94.郡本八幡神社の概要
迅速測図(1881年)と現在の地図との比較(歴史的農業環境システムによる)を見ると郡本八幡の立地が海と平野部を見下ろす丘陵の縁辺にあたることが分かる。いわゆる遺跡のホットスポットに属する地域であり、郡本八幡の辺りに古代、市原郡の郡衙、ないしは国府が置かれていた可能性も低くはない。
館山自動車道(右側地図の緑色の線)から左上(北西)は水田地帯で戦後まで条里制区画が残存していた。なお、左の迅速測図では左端で紙が継がれており、五井に近い側の水田の区画が線描されていないので、描画の担当者はこの先で別人物が担当したと推察できる。実際、五井方面でも右側と似たような水田の区画がつい最近まで見られていた。
現在も残る大堰はかつてその4倍ほどの広さがあったようだ。この地は大きな川(養老川)から少し離れているため、容易には大量の水が確保できず、繰り返し旱害に悩まされてきたのかもしれない。多くの場合、丘陵部に食い込む谷津には斜面の一部から泉が湧き、沢地が所々生まれる。そこから細々と流れ出る小川を村人たちは堰き止めて人口の池=堰を設け、農業用水を安定的に確保しようと試みたのだろう。こうした堰は市原の各所で見られる。
鳥居前の石造物群
鳥居前の庚申塔(明和7年=1770)
鳥居近くにある謎の礎石
参道の右手にある三山塚(供養塚)
三山塚上の廻国塔(安永4年=1775)
三山塚上の三山供養塔(享和元年(1801)
狛犬(延享5年=1748):石工和泉屋久兵衛(江戸八丁堀松屋町)
和泉屋の屋号を持つ石工、石屋、石材店は現在も全国的に見られる。その中で久兵衛は市原郡では18世紀中頃、頻繁に登場する名である。
手水鉢(延享5年=1744)
市内では極めて珍しい樽型の手水鉢(天和3年=1683)
石灯籠の竿石部分(宝永2年=1705):二本残っている
大宮大権現石祠(寛政12年=1800)
故瀧本平八氏は大宮大権現祠に別当神主院とあることから神主院が柳楯神事や国府の守公神と関わると推理し、さらにそこから国府の惣社であったのが郡本八幡である可能性を示唆している。かつて郡本の大宮神社は大きな神社で柳楯神事にも関わっていたという。祠の石工は八幡の佐平治であり、飯香岡八幡との関わりは浅くは無いだろう。瀧本氏はさらに市原台地上の衰退していく国府近くから中世、港としての重要性を高めていった八幡の飯香岡八幡に惣社が移されていった過程を柳楯神事が反映しているのでは…という仮説を展開している。非常に興味深い指摘に思える。なお本殿裏側の礎石は国分寺塔礎石と同質のものらしい(「稿本 五井町歴史年表」昭和38年)。
川上南洞書:大正7年=1918
南総学校創設者の川上は能書家としても知られ、市内各地に書を残している。
境内にも幾つかの礎石が残る