95.五井大宮神社の概要
五井大宮神社「参拝のしおり」より
・祭神:「国常立命(クニトコタチノミコト)」「天照大神」「大己貴命(オオナムチノミコト)=大黒様」
・由緒:社伝によれば日本武尊が東征の折に創建。1180には源頼朝が奉幣祈願。
天文年間(16世紀中頃)、小田原北条氏が里見氏との戦いのなかで必勝を祈願し太刀一振りを奉納。江戸時代には近隣28か村の総鎮守となったが、享保頃(18世紀前半)から各村がそれぞれ氏神様を祀るようになると本社は五井の鎮守となった。大正5年には村社に列せられている。
※日本武尊と源頼朝は房総の湾岸部にある神社の由緒、社伝に頻出する。
・社殿:本殿は三間社流れ造りで当初は茅葺であったが昭和33年、銅板葺に改修された。寛政5年(1793)の棟札がある。記録では天正8年(1580)、享保3年(1718)、享保17年(1732)と造営・改修されてきたようである。拝殿は昭和39年に再建、平成8年の改修で翼廊が増築された。
お百度石:素足で社殿とこの石の間を行き来し、手を触れては参拝の回数を数えたもの。特に戦時中は出征した息子や夫の無事を祈った。昭和13年(1938)日中戦争が始まって間もない時期のもの。市原市内ではここでしか確認できていない。
末社の大杉神社「あんばさま」:神社のある地名からアンバサマ(阿波様)とも言われ、常陸国稲敷郡桜川阿波(あば)に本社がある。千葉、茨城、福島、宮城、岩手などの太平洋岸の漁村などで不漁続きの時に祀られた。また悪疫除けの神でもある。
末社:六柱が祀られている
左:庚申塔(寛文9年=1669) 右:二十三夜塔(元禄13年=1700)
※庚申塔は明治23年に中瀬墓地から移されたらしい。黒みがかった石であり、御影石かもしれない。
富士塚:山包講によるもので富士山の溶岩が塚の表面にコーティングされた本格的なもの
山包講関係の石造物:右は「参明藤開山」碑
扶桑教(明治初年、富士講の一部が新興宗教として扶桑教を名乗るようになった)が建てたもので市原では西南戦争の忠魂碑は極めて珍しい。
手水鉢:宝暦9年(1759)のもので五井の町が発展し始めて間もない時期のもの。願主江坂屋半兵衛と側面にある。
※柴田等(1899~1974):宮崎県出身の農林官僚(京都大学卒)。1947年、旧知の間柄であった川
口為之助が千葉県知事となると農業再建を掲げた川口に招かれ、副知事となる。1950年、川口の辞
任に伴う選挙で知事に当選。以後三期務める。農業再生とともに川崎製鉄の誘致を実現させ、京葉工
業地域の基礎を築く。後に知事となる友納武人を副知事に招く。やがて工業化を急ぐ川島正二郎、水
田三喜男らが農林官僚出身の柴田を農業派と断じて批判し、対立を深める。柴田が漁民の生活を案じ
て東京湾埋め立ての推進にブレーキをかけると川島らは強く反発。このため1962年、柴田は自由民
主党から除名され、次の知事選には公認されなかった。川島らは上総一宮藩の最後の藩主の子加納久
朗を推し、知事に当選させた。しかし加納は1963年2月、任期110日にして急死する。
※五井漁業組合解散:昭和28年には船橋市から五井町にかけての漁業組合の代表者らが千葉市の水産会館に集まって県の京葉工業地帯造成と海岸の埋め立て計画に反対する方針を固めていたが、県などの圧力と説得によって補償金を受け取って漁業権を放棄する漁協組合が続出し、昭和30年から五井海岸の埋め立ても始まっていた。昭和32年から33年にかけて君塚、八幡、五所、五井の各漁協と県との間で漁業補償が妥結し、昭和34年には旭硝子、36年には古河電工、富士重機、碑の建てられた37年には三井造船、東電五井火力、昭和電工、38年には丸善石油、40年に不二サッシ等、企業の進出が相次いでいる。池田勇人内閣の重化学工業重視の政策を背景にかつては海苔をそこかしこで干していた東京湾の海辺の風景も急速に変化していったのである。
ちなみに市原浦の名物であった海苔の養殖は意外と歴史が浅く、明治33年(1900)に富津青堀の渡邊忠次氏による指導のもと青柳村で着手された。本来、延宝年間(1670年代)に江戸前で始まった海苔養殖は浅草海苔商人だった近江屋甚兵衛が房総の地に文政年間(1820年代)にもたらしたものである。ただこのときには五井村は近江屋の申し出を断り、申し出を受け容れた小糸川河口の人見村(現在君津市)で房総最初の養殖が始まった。次第に君津、富津、袖ヶ浦で発達、普及した海苔養殖は江戸湾沿岸の村々に貴重な現金収入をもたらし、明治になってようやく市原にも普及するようになった。市原では青柳に続いて五井村が1909年、君塚村と今津朝山村が1912年、八幡五所村が1914年、松ヶ島村が1915年、椎津村が1925年、姉崎が1926年と相次いで海苔の養殖が普及。特に松ヶ島の漁業組合長だった斎藤久雄は養殖の技術改良に専心し、1950年、全国水産功労者として大日本水産会の表彰を受けている(松ヶ島養老神社境内に「斎藤海苔翁之碑」が1955年に建てられた)。こうした努力もあって1947年には千葉県の海苔生産が全国一位となり、昭和30年代まで八幡宿から姉崎にかけては11月上旬になるとあちらこちらで海苔を干す光景が見られた。しかし京葉工業地帯の造成により、昭和37年(1962)、松ヶ島を最後に市原の海苔養殖は幕を閉じることになった。
※逆修塔:生前に自分の供養塔を建てておく風習(=逆修)があった。大宮神社の別当寺は龍善院だっ
たので西源法師は龍善院の住僧だったのかもしれない。
※海岸部では二十三夜塔は数が少ない。
三山塚
補足:上総国の「昇亭北寿」について
初代(?)の北寿は葛飾北斎の初期における弟子として1789年頃から1818頃まで江戸を中心に作品を残しており、ボストン美術館の解説では生没年が1763年~1824年となっている。師匠北斎が身に付けた西洋画の技法を発展的に引き継ぎ、伝統的な浮世絵とは印象が異なる、洋風の風景画を描いているのが特色の一つと言えるだろう。1760年生まれの北斎とは3歳ほど年下だが、長命の北斎よりも25年ほど早く亡くなっているようだ。
市原市牛久三島神社伊勢参詣奉納絵馬:安政4年(1857) 現在、南総公民館に保管
市原市牛久三島神社伊勢参詣奉納絵馬:嘉永7年(1854) 現在、南総公民館に保管
驚くべきことに上総国にも昇亭北寿がいた。ただし江戸の北寿が姿を消してから20年以上、時を隔てた1848年、再び上総の地で北寿の名が登場したのだ。以降、彼は1864年までの間、上総の地にいくつかの作品を残した。ただし、なぜか作品は浮世絵ではなく、絵馬だけに限られている。
絵馬は雨風に晒されることが多く、多くの場合、保存状態が良くない。そのため江戸の北寿と上総の北寿との作風を比べることは、絵馬と浮世絵の違いが加味されることも手伝ってかなり困難である。したがって上総の北寿が江戸の北寿の弟子筋なのかどうかは分からない。ただし寺社参詣、合戦や武将の問答などの画題を考慮すると、絵師としての知識が相当必要とされる絵であり、画家としての力量は相当あったのだろう。絵馬の数からみても上総においての評判は上々のものだったと見受けられる。
とは言え、少なくとも上総の北寿には葛飾北斎の系統にふさわしい凝った構図や西洋的画風がほぼ感じられないことも確かである。もちろん神仏に奉納される絵馬としての、定型的な作風の枠内での作品なので、もとより浮世絵のような大胆な構図や鮮やかな色使い、西洋風の技術を絵馬でふんだんに用いることは難しいだろうが…
絵師としての名が同名なのだから両者には何らかのつながりがあるに違いない。実は江戸の北寿も同じ房総で九十九里の地引網漁や銚子での鰹釣り船を絵にしている。が、残念ながら他はもっぱら江戸を題材にしたものばかり。やはり同名であるにもかかわらず、両者の接点が余りにも少ない点は不可解である。上総の北寿が作品の所在地から見て上総に集中しており、極めてローカルな活動範囲である点、さらに作品も絵馬に限られる点から見ると一層、両者の関係性が見えにくくなる。上総の北寿が果たして江戸の北寿の系列に属する門弟なのか、二代目あるいは三代目なのか…現状では判断の根拠となる史料が余りにも少な過ぎるだろう。両者の関係は今後の解明に待つほかあるまい。
以下、主に南総公民館の解説を元にして上総の北寿が描いた市原の絵馬をとりあえず古い順に列挙してみよう。
・牛久三島神社「伊勢神宮参詣記念」絵馬:嘉永7年(1854)
・嶋穴神社寺社「源義家と安倍貞任問答図」絵馬:嘉永7年(1854)
・牛久三島神社「伊勢神宮参詣記念」絵馬:安政4年(1857)
・五井大宮神社「源義家と安倍貞任問答図」絵馬:文久元年(1861)
・五井大宮神社「伊勢神宮参詣図」絵馬:文久2年(1862)
・北青柳若宮八幡「寺社参詣図」絵馬:年代不明
・八幡飯香岡八幡「吉野合戦図」絵馬:年代不明
他の地域、千葉市緑区東光院「川中島合戦図」絵馬(元治元年=1864)や笠森観音(詳細不明)にも彼の絵馬が残るという。