93.能満府中日吉神社の概要

 迅速測図(1881年)と現在の地図との比較(歴史的農業環境システムより)から見ると地形的には北西側の端に広がる沖積平野=水田地帯(条里制区画が戦後まで残存し、周辺では複数の箇所で古代道の存在が確認されている)と丘陵地帯(右の地図では緑色の太線で示された館山自動車道より南東側)とに分かれる。左側地図の赤い印が日吉神社であり、その東側に展開している集落は能満である。この能満を中心として捉えると左の迅速測図では平野部から丘陵内に伸びる谷津(内陸部に向かって細長く谷状に伸びる低地のこと)が二手にわかれてピーナツのような双円状に丘陵地帯が盛り上がっているのが見て取れる。右の地図でも小さな川があたかもお城の外堀のように丘陵地帯をグルリと囲んでいるのが分かるだろう。

 中世における上総国の政治的中心、守護所が能満に置かれていたのでは…という説が生まれるのも当然の地形であり、日吉神社やそれに隣接する釈蔵院がわざわざ府中(中世における地方政治の中心地で現在の県庁に相当する守護所が設置された土地を指す)を冠しているのもそうした意味合いを込めてのものだと考えられる。そして府中が古代における国衙の所在地=国府と重なるケースもあるので能満を国府であったと考える説があるにはある。しかし、国分寺等から距離があり、内陸部に入り過ぎている、養老川から遠くて水運が十分に利用できない、古代にさかのぼれる大きな遺跡が見つかっていない…といった難点がこの説にはついて回るだろう。

 古代の上総国の国府は未だに確定できていないが、少なくとも能満よりも少し西方向から西南西方向にあった(村上から郡本との間)と見るのが今は一般的であるように思う。ただし中世になり、武士の時代に入ると古代における国衙と違い、府中の立地には軍事的な条件が加味されてくるだろう。とすれば中世における上総国の政治的中心が自然の要害の地として優れている能満に移っていったとしても決して不思議ではあるまい。下の地図で確認できるように日吉神社から釈蔵院までは多少の高低差があるものの、古代から地方の官道として重要だった現在の297号線(右側の地図では赤線で示されている。郡本の付近など、本来の古道とは所々ズレがある)に近く、守護所としての立地条件はそれなりに満たしているようだ。

 

 

左:日吉神社らしく狛犬のかわりにサルが祀られている

右:左手に小さく庚申塔が見える。右手の大きな石碑は戦後のもの(下)

庚申塔:元禄4年(1691)

笠付き角柱塔で青面金剛伸は市原における元禄期の典型的な特徴をみせる。

石灯籠(左):文化12年(1815)

石灯籠(文化12年=1815)石工は八幡の安藤佐兵次

仙元大菩薩祠:文政7年

18世紀中ごろから石祠は縦長に背が伸びていく。石祠の形状による分類は主に屋根部分に注目して行われる。こちらは「切妻平入の唐破風」と記されるだろう。なお仙元大菩薩は浅間神のことで多くは富士塚に祀られるため、かつては富士塚がここにあったのかもしれない。

 

こちらの石祠も何が祀られているかは不明だが明和6年(1769)の年号は刻まれている。屋根からの形状でいえば「入母屋平入の唐破風」。やはり18世紀中ごろから見られる縦長のスリムタイプである。

 

金比羅大権現碑:天保9年(1838)「讃州象頭山」の文字が右上に読める。香川県の金比羅=金毘羅神

社の背後にそびえる象頭山は修験道の霊山として有名。江戸時代は富士山や相模大山、秩父三峰、出羽三山、御嶽山などへの登拝が盛んに行われた。しかしさすがに四国にまで渡ることは江戸時代の市原では極めて稀であったようで、象頭山の名が石造物に登場するのは市内でこの碑と中高根の石塔だけしか知らない。

 

阿波嶋大権現祠:安政6年(1859) 女人講中

阿波嶋=淡島大権現(淡島大明神)は婦人病平癒に力を持つ神として江戸時代に全国各地で数多く祀られている。和歌山市の淡嶋神社を中心に全国に分布する。女性のあらゆる願いに応えるとされ、江戸時代には淡嶋願人によってその功徳が説かれ、大流行した。ただし市内では椎津八坂神社とここだけでしか祀られているのを確認できていない。

 

     馬頭観音:寛政12年(1800)  

 

※補足:郡本の道標

釈蔵院から297号線に向かう道端にある道標を兼ねた馬頭観音(安永6年=1777)と地蔵(安永8年=1779)。かつてこの場所は大多喜街道と釈蔵院、能満方面に向かう道とが交差する地点であった。