼節を弁えた振る舞いをすべての競技における模範的振る舞いとして世界に喧伝するのも決して悪くは無かろう。本当にオリンピックが「平和の祭典」としての役割を国際社会で果たそうとするのならば、国家間での熾烈な金メダル争いはかえって無用な軋轢と誹謗中傷を国家間、競技者間に生み出しかねまい。

 勝者も敗者も礼節ある言動を心がけることは、おそらく過熱しがちな競争主義をクールダウンし、無用な軋轢を避ける上で大いに役立つに違いない。もちろん、そうした効用は武道に限らず、ラグビーのノーサイド精神でも同様の機能を期待できるだろうが…なお15人制のラグビーは種々の理由から未だにオリンピックの種目に採用されていない現状がある。また世界のラグビー界において「ノーサイド」という言葉はどうやら日本にのみ生き残った表現らしく、本場のイギリスですらまったく理解されなくなっているようだ。

 それほど長く「ノーサイド」の言葉に日本人が惹きつけられてきた背景に、節度、礼節を常に重んじる日本の武道精神がラグビーのノーサイドの精神と強く共鳴してきた可能性は十分にあるだろう。こうしたことをも考えると、JOCはIOCに対して柔道に限らず、すべての種目において選手、観客のマナー改善を強く訴えても良い立場にあるのかもしれない。少なくともこうした騒動を機に、現代のオリンピックが本当に「平和の祭典」にふさわしい状態にあるのか、問い直してみるべきだと思うがいかがだろう。