㊴1960年代以降の子供文化と世相(前編)

※この記事は常に新鮮なネタを提供すべく、随時、更新されています。

 

①   戦記物の復活から

・「快傑ハリマオ」の復活

 1960年4月5日 -~1961年6月27日まで日本テレビ系ほかで放送されていた日本のテレビ映画である。

 『月光仮面』を制作した宣弘社の制作による、第4作目のテレビ映画。5部作全65話。太平洋戦争直前の東南アジアやモンゴルを舞台に、正義の日本人男性・ハリマオが、東南アジア(第4部を除く)を支配する某国の軍事機関、彼らと結託する死の商人や秘密結社、スパイ団と戦う冒険活劇である。

 森下仁丹の一社提供番組でもあり、放送枠では夕食を終えた一家が仁丹を飲んで本作を楽しむというCMが放送されていた。本作の図版をあしらった「ハリマオガム」も発売され、ハリマオが鞭でガムを取るCMも放送された。なお、舞台を東南アジアとしたのは、当時の森下仁丹が東南アジアへの進出を計画していたためという。

※創業者の森下博が1893年(明治26年)2月11日に、大阪市東区(現・中央区)に て、薬種商「森下 

 南陽堂」を創業したのが発祥である。1905年(明治38年)から今日まで発売され続けている仁丹の

 製造元としてその名を知られている。商標の外交官は「健康を世界に運ぶ外交官に」という創業者の

 思いが込められている。

 

 原作は、海洋小説を得意とした直木賞作家の山田克郎が1955年から2年間、日本経済新聞夕刊に連載した児童小説『魔の城』である。太平洋戦争直前、マレー半島に大日本帝国陸軍に協力した義賊「マレーの虎」「ハリマオ」こと谷豊という人物がいた。谷の活躍は当時のマスコミで宣伝され、大映が現地ロケを行って『マライの虎』という映画を制作し、大ヒットさせている(1943年)。

   第2部以降のオープニングには「ハリマオとは? マレー語で 虎のことである」というテロップが表示されている。敗戦後は軍国主義のシンボルとしてその存在は忘れ去られていたが・・・「昭和の妖怪」(当時の首相は岸信介)の如く、ヒーローとしてブラウン管に復活した

※谷 豊(たに ゆたか、1911年11月6日 - 1942年3月17日)は、昭和初期にマレー半島で活動した盗

 賊。福岡県筑紫郡曰佐村五十川(現在の福岡県福岡市南区五十川)出身で、イギリス領マレーに渡っ

 た後に盗賊となり「ハリマオ」として一躍知られる存在となった。その後、日本陸軍の諜報員となっ

 て活動した。ムスリム名「モハマッド・アリー・ビン・アブドラー」。

 

テレビドラマ「ゼロ戦黒雲隊」の登場

 『ゼロ戦黒雲隊』(ぜろせんくろくもたい)は、1964年11月28日から1965年5月22日にかけて、NET系列にて放映されたテレビドラマである。全26話、モノクロ作品。放映曜日及び放映時間帯は毎週土曜日19時00分〜19時30分、放映話数全26話で制作はNET、東映であった。絶好の時間帯に放映されたため、多くの少年達がこの番組を視聴していたと思われる。すでに読み物としての戦記物や戦争漫画が漫画週刊誌に連載されていた時代、実写版でのドラマ仕立てのテレビ放映は子供達にとって待ちに待った企画であったと思われる。

 太平洋戦争中の日本海軍航空部隊を軸に、部隊内での上官と兵士の対立や、仲間同士の友情を描いた戦記ドラマ。1943年、ショートランド諸島に位置する小島・バラレ島には日本軍にとって南方最後の航空部隊基地があり、そこには四十数名の無法者がいた。彼らは、隊長の中村甲太以下、全て組織からはみ出した軍規違反者で、大の士官嫌い。そんなバラレ島に新しい指揮官として加茂正人が赴任して来た。ある時、加茂が司令部の命令を無視し、危機に陥った中村を救ったことから、一同は団結。かくして、黒雲のように覆い被さる敵を迎撃する「ゼロ戦黒雲隊」の活躍が始まった。

 

軍人将棋のリバイバル

 いつ、誰によって発明されたかは正確にはわかっていないが、1895年(明治28年)には製造・販売され、遊ばれていた記録があり、類似のゲームの中では最も古いものである。一時期、廃れていたが1960年代から70年代にかけて復活。

 

②  テレビ番組としての「ディズニーランド」

 日本では1958年8月29日 ~ 1972年4月30日まで日本テレビ系列で放送されていた。以下、ウィキペディアの既述によると・・・

 1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を映画産業に対して要請するが当初は成功しなかった。しかしディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと政府に協力し、「反ドイツ」の色を薄めた「反ナチス」の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作

 当時のウォルトディズニー社はピノキオやファンタジアがヒットしなかったせいで、あっという間に膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパも戦争中で映画の輸出が出来なくなり、倒産の危機に陥ったが、プロパガンダ映画の制作により、ある程度の収益を得て経営を建て直すことが出来た。

 戦後も引き続きディズニーは経営を安定させる理由で政府の核実験、原子力開発キャンペーンのためにen:Our Friend the Atom(我が友原子力)という映画を作成するなど政府のプロパガンダに参加している。

 ただし大戦当時に同スタジオで製作されたアニメ映画に、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーンがあったり、ドナルドダックのアニメ映画「総統の

顔」に東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたからではなく、ディズニーが自ら制作したものである。

空軍力の勝利 Victory Through Airpower(1943年)

 『空軍力の勝利』((原題:Victory Through Air Power)は、1943年7月17日に公開された、ウォルト・ディズニー・カンパニー製作の実写とアニメとの合成映画である。上映時間は65分。『空軍力による勝利』とも訳される。原作はアレクサーンドル・セーヴェルスキイ(英語版、ロシア語版)(後に航空機メーカーのセバスキーを設立する)の同名ノンフィクション作品(英語版)(1942年刊行)。

 序盤には、飛行機が発明され、軍事用に使われるようになる様子がアニメで描かれる。飛行機は、最初は偵察に使われる程度だったが、やがてマシンガンが搭載され、爆撃を行うようになり、次第に大きな戦力と化していく。

 中盤では、原作者のセーヴェルスキイが登場し、南太平洋の島嶼に点在する日本の基地を攻撃しても戦況を大きく変えることはできないので、空軍力を活用して日本本土に直接戦略爆撃を加えるべきだと説く。終盤では、セーヴェルスキイが提案した日本への戦略爆撃がアニメで描かれる。街に大量の爆弾が投下され、兵器工場をはじめとする市街が炎に包まれていくが、市民が死傷する様子が描かれることはない。

 ラストシーンでは、旭日旗を持ちアジア各地に触手を伸ばすタコを、ワシが空中から襲って退散させる。勝利したワシは旗竿に止まると金色の飾りと化し、旗竿には星条旗がはためく。

『新しい精神』(原題:The New Spirit)

 ウォルト・ディズニー・カンパニーがアメリカ合衆国財務省の支援を得て戦時下の1942年に製作した国策短編アニメーション映画。この作品の続編に1943年1月7日公開の『43年の精神』(原題:The Spirit of '43)がある。第二次世界大戦の最中、多額の軍資金が必要だったアメリカ国内で、税の重要さを知らしめ米国民への納税促進を呼びかける目的で製作されたプロパガンダ作品。アメリカ合衆国財務省の製作であり、ドナルドダックが主人公の短編映画ではあるがドナルドダック・シリーズには含まれていない。

・『新しい精神』のあらすじ

 ドナルドはラジオの国営放送を真剣に聞いていた。ドナルドは自由と国の為に何かすべきだ、と愛国心に駆られていた。ラジオはその想いに応える方法として、納税を勧めるのだった。ドナルドは最初、納税という方法に否定的だったが、ラジオは納税をすることによって、銃や戦艦、民主主義、そして枢軸国を倒す為に役立っていると語った。

 ドナルドはさっそく納税の準備を始めるが、ラジオはその方法を一から丁寧に教えた。まず、収入が3000ドル以下かを聞き、次に書き込む為の納税証明書とペン、インク、判子を用意させる。そして、証明書に名前、住所、職業、扶養家族がいるかを書き、総所得税から累進課税で割り出した必要な税額を記入させる。証明書を封筒に入れたドナルドは、ポストには入れずにわざわざ議事堂があるワシントンまで急行するのだった。

・『43年の精神』のあらすじ

 愛国者ドナルドはもらった給料を見ながら何をしようかと思案顔。そこへ向こうからキルトを着た年寄りのアヒルと、ズートスーツを着た若いアヒルが現れた。年寄りアヒルはドナルドに倹約と節約を説いて軍備納税を勧めるが、若いアヒルは一緒に飲もうじゃないかとドナルドを酒場に誘う。

 結局、ドナルドは若いアヒルの誘いに乗ろうとし、それを見た年寄りアヒルは杖でドナルドの襟を引っ張る。両者引っ張り合いの末ドナルドの服が破れ、ドナルドをその場に残して二人はそれぞれが誘っていた建物に衝突する。ふと若いアヒルが入ろうとしていた酒場に目をやったドナルドは、大きなカギ十字型のスイングドアに気づく。見れば若いアヒルもアドルフ・ヒトラーのような髪と髭を生やし、狡猾そうな顔で両手をこすっている。それを見てビックリしたドナルドは年寄りアヒルのほうを見ると目を回した年寄りアヒルの背後の民家はレンガの剥がれた赤い壁と青い窓で、さながら星条旗のよう。

 自分の使命に気付いたドナルドは不機嫌そうな年寄りアヒルを尻目に何気ない顔で若いアヒルに近寄り、そのまま手を差し伸べてきた若いアヒルを殴り飛ばす。年寄りアヒルと組んだドナルドはそのまま納税窓口へ出向き、軍備のための税金を支払うことにした。

 

・ディズニーとマッカーシー旋風

 第二次世界大戦後、ディズニーは「マッカーシズム(赤狩り)」の嵐(1947年頃から始まり、1954年にマッカーシーが議会で譴責されるまで続いた共産主義者への弾圧)に巻き込まれる。彼は公聴会に出頭し、最終的には無実とされた。この様な形で赤狩りにこそ巻き込まれたが、戦時中や冷戦中、自らが版権を持つキャラクターを軍や政府に無償で提供し、自社の労働組合と激しく対立していた事などから、当人はむしろ熱烈な保守派、右派、反共主義者と考えられている。

 マッカーシーの赤狩りでは、チャーリー・チャップリン、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラーらも対象となった。委員会への召喚や証言を拒否した。グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)、キャサリン・ヘプバーンらは赤狩りに対する反対運動を行った。

 グレゴリー・ペックは、リベラルの代表格だった。一方でウォルト・ディズニーとともに、政治家のリチャード・ニクソンや、ロナルド・レーガン(FBIの協力者)、ゲイリー・クーパー、ロバート・テイラー、エリア・カザンらは告発者として協力した。

※売れない若手俳優だったレーガンは1955年、カルフォルニアでディズニーランドが開園した際、

 その様子をテレビでレポートしている。彼はやがて共和党の議員となり、第40代アメリカ大統領

 (任期1981年1月20日 ~ 1989年1月20日)に就任している。

 

 またディズニー制作の『南部の唄』は、公開直後から「全米黒人地位向上協会」(NAACP)の激しい抗議を受け続けており、アメリカ本国では再上映やビデオ化が阻止され、「幻の作品」となっている(日本でビデオ発売が実現したが、廃盤)。

 「南部の唄」『南部の唄』(原題: Song of the South)は、アメリカ合衆国のウォルト・ディズニー・プロダクション(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)により制作された実写とアニメーションからなる1946年11月12日公開の長編映画作品である。日本では1951年10月19日に公開された。旧邦題は『南部の歌』。

 映画は南部の農場を舞台に、白人の少年・ジョニーと黒人のリーマスおじさんの心のふれあいを描く実写部分を軸に、リーマスおじさんが話すおとぎ話の部分がアニメーションとなっている。実写とアニメーションを併用した映画はこれ以前にもディズニーにおいては作られているが、実写部分をドラマの軸としたのは初の試みで、ディズニー初の実写映画として分類されることが多い。

 1947年度のアカデミー賞では、「ジッパ・ディー・ドゥー・ダー(Zip-A-Dee-Doo-Dah)がアカデミー歌曲賞を、リーマスおじさんを演じたジェームズ・バスケット(James Baskett)が特別賞を受賞している。

 全米黒人地位向上協会が本作品の黒人描写に対して抗議したため、アメリカでは1986年以降、ディズニー側の自主規制により一度も再公開されていない。日本ではかつてビデオおよびレーザーディスクが発売されていたが、現在はともに廃盤になっており、2020年現在、正式なテレビ放送やDVD化は行われていない。

 また、2019年11月から北米地域(アメリカ・カナダ)を皮切りに世界各国で順次サービスを開始している動画配信サービス「Disney+」でも、「今の時代状況に適切ではない」として、本作品の配信は行わないことを2020年3月に行われたウォルト・ディズニー・カンパニーの株主総会で会長のボブ・アイガーが明言している。

 協会は作品の音楽や実写とアニメーションの融合技術は認めながらも、白人の主人と黒人の奴隷の関係が牧歌的に描かれている点で事実を歪め、奴隷制を美化していると批判している。また、封切りイベントはジョージア州アトランタで開かれたが、主な白人俳優は勢揃いする一方,主演のジェームズ・バスケットを黒人だからという理由で参加させなかった

 ディズニーランドやマジック・キングダムおよび東京ディズニーランドでは、この作品を題材にしたアトラクション「スプラッシュ・マウンテン」が設置されている。なお、アトラクションにおいてはアニメーション部分がメインとなっており、実写部分の登場人物はアトラクションの導入部分で音声のみの登場となっている。

 現在でも人気のアトラクションの一つでありながら、その題材となった作品を見ることができないという状況が続いており、2020年に発生したミネアポリス反人種差別デモの際にはファンが他の作品への題材変更を求める署名運動も起きていた。

 2020年6月25日、ディズニーはアメリカ・カリフォルニア州のディズニーランド・リゾートとフロリダ州のウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートにおける、スプラッシュ・マウンテンの題材を変更し、黒人少女が主人公のディズニー映画『プリンセスと魔法のキス』をモチーフにした施設に改装することを発表した。

 千葉県の東京ディズニーランドにおける同アトラクションの処遇について、運営会社のオリエンタルランドは日本経済新聞や朝日新聞などの取材に対して、「(題材変更は)アメリカで決まったことなので、現時点でのリニューアルについてはまだ決まっていないが、ウォルト・ディズニー・カンパニーとの間で検討を始めている」とのコメントを発表しており、日本についても、題材変更の可能性があることを示唆している。

 そもそもディズニーに対する「白人至上主義者」、「人種差別主義者」といった批判は、彼が死ぬまで浴びせられ続けたものであって、別に『南部の唄』に限ったことではないらしい。彼は『南部の唄』封切りイベントに主演の黒人俳優を出席させなかったほか、『南部の唄』の以前にもその二年後にも、ミッキーマウスやミニーマウスがアフリカで野蛮で猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱的な漫画を出版しており、現在も批判の対象となっている。

 彼が亡くなるまでウォルト・ディズニー社は要所に黒人と女性を雇い入れようとはしなかった。彼の制作した作品群の多くに様々な民族に対する彼の白人中心視点から成る人種差別、および男尊女卑的な性差別が指摘されている。

参考動画

 ジッパ・ディー・ドゥー・ダー スプラッシュ・マウンテンバージョン 

 歌付き 2013/09/27 2:23

 

カッパのまとめ

 漫画やアニメ、テレビドラマ、はてはプラモデルやメンコの図柄においてまで戦記物、戦争物が続々と復活する1950年代から1960年代は敗戦直後の民主主義と平和主義的風潮が次第に後退し、国家主義的方向へと大きく舵がきられた時代であった。

 1950年前後は中華民国の成立と朝鮮戦争、ソ連の急成長などにより、東西対立が一気に緊迫化し、アメリカの対日政策の見直しが急ピッチで行われることになった。その結果、戦争責任を追及されて公職追放されていた人々が続々と社会復帰を遂げ、再軍備が急速に進んで自衛隊が発足していく。

 この動きに並行してGHQに禁止されていた柔道や剣道などの武道がスポーツの世界に復活し、次第に格技として学校教育にも広く導入されてくる。同じく禁止されていたいわゆるチャンバラもの、時代劇も映画やテレビに盛んに登場していく。

 加えてA級戦犯容疑者であったはずの「昭和の妖怪」こと岸信介が政界復帰後、瞬く間に首相となり、閣僚に同じくA級戦犯容疑者だった正力松太郎を迎えて当時盛り上がっていた反核運動を抑え、やはりA級戦犯容疑者だった後藤文夫らの民間からのバックアップを受けて原子力発電の導入を推進していった。

 また岸はA級戦犯容疑者だった児玉誉士夫らを動かして暴力団や右翼団体まで動員し、「60年安保」と呼ばれた大規模な反米運動を力で封じ込めて日米安全保障条約の改訂を強行する。

 実は岸や正力、後藤、児玉らはA級戦犯容疑者として戦後しばらくは巣鴨拘置所に収容されていたが、CIAの工作に協力することと引き換えに裁判にすらかけられることなく皆、釈放されたとの説がある。たしかに彼らは裁判を経ることなく容疑者のまま、東条英機らが死刑執行される前後に釈放されているのだ。

 実際、アメリカの原子力技術を核アレルギーの強い日本に導入させる上でも、また原子力の平和利用を受け入れやすく世論操作させる上でも、さらに反共産主義の立場から日米安保体制を維持する上でも彼らはそれなりに役立つとCIAは評価していたのだろう。東西対立の深刻化はあろうことか、戦時中の指導者層を裁くことなく社会に復帰させ、さらには「敵の敵は味方」と言わんばかりの社会的厚遇を「昭和の妖怪」たちに享受させていたのである。

 確かに正力松太郎配下の読売新聞や日本テレビなどは早くから原子力発電の導入に賛成し、アメリカのテレビ番組を次々と放映していた。釈放された他の人たちの動きを見ても実際、アメリカの指示通りに動いているように感じる。

 こうした動きに便乗して急速に台頭してきたのが例の電通であった。業界2位の博報堂も児玉の息がかかった企業であることを考えると、これまでの戦後日本の動きはほぼアメリカの思惑、シナリオ通りになっているように見えてきて仕方ない。

 皆さんはいかがだろうか。