98.高滝神社の概要
高滝湖は1990年4月に完成した高滝ダムによって生まれたダム湖である。これに先立ち、多くの民家が水没するため、一部の住民は移転を余儀なくされた。ここはかつては養老川を川船が行きかい、内陸部における物資流通の要として、加茂大明神(現高滝神社)の門前集落としてそれなりに栄えてきた村であった。
高滝神社には江戸時代、多くの参拝者が訪れ、境内には各地から石造物が奉納されている。ここに奉納された石造物は数多くの参拝者の目に留まるため、石工や石屋の宣伝にもつながったらしく、久留里や大多喜、五井、姉崎などの石工まで競うように奉納している。
しかし戦後は川船や筏による水運が廃れ、養老川の治水と農業用水の確保を兼ねて大規模なダムが建設されることになったのである。
社殿は享保12年(1727)の再建
紀元2600年記念碑:昭和15年(1940)
近衛文麿(1891 ~1945)首相題字
近衛篤麿(1863~1891)揮ごう高滝神社碑: 明治31年(1898)社殿右手
奇しくも近衛親子二人の揮ごうした石碑がそれぞれ残る
石灯篭:左 文化6年(1809) 右 安永4年(1775)
石工 大多喜の永松屋銀左エ門 石工 浅草御蔵の中村佐兵衛
石灯籠:文化2年(1805)石工 久留里の栄次郎
鳥居:宝暦9年=1759「己卯」とかすかに読める。石は大坂で購入。金約60両を要したという。この神社への信仰がかなり遠くまで及び、鳥居建造に際して多くの寄付が寄せられたことが推察できる。
手水鉢:文化8年(1811) 石工は五井川岸の関佐七
高滝と五井とは養老川の河川交通を通じて緊密に結びついていた。石工としての関佐七の名声は川船の船頭を通じて内陸部にも届いていたようだ。
狛犬:寛延元年(1748)石工 江戸の弥八
石灯籠:文政4年(1821)石工は姉崎の大嶋久兵衛
末社社殿:文化9年=1812?
補足資料1:「高滝の地頭」と熊野信仰
無住国師の「沙石集」(1283年成立)の中に、高滝の地頭の娘に一目惚れした熊野の若い学僧の話が載せられている。あるとき、高滝の地頭が一人娘を連れて念願の熊野詣に行った。「この娘、みめ形世に勝りたりけるを」見染めた若い学僧はいくら神仏に娘への思いを断ち切ろうと祈願しても思いは切れず、ついに上総に帰った娘を追うことにした。そして六浦湊(横浜市金沢区)で上総への船を待つうちに道中の疲れから海岸で眠ってしまった。
若い学僧はここで13年間に相当する夢をみる。上総へ渡った学僧は一路高滝に向かい、地頭を訪ねる。鎌倉に修行に来たと言い訳し、地頭からしばらくの間滞在することをすすめられる。これ幸いに地頭の屋敷に滞在した学僧は娘との再会を果たし、やがて結ばれて一児をもうける。しばらく地頭は二人が夫婦となることを許さなかったが、何年か経て許すことになる。
とうとう子供は三人になったが、長男が13歳の元服を迎えた年、幕府へ挨拶に上がることとなった。船に乗り、海に出たところで烈しい風に襲われ、長男はあっけなく船から転落死してしまう。
ここで夢から覚めた学僧は「13年の間の事ども、つくづくと思ひつづくるに、只方時の眠りなり、たとひ本意とげて楽栄ありとも、しばしのゆめなるべし」と考え、六浦から熊野へ引き返し、ようやく妄念を断ったという。無住はこの話から「荘子」の中で有名な「胡蝶の夢」という話を連想している。
補足資料2:上総本一揆
「房総地域史点描」(伊藤一男 崙書房ふるさと文庫 2005)より
低いが急峻な峰々が連なる上総丘陵、深々と刻まれた養老川水系の峡谷、市原市東南及びその周辺の山間部はまさに自然の要害地帯である。この地は応永年間(1394~1428)鎌倉公方に反抗した国人層の連合=上総本一揆の活躍舞台であった。
1416年(応永23年)、関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏と対立し、反旗を翻したが敗死してしまう(=上杉禅秀の乱)。その後、犬懸上杉氏の本拠であった上総で上杉方の地方武士たちが連合して鎌倉公方に逆らった。その中心人物は武射郡埴谷郷(山武市埴谷付近)の在地領主埴谷小太郎重氏である。彼は周辺の在地領主たちと連合して公方側と戦ったが戦況悪化により、1418年4月、降伏して赦免を請うた。しかし許されず、5月、追討軍が派遣され、佐是、矢田、池和田などに所領を持っていた常陸住人の鹿島氏、烟田氏らもこれに加わった。
「烟田文書」によると6月には本一揆の本拠地「平之城」(平蔵城か?高滝近くの平野とする説も))が陥落している。しかし鎌倉公方は上総本一揆を完全に黙らせることはできなかった。1419年1月、上総本一揆はまた蜂起した。追討軍が市原、夷隅方面の諸城を攻略、攻防戦は80余日に及んだが、結局、5月下旬、本一揆は降伏した。ついに反乱の中心人物、埴谷小太郎重氏は捕えられ、鎌倉で斬られたという。
室町時代、養老川中流から上流にかけては国人達が各地に割拠しながらも、有力者に対し、連合して抵抗することができたほどに力を蓄えてきていた。彼らの力は平蔵の西願寺阿弥陀堂や鳳来寺観音堂、皆吉の橘禅寺などに伺えよう。