§6.市原の郷土史96 .嶋穴神社の概要
島野地区は養老川河口近くの左岸に位置し、古くから繰り返し川の氾濫に見舞われてきた低湿地帯が多い土地である。左側の迅速測図(1881年)を見るとかつて島野周辺には大きな池がいくつか散在していたことが分かる。
しかし右側、現在の地図でJR内房線が通る場所は砂堆列となっている場所が多く、帯状の微高地が続くため、かつては古東海道が通っていたと推察されている。嶋穴神社もまさに線路に近く、砂堆列上に位置しているのだ。
「嶋穴神社略記」より
・祭神:志那都比古尊(しなつひこのみこと)、日本武尊、倭比売尊(やまとひめのみこと:景行天皇の妹)
・由緒:「延喜式」に記載された上総5社の一つで明治12年には県社に列せられた。日本武尊が東征の折、相模の走り水から房総へ渡る海の途上で荒れる海を鎮めるために大和龍田の風鎮めの神を遥拝し、もし安全に房総の地にたどり着けたならばその地に神の御霊を祀らんと祈った。さらに妃の弟橘姫が荒ぶる海神の生け贄とならんとて自ら身を投じたこともあって無事に到達できたことにより、日本武尊は風鎮めの神である志那都比古尊を当地に祀ったのが始まり。
「三代実録」には天長3年(826:なおこの年、上総は常陸、上野とともに親王任国となる)に従5位上、元慶元年(877)に正5位下に昇叙されている。所在地の島野は「和名抄」の嶋穴郷に比定されている。嶋穴は「延喜式」に上総の駅家(馬5匹常備)として古代交通上の要所であった。里伝によれば当社の北200mほどの田の中に30坪ほどの森があり、もともとはそこに社殿があったという。かつては広い境内に深い穴があり、その中から清い風が常に吹いていた、これは風神である志那都比古尊のなすところであり、「嶋穴」もそれに由来するという。現在、ここには嘉永年間に建てられた「嶋穴神社原地碑」が残っているが、深い穴は見当たらないらしい。もしかしたら当地が水田よりも一段高くなっているところから「深い穴」とは古墳の石室であったのかもしれない(「日本の神々 11関東」谷川健一編 白水社 1984より鈴木仲秋氏の指摘)。
祭礼はかつて姉崎神社と同じ6月の初午日であった。その頃は姉崎神社の神輿と嶋穴神社の神輿が互いに4kmほどの行程を行きかうのが通例であったという。これは両神社の祭神が互いに夫婦であったことによるものと思われる。
補記
社殿は天正19年(1591)に戦火で焼失以後、再建は通算で5回にのぼる。おそらくもっぱら養老川の氾濫による損壊、流失が繰り返されたと思われる。古代、嶋穴駅が設けられたが、その推定地には字名として「上茶免、下茶免、関免、天神免」が残る。おそらく古代の免田と見られる。駅家には駅田が設けられ、そこから得られた稲(駅稲という)を出挙してその利稲を駅の諸経費に充てていた。駅田は荘園制下では免田とされ、やがて嶋穴神社の経費に充てられていったのだろう。
勅願所嶋穴神社碑:弘化4年(1847)
勅願所碑:嘉永三年(1850)
1789、1847、1850年と立て続けに勅願所碑が建てられ、1789、1847、1848年と相次いで公卿たちから和歌が奉納されている。この動きの慌ただしさは外国船の来航が相次ぎ、国内が鎖国か開国かで大きく揺れ始めてきた中で尊王攘夷思想が急速に台頭し、神風によって外国船を追う払おうと攘夷思想に傾いた朝廷側の動きを示しているだろう。この動きの最初期に関わったのが寛政の改革を主導していた松平定信であった。松平定信はまた1797年、神号額を揮ごうし、嶋穴神社に奉納している。
千種有功卿歌碑:明治13年(1880)建碑
弘化4年(1847)作「四方の海に仰げばさぞなもみじにも花にも風はさはらざりけり」
富士塚
「繁行終(?)我」供養塔(年代不明) 「食行・角行霊神」:一山講
道祖神祠:天保4年(1833)
手水鉢:延享2年(1745)
大日如来=湯殿山供養塔:延享2年=1745 かつては三山塚上に祀られていたのだろう。
狛犬(文政8年=1825):市内では最も立派なものではあるまいか?
拝殿(嘉永年間) 本殿(天明3年=1783)
拝殿扁額(松平定信筆):寛政9年(1797)、定信は富津砲台築造の折、家臣を遣わせて本社に参拝させ、海防と幕府の安泰を祈願。以後、毎年、祈願を重ね文政10年(1827)、自筆の扁額を奉納。
鳥居奉納碑:寛政10年(1798) 堀川康親歌碑:明治年間
境内の隅に置かれている二本の鳥居の柱。おそらく寛政10年に奉納された鳥居であろう。
・嶋穴神社原社地
嶋穴社原地碑:嘉永元年(1848) 二条城留守居役成島譲撰文、田辺修書
※成島譲は幕府奥儒者の成島司直の子で、明治期の代表的なジャーナリスト成島柳北の父
祠:寛政5年(1793) なぜこの祠だけここに祀られているのか、不明。