㊼カッパのおススメ本2冊

~日本の教育の流れを変えるために~

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

 今、教師たちにぜひとも読んで欲しい、「目からウロコ!」の本を二冊、ご紹介いたします。一冊目は他の場所でもおススメしている「子どもたちに民主主義を教えよう」(工藤勇一・苫野一徳 あさま社 2022)。二冊目は「子ども若者抑圧社会・日本」(室橋祐貴 光文社新書 2023)。

 以上の二冊はほぼほぼ同じような問題意識に貫かれていて、なぜ日本社会に民主主義、人権意識がなかなか根付かないのか、なぜ日本の子供や若者の自尊感情や自己肯定感が低く、社会への当事者意識に欠けがちなのか、それらの本質的な原因を理解し、日本社会に本格的な民主主義と人権尊重の精神を根付かせていく上で欠かせない知識、視点の数々を提供してくれるでしょう。

 「子どもたちに民主主義を教えよう」では授業のあり方、児童生徒に対する教師のあり方を中心に、学校内民主主義を確立させることによってまず子どもや若者たちから本格的な民主主義、人権尊重の精神を浸透させ、その延長線上で日本社会を変えていこうとする発想が学べます。殊に民主主義において最も大切でしかも骨の折れる合意形成のあり方を、授業中の討論を通じて身につけていく具体的な方法論が提示されており、大いに参考となるでしょう。

 「子ども若者抑圧社会・日本」では日本社会停滞の大きな原因となっている子ども若者を抑圧しがちな日本の政治制度的欠陥を、主に欧米と日本の選挙のあり方、学校教育のあり方の違いを軸に鋭く浮かび上がらせてくれています。

 二冊に共通する、注目すべき論点を教育問題に絞って自分なりの視点から要約してみましょう。日本の学校教育の一番の問題点はカッパがこのブログで再三、指摘してきた画一的で管理主義的性格に求められます。工藤氏や室橋氏は日本の学校教育が画一的、管理主義的性格を過剰なまでに抱えてしまっている背景に、日本社会の随所にみられるパターナリズムの蔓延が主因となって生じている日本人の人権意識の遅れがあると指摘しています。

 学校の行き過ぎた管理主義は児童生徒たちを危険や失敗から遠ざけようとする愛情のみに由来するのではなく、現実面では無難さと安価な効率性を優先する大人たちの「事なかれ」的ご都合主義からも生じてきたものだと考えられます。すなわち学校を窮屈にし、児童生徒の不登校や自己肯定感の低さの原因となっている画一的で管理主義的な教育体制は実社会の様々な危険から「未熟」な児童生徒を未然に守る、という美名のもとに温情主義的なシュガーコーティングを施されて提供されるがゆえに過剰に正当化され、多くの大人からは肯定的に捉えられがちとなるのでしょう。その結果、児童生徒は大人や国家からただひたすらに支援され、保護されるべき温情主義の客体と化し、徐々に主体性と人権を損なわれてしまう…

 確かに日本人は人権を「思いやり」や「優しさ」という個人的主観から捉えがちのようです。日本の教師たちが人権保障を国家の責務として捉えるよりも、個人的な心構え、道徳教育的観点から人権教育を発想しがちである点に大きな落とし穴がある、とする指摘は大いに共感できるでしょう。これからは児童生徒、あるいは女性を上から目線で社会的弱者とばかり見なし、支援の対象、憐れむべき対象として捉えるのではなく、すべての人々を公平、公正に、堂々と自分の意見を表明できる「権利の主体」として捉える視点の拡充が必要となるはずです。

 長く「人権後進国」と揶揄されてきた日本…今もなお男女平等度の低さは世界で群を抜いています。また子どもの権利条約が1989年に国連で採択されても、日本は遅々として批准せず、1994年、世界で158番目にようやく批准するという体たらく。しかも批准から30年近く経っているにもかかわらず、日本の教師たちはいまだにそのほとんどが条約の概要すら知らない…2022年にこども基本法が成立しましたが、今回も今までのままでは多くの教師たちの認識にこれといった変化は期待できないでしょう。

 若者の前に大きく立ちはだかる壁は年功序列を軸とする政界と官界と教育界の因循姑息な人事であり、男性中心の長老たちが跋扈しがちなこれらの世界に自己改革を期待するのは少子高齢化が容赦なく加速する中で、確かに限りなく不可能に近ように感じてしまいます。一体、どこから手を付けていったらいいのか…

 極めて悩ましい「老害」日本の現状があるのは否定しがたい厳然たる事実です。しかしこの2冊はまさに暗闇の中に光明を見出すがごとき、きわめて貴重な気付きの大きなきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。この気付きを共有する教師たちには自分の授業を通じて今の日本社会が抱える問題点を児童生徒たちと探り、その打開策を共に考えていくという絶好の機会と特権が与えられてもいる…そのことを踏まえれば今こそ教師たちは社会科の授業などで学校教育に関する生々しい話題を積極的に扱うべきだと思うのですが、いかがでしょう。

 

参考記事

学校での多数決が「すぐ論破する子」を育ててしまう…元麹町中校長が文化祭で"多数

   決の代わり"に使った方法

   プレジデントオンライン 工藤 勇一,苫野 一徳  2025.1.18

   本書は討論形式の授業を作る上で大いに参考となる示唆に満ちており、私のイチオシの良書である。この記事を読んで参考となるものを感じた方は、ぜひ、本も読んでいただきたい。

【パワハラ疑惑】兵庫・斎藤知事、証人尋問でパワハラ認めず「県民としてお引き

   取り願う」県外からも「リコールしないの?」の声

   SmartFLASH によるストーリー 2024.8.31

   兵庫県議会は百条委員会を設けて知事のおねだり疑惑やパワハラ疑惑を追及するという、斎藤県政を改善するためのそれなりの努力と役割を果たそうとしている。しかし斎藤知事を選んだ責任はもっぱら兵庫県民にあるはず。したがって県政への当事者意識、主権者意識が普通にあればかなり早くから県民によるリコール運動が起きていたはずであり、民主主義の原則からすればリコール運動が起きない方が不健康だとすら考えられる。

   もちろん、リコールを成立させるには沢山の署名を集める必要があり、かなりの時間、労力、費用を必要とするだろう。しかしこれほど酷い状態を招いた知事の言動をこれ以上、看過するのは県民としていかがだろう。国民主権を土台とする民主主義が兵庫県ではまったくの機能不全に陥っているとしか、考えようのない状況ではある。斎藤県政に唯々諾々と従う兵庫県民にはもはや不気味さ以外、感じるものは無い。

 過去、学校教育に関わる数々の異常な事件、不祥事を連発させてきた県都神戸市でも市民の動きは極めて不活発なものに見えていた。北海道の旭川市、札幌市でもしかり…どうやらこの状況は一部の地域に限られたものではなく、全国的なものなのかもしれない。だとすれば日本の民主主義は土台から崩壊しつつあるようだ。おそらく日本の画一的で管理主義な学校教育がついには日本人の主権者意識、当事者意識を根底から破壊するまでに負の効果を全国民レベルで浸透させ始めたのだろう。

 国民の主権者意識を取り戻すべく、主権者教育を念頭に置いた上での学校教育の根本的な見直しが急務なのではあるまいか。だとすれば、今こそ高校の社会科授業では兵庫県の問題を具体的な事例として取り上げつつ、日本の民主主義のあり方を学校のあり方から考えていく絶好のチャンスと捉えたい。

31歳俳優が政治への無関心で私見「見てても見てなくても他のことやった方が」 

 日刊スポーツ新聞社 によるストーリー 2024.10.6

 今時の若者らしさが伺える率直な発言で、非常に興味深い。発言したのは31歳の俳優であり、既にそれなりの人生経験を積んできているはずの人物が、政治に対する無知と無関心ぶりをこれほどまで物おじせず、あからさまにさらけだした勇気に対し、私たちはむしろ感謝すべきなのかもしれない。

 もっとも彼は俳優であり、本当に彼が政治に対して無知であり、無関心ではあるのかは不明としておくべきだろう。ただし敢えて炎上覚悟で語った彼の真意が一体どこにあったのかは十分に斟酌すべきだと考える。

 彼の発言を通じて日本の若者の政治に対する無関心の裏側にある政治に対する深い諦め、絶望感を私たちは明確に感じることができるはず。同時にいよいよ日本の将来が極めて危機的であることを私たちは実感せざるをえないのではあるまいか。

 彼の発言はその表層だけを捉えると多くの大人たちにとって呆れるほど無知で脆弱なものに響くかもしれない。しかし彼の発言の底に漂う尋常ならぬ絶望感は今の若者を理解し、今後の日本社会を考える上で指導的立場にある大人たちこそしっかりと共有すべき感覚なのではあるまいか。

 実際、今回の石破内閣のメンバーがヒナ壇に並んで写った写真を見たならば直ちに絶望しない人々の感覚の方こそおかしいのかもしれない。そういえば私たちはこれまでの長い間、こうしたヒナ壇上の閣僚たちの、酷く加齢臭漂う集合写真を嫌になるほど繰り返し見させられ、すっかりならされてしまった。しかしそれは大抵の場合、年功序列、男尊女卑の、日本の差別的構造の醜いばかりの残存ぶりを象徴したかのような写真たちではなかったか。

 石破内閣の最前列に並んだ、良く言えばいかにも恰幅の良い、何だかふんぞりかえって妙に偉そうな、ズボンがたるんでだらしなく腹の出たおじいちゃんたちの一群。その後方のおじいちゃんとおじさんたちの大群の中にいかにも目立つように置かれた、たった二人の女性議員…これが日本国の「顔」役としてしばらくの間、国内外に流通してしまう恥ずかしさと恐ろしさ…

 初入閣が13人もいるはずなのに、写真では若さの欠片も見えてこない。それもそのはず、40代以下はゼロの閣僚たちであり、最年少が51歳、平均年齢は63.55歳…しかも最前列のどんよりとした顔つきと右端の一人の視線が彷徨うありさまを見ると若者が政治に絶望したくなるのも無理はあるまい。おそらくプロの演出家がサポートしていれば、この写真は日の目を見ずにお蔵入りになっているはずだ。こんな写真を国内外に発表してしまう閣僚たちの鈍感さに通常の人ならば恐怖すら覚えるだろう。

 今回もヒナ壇にのぼったのは日本の少子高齢化と男性中心社会をものの見事に象徴したかのような、すっかり見飽きたいつも通りの構成メンバーであり、このメンツで急変する時代の荒波を日本が無事乗り切れると信じられる方こそ、完全にピントがずれている…のかもしれない。

 ひるがえってみれば、児童生徒の自主性を軽んじ、暗記中心の詰め込み教育を延命させて児童生徒たちの多くをひたすら受け身の忖度マシーンに作り替え、その少なからぬ一部の児童生徒たちを絶望させてきた日本の学校教育の、とどのつまり、日本社会にもたらした害毒がついには彼の発言と石破内閣の顔ぶれに臆面もなく表れてしまっている…そのように思えるのだが、いかがだろう。

 授業ではまずアンケートを用いてこの記事と石破内閣のヒナ壇写真に対する生徒たちの素直な感想を様々な角度から引き出してみたい。次にその結果を踏まえて議論を展開してみると面白いのでは?良かれ悪しかれインパクトのある記事と写真であり、上手に使えば生徒の発言はそうとう活発になることが期待できるはず。また歴代内閣の集合写真や北欧の政府の写真も確認させてみるとより理解が深まるだろう。

柴田淳「どれほど恥知らずなんだろう」政治に全く“無関心”の人気俳優に大あきれ

 スポーツニッポン新聞社 によるストーリー 2024.10.7

   柴田氏の発言は最もよくありがちな大人たちの反応であろうが、石破内閣のヒナ壇写真の方こそ国民の政治に対する、まさに「恥知らず」なレベルでの無関心さを強烈に感じてしまうのだが…いかがだろう。女性蔑視の男性高齢者による政治があれほど「老害政治」とさんざん揶揄されてきた「人権後進国」日本であるにもかかわらず、石破内閣の顔ぶれは相も変わらず旧態依然の政治が延々と続くことを国内外に強烈にアピールしてしまった…と思う方が常識的な解釈ではあるまいか。まずは高校生らにヒナ壇の写真をじっくりと見ていただき、その素直な感想を聞いてみたい。

   一応、これでも日本は民主主義国家である。彼らを選んでしまった国民の方こそ、本来ならば一番の責任を問われるべきだろう。国民主権の国家であるはずだし、代議制民主政治の国なのだから、石破内閣の、明らかに特定の方向に偏った異様な顔ぶれは主権を持つ日本国民の総意を代表していると諸外国から捉えられてしまったとしても致し方ないはずだ。現状の政治を主権者として他人事ではなく自分事として捉えようとするならば、石破内閣の顔ぶれこそが現状としての日本国民の政治意識の忠実な写し鏡、象徴なのであり、それ以外の何ものでもないはずである。

 笠松氏の発言は不器用で不用意なものにも聞こえるが、むしろ若者たちの思いを正直に代弁しているのであり、私たちが嘆くべきは笠松氏個人に対してではなく、国家の主権を握っているはずの日本国民がどれほど酷く政治に対する意欲と関心を心底まで喪失してしまったのか、そして若者たちの意思を延々と無視し続けてきてしまったのか…というこれまでの日本社会の歩みの方ではあるまいか。

 すなわち官僚と組んだ歴代政府が長年にわたって国民の知る権利を踏みにじり、マスコミと学校教育をただの洗脳道具として政治利用しようと企んできた結果がこの惨状を生み出してきた…そうした側面が実際にあるのではないか。

 おそらく真剣に問われるべきは現在の日本国民の主権者としての自覚の、深刻なレベルでの形骸化と喪失、そしてその現象が一体何に由来しているのか、何が国民の政治的関心と意欲をこれほどまでに奪い去ってきたのか…といったような事であろう。

 主権者である国民は一旦、冷静になるためにもまさに自分たちの現状、ありのままの自画像として、目をそむけたくなるのを我慢してでも石破内閣の顔ぶれを何度でも何度でも自問自答しつつ、十分な時間をかけて繰り返し凝視すべきだろう。本当に日本はこれで良いのだろうか、と…

 そう考えてみると柴田氏の発言を単純に鵜呑みにするわけにはいくまい。彼の発言は余りにも表層的できれいごと過ぎるのではあるまいか。「けしからん」とばかりに批判されるべきは笠松氏ではなく、またもや絶望的な顔ぶれとなった石破内閣とそうした顔ぶれを性懲りもなく選び続けてきた主権者である日本国民の方であろう。

 だとすれば日本を民主主義の国家として捉える限りは、「けしからん」とばかりに笠松氏を批判するのはまさに天にむかって唾を吐く行為そのものとなる。結果としてその発言は「主権者」たる日本国民への面汚しになってしまうのではあるまいか。

 ただし以下の疑問を持つとき、この問題は笠松氏、柴田氏のどちらに与すべきなのか、といった二者択一の単純な話ではなくなってくるだろう。

 本当に日本は民主主義国家なのか、日本国民にまともな主権はあるのか、日本国憲法は本当に民主主義的なのか、日本国憲法は校訓と同じただの謳い文句に過ぎないのではないか、日本政治が悪いのは本当に国民の政治意識が低いからなのか…

 笠松氏の破壊的とも感じられる真っ正直な発言は深堀していくと日本の現状を根底から問い直すベクトルをも内包しているかもしれない。

 授業ではこの記事も紹介しておくと議論がかなりヒートアップすること、間違いなしだろう。

「文科省と日教組が結託した治外法権」問題教員にも手出しできない市長の無力

 ダイヤモンド・オンライン 泉 房穂 によるストーリー 2024.10.27

   泉氏の主張には無条件に賛成できない部分もある。たとえば市長が学校教育へ不用意に介入することは公教育の「政治的中立性」を脅かす危険性を強めてしまうだろう。もちろん泉氏のような考えである限り、市長が介入することは学校現場としても大歓迎すべきであろうが、市長の方針によってはとんでもない事態を招いてしまうかもしれない。

   確かに「政治的中立性」を盾にして教育行政は外部からの介入を排除し、「治外法権」の領域を拡大しようとしてきたのかもしれず、その点に関しては泉氏の指摘通りなのだろうが、やはり斎藤元兵庫県知事のような人物がゴリ押しで公教育に介入してくるのはどうか、とも思うのだ。

   本来、こうした問題を解決すべく設置されたのが都道府県および市町村の教育委員会であったはず。戦後間もなく、アメリカの指導によって設置された教育委員は公選制の形を持って民主主義的に選出されていたのである。しかし教育委員会の役割に対する日本国民の理解が進まず、結局、公選制は瞬く間に撤廃されてしまった。長く公教育の運営を「お上」に依存し、ひたすら政治に対しても受け身のままであった国民を、主体的な主権者として育成していくにはそれなりの時間と施策が必要であったに違いない。戦後間もなくの段階での教育委員公選制は確かに時期尚早と言えた。

   教育委員は結局、学校の管理職候補と管理職で占められてしまい、結果的に学校と教育委員会との馴れ合い、癒着が進んでしまった。これが学校の不祥事隠蔽事件多発の土壌を生み出してきてしまったと考えるが、いかがだろう。

   相次ぐイジメ隠蔽などの学校、教育委員会による不祥事隠蔽事件は、教育委員会が本来果たすべき役割をこれまで十全には果たせてこれなかった側面が極めて大きいのではあるまいか。ならば、今、見直すべきは人事を含めた教育委員会という組織のあり方の方であろう。泉氏のような高い見識を持つ市長ばかりではない、という現状からすれば、市長による教育への介入強化はやはり好ましくはあるまい。検討すべきはむしろ教育委員公選制復活を視野に置いた、教育行政の民主主義化、自由主義化の方ではあるまいか。

 かなり遠回りに思えるようだが、教育委員会の抜本的組織改革が実現するには、まず児童生徒や保護者らが学校運営に積極的に関わっていく各種の工夫やシステムを構築して、国民の多くが望ましい学校運営とはどういうものなのか、ある程度の見識を持てるようにしていく努力が欠かせまい。そういった点でも児童生徒の主体性、当事者意識を育む授業改革は教育行政改革に向けた地道な一歩であると考える。特に社会科授業で学校教育問題を積極的に取り上げて児童生徒に議論させる取り組みは今後、一層重要となってくるであろう。