97.姉埼神社の概要
姉崎は江戸との物資の流通を担った五大力船が行きかう港町として、また房州往還の継ぎ立て場として栄えてきた。
姉埼神社は海に面する丘陵部の縁辺に位置し、付近には貝塚や古墳が散在する遺跡のメッカである。駅の近くには水戸黄門が宿泊したと伝える日蓮宗の古刹妙経寺があり、ここにも縄文末期の低地性貝塚の存在が確認されている。
また姉埼神社から内陸に伸びる尾根道は鎌倉街道の枝道の一つとして考えられ、古くから利用されてきた古道としての面影を残している。
江戸中期に建てられた社殿は昭和61年(1986)に火災によって失われ、現在の社殿はその後再建されたものである。
祭神:主神は風の神志那斗弁命(しなとべのみこと)
※日本武尊が東征の際に、荒れていた走り水の海を妃の弟橘姫の犠牲によって無事渡り終えた後、ここ
でお妃をしのんで風の神を祀ったのが始まりという。社殿は宮山 台という海抜50mほどの高台にあ
り、眼前に東京湾を望む。かつては社殿のすぐ下まで海が迫っていたという。なお祭神の志那斗弁命
は女神であり、その夫はやはり風の神で嶋穴神社の祭神志那津彦命といわれている。女神は常々、夫
の帰りを待ちわびて待つ身のつらさを嘆いたことから、「待つ」に通ずる「松」を忌むようになり、
境内には一本の松も存在しない。また周辺では門松も松は使用せずに竹と榊を組み合わせた独特のも
のを使っているという。
神事:古来、流鏑馬(やぶさめ)の神事が行われてきたが、現在は式典のみとなっている。また現在は中絶しているが、2月11日に行われたお田植え祭りの際に「牛ほめの神事」という興味深いものがあった。「目を見て候えば銅の鈴を張りたるが如し」「耳を見て候えば枇杷の葉を並べたるが如し」といったように口、角、背、尾、爪などを次々と褒め称え、五穀豊穣などを祈願したという。
由緒:「三代実録」によると元慶8年(884)に神階は正五位上となり、天皇の勅願所となる。「延喜式神名帳」にも上総国五社の一つとされた。天慶3年(940)には朝廷から平将門追討の祈願が寄せられ、太刀が奉納された。源頼朝も社前で馬ぞろえをして武運長久を祈願したという。元和4年(1618)、領主松平直政が社領35石を寄進している。明治以降は県社に列せられている。
※姉崎は「和名抄」に見える上海上郡馬野郷に該当すると考えられており、かつては上海上(かみつう
なかみ)国造の勢力の中心地であったと考えられる。北は菊間国造、南は馬来田(うまくだ、まく
た)国造の勢力範囲と接していたと思われるが、上海上一族の拠点は古墳の分布から主に三つに分け
られるようである。一つは姉崎から今富にかけて、もう一つは上高根、最後は西国吉。このうち姉崎
古墳群は突出しており、神社から北東約1kmの砂丘に築造された二子塚古墳(県指定史跡)は長軸
93m、後円部の高さ9.8mの規模を誇る。昭和23年の調査では直刀、銀製腰佩、勾玉、甲冑、石枕
(国指定重要文化財)などが発見されている。それらから築造は5世紀中頃のことと推定されている。
また神社と同じ台地上にある姉崎天神山古墳(県指定史跡)は長軸125m(県内第二位)を数える
4世紀の大型前方後円墳である。他にも釈迦山古墳、原一号墳、山王山古墳(銀装環頭太刀などが出
土)など大型古墳がこの地域に集中している。その中心に鎮座する姉崎神社は古くは古墳祭祀に関わ
るものであっただろう。なお今富には上海上国造に関わると推定される寺院跡があり、山田寺と同様
の蓮華紋を持つ軒丸瓦が出土している。
鳥居並びに石組み:文化8年(1811)石工は大嶋久兵衛と辰右衛門
江戸の講と姉崎の氏子たちが願主
石段塔:文化3年(1806) 石工 三之助?
石灯籠 左:文化6年(1809) 右:元文5年(1740)
石灯籠は江戸時代後期になると竿石や笠石に曲線が目立ってくる。
左の石灯籠は江戸の人が奉納 石工は大嶋久兵衛
市原の石工(大嶋久兵衛)が最初に手掛けた狛犬:文化6年(1809)
当時は神社の石造物(宮物)は江戸の石工に注文するのが通例であった。
石祠が並び立つ
金毘羅大権現塔:文化2年(1805)
五大力船の船主たちによって奉納
富士塚(一山講)
浅間大神碑:万延元年(1860)
手水鉢:元禄15年(1702) 石工安藤長左衛門
境内の古墳
補足資料1:お竹騒動と村上元三の「上総風土記」
「お竹騒動」と手水舎:鹿と間違えて女性を射殺したのに役所に届け出なかったため、猟師の惣兵衛が死罪となり、村人も遠島となった元禄8年(1695)の事件で主人次郎兵衛の赦免を願うべく奔走した下僕の市兵衛は有名となった。しかしその事件を聞いた姉崎出身で江戸小網町に米穀問屋を営んでいた姉前屋四郎左衛門は市兵衛のために奉行所へ嘆願する一方で廻船問屋を通じて流人達との消息文をやりとりして連絡を取るなど、命がけで市兵衛を応援していた。当時、これが発覚すると関係者は打ち首にされる恐れもあった。四郎左衛門の名は姉碕神社の手水鉢(元禄15年=1702)に刻まれている。
このいわゆる「お竹騒動」に取材した村上元三(1910~2006)は市兵衛の忠僕ぶりに焦点を当てて「上総風土記」と題してこの事件を小説化し、第12回直木賞(1940年下半期)を受賞している。各方面から一躍注目された市兵衛の話は戦時中、映画化もされて「忠僕」「義僕」「義民」などと冠せられて全国に知れ渡る存在となった。
補足資料2:「万葉集」に登場する海上潟と二子塚古墳
「夏麻(なつそ)引く 海上潟の沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音もせず」
「夏麻引く 海上潟の沖津洲に 船はとどめむ さ夜更けにけり」
「房総遺産―普通の人達の文化―」(高橋在久 岩田書院 2004)では以下のような指摘がある。
縄文時代の海進期(6千年前から5千年前)に海にそそぐ養老川の土砂が今よりも内陸の河口の沖に海流などによって堆積し、砂州を形成。海退期(4500年前)が始まると砂州が陸化し、現在のJR内房線の通じる砂丘となった。その内側の入江は海上潟と呼ばれた。砂丘上には集落が形成され、北東部に八幡、南西部に五井が生まれた。海上潟は台地側の上総国府や国分寺など政治的要衝への海上交通における門戸であった。万葉集の歌は満潮を待って船着き場に向かうために沖の洲近くに停泊した光景を描いている。潮待ちで停泊する船のランドマークとなったであろう、典型的な海岸古墳が二子塚古墳であった。
補足資料3:上海上国造と海上潟・海部郷について:前之園亮
※平成17年度歴史散歩資料「市原市五井姉崎地区の遺跡と文化財」より抜粋
養老川から姉崎にかけての地域を古代、海上(うなかみ)と称していた。4世紀の海上は姉崎古墳群に見られるように県内では突出した重要な地位を占めていた。4世紀においては天神山古墳(130m)が県内最大で、今富塚山古墳(110m)が2位、釈迦山古墳が5位となる。上海上国造は大和政権と密接な関係を保ちつつ、古墳時代前半、房総の地に君臨していたようである。
海上が房総の中心的役割を担えた背景に養老川流域の高い農業生産力や海部(あまべ)を擁して水上交通を掌握していた点、中央との太いつながり…などが考えられる。万葉集巻14の東歌筆頭に挙げられた「夏麻引く海上潟の沖つ渚に船はとどめむさ夜ふけにけり」(3348)は港として海上潟が関東では夙に有名であったことを裏付けよう。
5世紀前半に築かれた二子塚古墳(後円部の高さは10m近く)は海上潟の港の位置の目安ともなって洋上の船を導いていたようである。また海上潟に入港すると船上の人々は台地上(標高28m)の天神山古墳(後円部の高さ14m。4世紀中頃)を見上げて上海上国造の勢威に一層目を見張ったのだろう。
上海上国造の祖先は古事記や国造本紀では天皇家と同様、天照大神の子孫であり、武蔵国造と同様の先祖という。実際、天皇家の信任篤く、「舎人」と呼ばれる天皇の親衛隊的な職務に就くことも多かったようだ。「続日本紀」に檜前舎人直建麻呂という人物が出てくる。檜前は明日香村の地名で530年頃に宣化天皇の宮を警護した舎人に対し、「檜前舎人(ひのくまのとねり)」という名称がついた。宮を守る舎人となることは地方豪族にとって大変名誉なことであったので「檜前舎人」を氏名としたのだろう。同じ名前は遠江、駿河、武蔵にしか存在しない。関東では上海上国造と武蔵国造だけであり、4世紀から5世紀にかけて関東では名門中の名門豪族であったようである。
檜前姓は白潟郷(台東区浅草周辺)と海上郷に存在しており、双方を行き来する水上交通路があったと考えられる。実際、房州石は後期古墳時代、埼玉県行田市の将軍山古墳、東京都赤羽古墳群3号墳、葛飾区柴又八幡神社古墳、市川市法皇塚古墳に用いられている。さらに海部郷は駿河以東の東海道、関東では市原郡のみに存在(海士有木周辺と推定)している。遠江以西では海部郷が合わせて17カ郷も存在することを考えると大和政権において海上の地域は極めて重要な地域であったことが伺える。なお現在の海士有木は養老川河口から7㎞も上流に位置するが、これは上海上国造が河川交通にも関与したせいであろうか。とすれば3世紀に遡る神門古墳群の被葬者も上海上国造一族と関係が深かったのかもしれない。神門古墳群からは東海近畿系の土器が出土しており、海、川の水上交通路を通じてもたらされたと考えられるからである。さらに神門古墳群近くの国史現在社である前廣神社は海部郷に属していた可能性がある。
しかし上海上国造の海部郷と養老川の支配権は5世紀末から6世紀初頭にかけて大和政権に奪われてしまったようである。伊甚屯倉の設置と時を同じくして姉崎古墳群に築かれる古墳の規模は縮小していく。5世紀前半の二子塚古墳を最後に100m級の古墳は築かれなくなった。
※上海上国造一族と同祖の国造は「古事記」によると出雲、武蔵、下海上、伊甚(現在の夷隅)、遠
江。「国造本紀」によると菊間、武蔵、相模などとなる。
補足資料4:「式内社」と市原
式内社とは「延喜式」神名帳に記載された神社のこと。延喜式は22年かけて927年に完成。全50巻で内、10巻までが「神祇の巻」。そのうち巻9と巻10に全国の3132座、2861所の神社=官社の名が国郡ごとに記載。これらの神社には神祇官か国司が一定の奉幣を行うべきとされた。「延喜式」神名帳には記載がないが、「三代実録」等他の六国史に記載がある神社は「国史見在社」と呼ぶ。
①房総の式内社:計22社
安房:6座
上総:5座…玉前神社(埴生郡)・橘神社(長柄郡)・姉崎神社、嶋穴神社(海
北郡)・飫富神社(望陀郡)
下総:11座
②房総の国史見在社…三代実録に記載:計7社
安房:無し
上総:6社…前広神社・高滝神社・神代神社・建市神社・常代神社・田原神社
下総:1社
※下線部は市原市内の神社
補足資料5:市原におけるいちじく栽培の歴史
「市原いちじく導入の歴史」長谷川英司(上総市原第2号 昭和53年所収)によると青葉台の入り口より旧道にはいった地点(姉崎2592番地)に頌徳碑が建っている。表に「頌徳碑 森田喜一郎先生 千葉県知事川口為之助」とあり裏には門下生79人の名がずらりと記されている。昭和23年3月に発起人飯塚伊三郎ら17人が中心となって建てられたものである。森田は姉崎出身で農作物の優良品種の試作や家畜の飼育研究に長く携わってきた人物。また20年以上にわたって農村青年の教育にあたり、昭和6年、望陀農学校を最後に退職したが、郷里に戻るとたちまち姉崎神社下に姉崎農業実科学校を創設し、地域の農業発展に尽くした。彼は姉崎に適した農作物の探求に情熱を燃やし、さやえんどう、アスパラガス、いちじくの試作、導入に取り組む。また肥料の改良、海藻の肥料化にも取り組んだが昭和22年、財政難により廃校のやむなきにいたった。当時の校舎は焼失し、住宅地となっていて面影はない。なお姉崎神社の桜並木は当時の実科学校の生徒が植えたものといわれる。
彼の導入した姉崎いちじくは現在(1978年当時)、東京市場の8割を占め、産地は姉崎、東海、海上、千種などへ広がっており、皇室献上品ともなっているという。
補足資料6:森田喜一郎の業績
青柳至彦氏によると森田は長年、農作物の優良品種の試作や家畜の飼育研究を続けるとともに20数年、農村青年の教育に携わり、昭和6年(1931)、望陀農学校を最後に郷里姉崎に戻った。そして姉埼神社下に姉崎農業実科学校を創設するとともに姉崎に適した農作物の探求を続け、さやえんどう、アスパラガス、いちじくなどの試作・普及に励んだ。姉崎神社の桜は当時の生徒達が植えたものという。森田は肥料の改良にも取り組んだが、敗戦後まもなくの昭和22年、財政難で学校閉鎖のやむなきに至った。翌年、帝京病院交差点近くにかつての教え子たちによって森田の頌徳碑が建てられている。
現在、「姉崎いちじく」といえば皇室にも献上され、かつて東京市場の8割を占めていた、市原を代表する農作物の一つである。姉崎いちじくの普及に大きく貢献した先覚者森田喜一郎の存在はもっと注目されてよいだろう。
なお昭和12年に三門順子の歌声でレコード化された「姉崎音頭」は森田が作詞作曲している。
1 あーあ 磯の千鳥ね 鳴く音に明けてね ヨイトネ
白帆うれしや 白帆うれしや 姉ヶ崎 サアサ ヨイトコ 姉ヶ崎
2 あーあ 桜花咲くよ 椎津の山はね ヨイトネ
昔 武田の 昔 武田の城の跡 サアサ ヨイトコ 姉ヶ崎
3 あーあ 松のきらいなよ 明神様のね ヨイトネ
夫婦杉の木 夫婦杉の木 縁結び サアサ ヨイトコ 姉ヶ崎
4 あーあ 孝子五郎によ 義僕の市兵衛ね ヨイトネ
世の末までも 世の末までも 名を残す サアサ ヨイトコ 姉ヶ崎
森田喜一郎先生頌徳碑:昭和23年(1948)