91.飯香岡八幡の概要

 

 迅速測図(1881年)との比較図(歴史的農業環境システムより)でも分かるように八幡は古くから港町として発展してきた。港の中央に鎮座するのがこの飯香岡八幡宮

である。現在、JR内房線八幡宿駅がある場所はかつて霊応寺(真言宗豊山派)という大きな寺院であったが明治初頭の廃仏毀釈運動(八幡社は全国的に見てもかなり過酷な打ちこわしの対象となった)で廃寺となった。霊応寺の筆頭塔頭であった満徳寺のみが駅の北西側、郵便局の近くに現存する。またその南西側には日蓮宗の円頓寺(七里法華の日泰の隠居寺)と長遠寺が並び、当地が日蓮宗の強大な勢力の及ぶ七里法華地帯に属していることを示している。しかし当地は戦国時代に小弓城主で熱心な浄土宗門徒だった原氏の支配下にあったため、集落の両端近くに浄土宗の称念寺、無量寺が存在する。この地域一帯では浄土宗の最有力寺院が千葉の蘇我の大巌寺、日蓮宗の最有力寺院が浜野の本行寺であり、両宗派の勢力がここでは激しく拮抗していたことが分かる。

 JRの線路と房総往還に沿って発展した帯状の集落は縄文時代末期に始まった寒冷化にともなう海退によって陸地化した砂堆列の上にほぼ相当する。市原の臨海部の多くはここと同様に砂堆列上に線路と集落が海岸線に沿って並行するように細長く伸びており、砂堆列上には小さな古墳も点在している。かつて古東海道がこの辺りを通っていたことが推察できる。

祭神:誉田別命(応神天皇)、息長帯姫命、玉依姫命

由緒:神社縁起によればかつてこの地には六所御影神社(この地はかつて御影山と呼ばれていたという)があったが、白鳳年間に一国一社の八幡宮が勧請されたという。一説には天平宝字3年に全国放生の地に勧請された国府八幡宮の一つとも云われ、石清水八幡宮の保元3年の諸国荘園官符に見える上総国市原別宮が本宮とみる考えもある。源、千葉、北条、足利、徳川等の武門武将の崇敬厚く、また殖産興業、海上守護、安産、子育ての神として広く庶民の信仰を集め、徳川家康は社領150石を安堵し、十万石の格式を与えている。

社殿:権現造り。本殿は室町時代中期(15世紀)のもので国指定重要文化財。一重入母屋造りで当初はこけら葺であったが現在は銅版葺となっている。拝殿は元禄4年(1691)のもので県の有形文化財。

柳楯神事(県指定無形民俗文化財):旧暦の8月14日、市原地区の旧家二軒(二軒とも森家)が交替で特定の場所で採取した霊木とされる柳と青竹を用いて楯を編む(柳の小枝を25本、1.4mほどに切りそろえ、先端の葉の部分を残して皮をはぐ。右に12本、左に13本を縦に並べ、5段に分けて縄で編み、その両面から長さ60cmほどの青竹を二つ割にしたものを合わせ、縄で五箇所を結ぶ。中央上部に青竹を通して担げるようにする)。

 出来上がった柳楯を年番の人が担いで町会長宅に行き、床の間に祀ってから市原八幡神社に立ち寄る(ここは飯香岡八幡の元の鎮座地との言い伝えがある)。次いで阿須波神社(万葉集の防人歌に登場)で道中の安全を祈り、五所に向かう。五所では柳楯御三家の人々が村境まで出迎え、年番の家で一晩過ごす。8月15日の朝、五所から警固の人々を従えて飯香岡に向かい、境の川で飯香岡八幡宮総代とカルサンと呼ばれる警固のものが合流する。八幡宮到着後は神官によって本殿の一の宮の神輿の前に祀られ、祭儀の後、五基の神輿の先頭に立って町内を一巡して本殿に安置される。柳楯は次の年の1月14日のトンド焼きのときに社前で燃やされる。

 この神社の由来を探る上でのヒントが隠されているようで実に興味深い神事。

ご神木:社殿向かって右手にある夫婦銀杏(県指定天然記念物)は目通り11m余り。二つに分かれた幹のうち右に乳多く、左に無いため「夫婦銀杏」と云われるようになった。社殿左側のさかさ銀杏には治承4年(1181)、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて海路安房に逃れ、下総の千葉常胤を尋ねる途中に本宮に参詣し、神田150町を寄進し銀杏を逆さに植えて「この木もし活着せば大願成就せん」と源氏再興を祈願されたと伝えられている。

 

主な御神宝

大太刀(市文化財):徳川家康が江戸に入府後、天正20年(1592)に家康の武運長久

 を祈って本多正綱が奉納したと伝える。全長1.63m。

神輿(県文化財):至徳元年(1384)に足利義満が寄進した4基など計15基。

当世具足(市文化財):室町時代から江戸初期までの実用的具足11領。

 

主な石造物

手水鉢:寛文2年(1662)のもので千葉県内では二番目の古さ

 

庚申塔兼道標:安永2年(1773)「右 江戸乃道」「左 たかくらへの道 右かさもりへの道」

 

石灯籠:承応4年(1655)

 

石橋:嘉永3年(1850)石工 安藤佐平治

安藤佐平治は市原を代表する石工の一人で八幡を中心に数多くの石造物を手掛けた。何代も襲名されて

いるので、厳密には何代目かを確定したいのだが、現在、お寺の過去帳を調べることは原則不可能なため、確定はできない。

 

左は忠霊塔(日清戦争~太平洋戦争までの戦死者を祀る。東京裁判で弁護団の一員だった鵜沢総明が揮ごう)、中央は日清戦争の戦勝碑(書は榎本武揚)、右は隣接する白山神社の忠魂碑(川村景明)。他にも山県有朋揮ごうの日露戦争戦勝碑がある。八幡宮は源氏や武家の守護神的存在として中世以降、代々の武家政権に尊崇されたが、近代以降は戦勝、武運をかなえる軍神としても崇拝の対象とされた。市原郡では八つの八幡社に参拝すれば「武運長久」がかなうとされ、兵役に就くものやその家族が盛んに参拝したという。

 

立野信之は五井出身で戦前はプロレタリア文学に携わり、小林多喜二らと活動。二人とも投獄され、多喜二は拷問死したが、信之は獄中で転向。戦後、日本の敗戦にいたる過程を小説化し、直木賞を受賞。川端康成を補佐して日本ペンクラブの活動を支えた。青年時はここにあった南総学校(川上南洞が創設した中等学校に相当する私学校)に一時期、在籍していた所縁から信之の死後、文学碑が建てられた。

 

市原市内最大の富士塚。江戸時代の石造物は見当たらないが「丸八講」の碑が林立する

 

 

三山講の行屋:隣接する白山神社の近くにある建物で左手に梵天を立てるための金属製の支柱が見える。実は八幡宮の境内に三山塚があり、江戸時代後期の三山供養塔が二基残る。

 市原の場合、三山塚は寺院の中か、墓地内などに築かれることが多く、神社の境内に築かれることはそれほど多くない。ここの三山塚は千葉県に多く見られる三段構成の土で築かれるものと違い、石垣で一段高くしただけの塚になっている。これは椎津の八坂神社や菊間の若宮八幡などにも見られる形式で、築造時期は近代以降のものであろう。本来は別の場所にあった三段構成の土製の塚を近代以降、石造物だけ神社内に移築し、新たに石垣で塚を築いた可能性が考えられる。ここの三山塚はもしかすると明治初年の廃仏毀釈運動で廃された霊応寺境内(現在、JR八幡宿駅)にあったものかもしれない。

 

 他にも江戸時代の句碑や石祠、明治期の歌碑など見るべきものは多いが割愛する。