§2.沖縄学習編その5.ウルトラマンの行方

 

 

①ウルトラマンと沖縄

   以下は沖縄Plus「沖縄とウルトラマン!?その関係と謎に迫った!」(投稿日:2017年10月23日)よりカッパが抜粋して多少、加筆・修正のうえ、これまでに引用してきた文章をご紹介いたします。

 

・ウルトラマン

   沖縄と言えば?と聞かれると皆さんは何をイメージするでしょうか?おそらく青い海、青い空、南国沖縄をイメージする方が多いと思います。意外な事に沖縄と「ウルトラマン」の関係が深い事はご存じでしょうか?沖縄といえば?と聞かれて「ウルトラマン」と即答する方は少ないと思いますが、その深い関係と謎についてこれからご紹介したいと思います。

・金城哲夫という男

 金城哲夫(1938~76)、日本の脚本家でウルトラマンの生みの親と言われています。沖縄県島尻郡南風原町出身(現在は南城市)の生粋のうちなーんちゅが、皆さんが知っているあの想像しているウルトラマンを作りだしたのです。

 アメリカ統治下にあった当時の沖縄から飛び出して、東京の高校へそして大学へと進学します。大学を卒業すると故郷沖縄を題材にした舞台や映画、テレビドラマの制作に関わりますがどれもヒットする事が無いまま年齢を重ねていきます。

円谷プロダクションへ

 知人の紹介から円谷プロダクションを紹介され入社します。この円谷プロこそ日本を代表する特撮映像チームです。円谷プロに入社するとたちまち主任として、「ウルトラQ」「ウルトラマン」と数々のヒット作品を生みだし日本中に怪獣ブームを巻き起こしました。金城哲夫が生みだした、ウルトラマンの顔は沖縄の海で見た「ホヤ」から作られたと言われています。

 完全に才能が開花した金城哲夫はその後も、「怪獣ブースカ」「ウルトラセブン」と誰もが知ってるヒーロー作品を生みだしました。

・ウルトラマンと沖縄の関係

 上記でウルトラマンは沖縄の海で見たホヤから生まれた事を紹介しましたが、他にも沖縄が関係するウルトラマンの秘密を紹介します。

 ウルトラマンの故郷であるM78星雲という星も、Mが南そして78が那覇だと言われています。特に怪獣には多くの沖縄の要素が盛り込まれています。「チブル星人」のチブルは沖縄の方言で頭を表します。チブル星人は頭がデカいです。「ザンパ星人」は泡盛の残波や残波岬という所からきています。そしてウルトラマンシリーズでも有名な怪獣の「キングジョー」は、金城哲夫自らの「キンジョウ」からネーミングを付けたと言われています。

 金城哲夫が亡くなった後のウルトラマンの作品でも、「ウルトラマンティガ」で出てきた「怪獣ヤナカーギー」沖縄の方言でブサイクを意味します。「ウルトラマンダイナ」では「怪獣チュラサ」。「チュラ」は「チュラカーギー」=美人や「美ら海水族館」などで出てくる沖縄の方言で「美しい」の意味…

 どうでしょうか。沖縄とウルトラマンは深い関わりがある事がわかりますね。どの怪獣の名前もうちなーんちゅならすぐにピンときますが、沖縄の方言がわからない県外の方は不思議な呪文のように聞こえると思います。

・金城哲夫の生家に行けるのです!

 沖縄の南風原町津嘉山(つかざん))にある金城哲夫の生家に行く事が出来ます!その生家は現在「松風苑」という沖縄の食材を使った懐石、会席料理が楽しめる料亭となっています。そして、金城哲夫が書斎として使用していた部屋はそのままに「金城哲夫資料館」となっていて事前予約をすれば見学する事が可能なので、ウルトラマン好きにはたまらない空間となっています。

 今回は沖縄とウルトラマンの関係についてでしたが、いかがでしたか?昭和41年(1966)から始まったウルトラマンは今日まで長期シリーズ化し、幅広い年齢層に愛されました。そんな正義のヒーローの原点がココ沖縄にあるのは自慢のひとつになります。

 

②ウルトラシリーズの始まりと沖縄

 以下はカッパがウィキペディアやネット記事などを参照してウルトラシリーズ始まりの概略を記したものです。

 

 所得倍増計画に目がくらみ、アメリカの物質的繁栄に憧れて経済成長にまっしぐらとなっていた日本ではあったが、その真っ只中の1960年代半ば、既にアメリカべったりの成長路線に疑問の目を向ける異色の子供向け番組がSF系の中から登場してきた。空想特撮シリーズ「ウルトラQ」(1966)、その続編の「ウルトラマン」を筆頭とするウルトラシリーズはそうした社会批評的問題意識を内包させた番組の代表格であった。

 たとえば「カネゴンの繭」(ウルトラQ)ではお金集めに執着した加根田金男がガマ口の化け物のような怪獣カネゴンに変身してしまい、ひたすら硬貨を食べ続けることになる。まさに金儲けの亡者となってしまったかのような当時の日本人を揶揄するようなストーリーである。

 やがて激動の70年安保が始まり、沖縄返還(1972)が日程に上り始めた頃、ウルトラシリーズの脚本を手がけてきた沖縄出身の金城哲夫(1938~76)、上原正三(1937~2020)の二人は沖縄人の立場から高度成長期の日本やアメリカに異議申し立てするような「問題作」の数々を怪獣ドラマに託して果敢に表現していく。

 彼らが属していた円谷プロは大ヒットした傑作、ゴジラシリーズを生み出してきた、日本の特撮界を当時リードする番組制作会社であった。そもそもゴジラはアメリカのビキニ環礁核実験による第五福竜丸被爆事件(1954)を背景にした反米的で社会批評的性格を帯びた作品である。

 第1作“水爆大怪獣映画”で初登場したゴジラは身長50メートルの怪獣で人間にとっての恐怖の対象であると同時に「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれていた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品であるとも言われてきた。

 元来が社会批評を怪獣に託して描いたゴジラのような作品を生み出した円谷プロであった。そこに入社したことで沖縄出身の金城、上原らは自らの才能を思い切り開花させていった。彼らが以前から抱いてきた日本とアメリカへの違和感、反発をバネにして脚本を構想し、ウルトラシリーズの物語へと粘り強く昇華させていった歴史的側面は見逃せないだろう。

 

ウルトラマン屈指の異色作 沖縄出身脚本家・上原正三さんが挑んだタブー

 沖縄タイムス 2016年3月27日 11:00

 以下、記事の内容をカッパが抜粋、要約して紹介いたします。故上原正三氏による非常に貴重な証言であり、興味が湧いた方はぜひ、沖縄タイムスの記事全文をお読みください。

 

 沖縄出身の脚本家、故金城哲夫さんが「ウルトラマン」を誕生させてからちょうど50年。特撮の円谷プロで1歳下の金城さんと苦楽を共にした後フリーになり、ウルトラヒーローシリーズ3作目「帰ってきたウルトラマン」を手掛けたのが、同郷の上原正三さん(79)だ。

 2人のウルトラマンは対照的。金城さんが近未来のファンタジーとして描いたのに対し、「帰ってきたウルトラマン」は放送時の、1971年の東京が舞台。スモッグの空や工場地帯、ヘドロの海が戦いの場になり、時に怪獣よりも恐ろしい人間の心の闇もテーマになった。

 特撮界に多大な足跡を残した上原さん。ウルトラマンと並ぶ特撮ヒーロー、仮面ライダーの誕生にも関わったというから驚きだ。米軍占領下の沖縄から上京し脚本家になるまでのいきさつや、ウルトラシリーズ屈指の異色作「怪獣使いと少年」に込めた願い、故郷・沖縄への思いまで、語ってもらった。(聞き手・磯野直)

■疎開船とケチャップの味

 ―那覇市久米で生まれ育った。

 …略…

 ―戦争体験は。

 「1944年7月にサイパンが陥落すると、住民は戦闘の足手まといになるという理由で、日本軍が疎開を奨励した。でも、ウチナーンチュ(沖縄の人)は先祖の土地からなかなか動かない。それで『官公庁の家族から行け』となり、1944年9月ごろ、父を残して母文子ら家族6人で台湾に向かった」

 「1カ月後、一度沖縄に戻ろうと、10月10日に那覇へ着く予定の船に乗った。途中、急に台風が来て西表に避難している間、那覇が大空襲で壊滅した。僕らの船は行き場を失い、約2週間、海を漂流した」

 ―死を覚悟したか。

 「寝る時は家族6人、手首をひもで縛った。母は『離れ離れにならないように』としか言わないけど、7歳の僕でも死を覚悟した。回りは希望のない顔をした大人ばかりだからね、見れば分かるよ。米軍に制空権を奪われ、潜水艦もうようよいただろう。でも奇跡的に鹿児島に着き、熊本の円萬寺という寺で終戦まで疎開した」

 「2週間の漂流中、食べ物がないからケチャップだけをなめていた。だから、79歳の今もケチャップが食べられない」

 ―お父さんは沖縄で、地上戦を体験した。

 「糸満署長として住民を引き連れ、南部を逃げ回っていたらしい。住民と一緒に亀甲墓に隠れていて、日本軍に追い出されたこともあったという。どこをどう逃げたか全く分からず、摩文仁(まぶに)で死にかけているところ、捕虜になった。戦後、体験を一切語らなかったよ。左耳は全く聞こえなくなっていた。でも、僕ら家族は熊本で『勝った』としか言わない大本営発表をうのみにしているから、父たちが悲惨な戦場を逃げ回っているなんて、思いもしなかった」

 ―1946年、米軍占領下の沖縄に帰郷する。

 …略…

■上京、これが「琉球人お断り」か

 ―1955年当時、本土での沖縄差別は露骨だった。

 「高1の時、東京で暮らす親戚が『九州出身』にしていると知った。しかも本籍まで東京に移してさ。これは突き詰める必要があると。『俺は琉球人だ』との気概で東京に乗り込むと、親戚は歓迎してくれない。キャンディーやチョコ、リプトンの紅茶など、基地でしか手に入らない土産を嫌がったな。その後、僕も部屋を貸してもらえなかった。これが『琉球人お断り』かと知った」

 ―それでも、ひるまなかった。

 「『ウチナーンチュを標榜(ひょうぼう)して、ヤマトゥ(本土)で生きる』が僕のテーマ。沖縄を差別するヤマトゥンチュとはどんな人種なのか、俺の目で見てやる。そんな青臭い正義感を抱いて、60年がたつ」

 …略…

 ―1歳下の故金城哲夫さんとの出会いは。

 「卒業後、東京で同人誌用の脚本を書いていたが肺結核になり、25歳で帰沖した。那覇で療養しながら、テーマを探してコザの基地の街や嘉手納基地周辺をウロウロしていたよ。ある日、母の友だちに『あなたみたいな映画好きがいる』と教えられ、会いに行ったらそれが金城…」

 ―どんな印象だったか。

 「…俺が琉球人として生きる決意した時、あいつは玉川学園で『金星人と握手する会』を作って活動していた。発想のスケールが大きすぎるんだよ」

 ―その後、金城さんは特撮の円谷プロに入る。

 「1963年、金城の誘いで東京に行き、特撮の神様・円谷英二さんや長男の一さんに会わせてくれた。一さんは『プロの脚本家になりたいなら、まずは賞を取れ』とアドバイスをくれた」…略…

・「沖縄はタブーだ。テレビではできない

 …略…

 「円谷プロで再会した一さんは、受賞は喜んでくれたけど『沖縄はタブーだ。政治なんだよ。テレビでは絶対にできないぞ』って…。TBSのドラマは他局より秀でていたが、反戦の名作『私は貝になりたい』などは右翼に攻撃されてね。テレビ局は、政治的なテーマにピリピリしていた。代わりに、一さんは僕に『ウルトラQ』を書けと勧めてくれた」

 「で、書いたのが『オイルSOS』。ヘドロから生まれた怪獣が、石油タンクに吸い付いて巨大化するという話。沖縄戦がだめなら、水俣病をテーマにやってみようとした。一さんのゴーサインが出てね。石油会社を訪ねたら『どうぞロケでお使いください』と言う。あの高い石油タンクの上から景色を眺めると、天下を取った気分になったよ。沖縄は無理でも、公害問題を告発できると喜んだ」

 「でも結局、石油会社がロケを断ってね。発注した怪獣ボスタングの着ぐるみが出来ちゃっていたから、急きょ『宇宙指令M774』という話を書き、それが『ウルトラQ』の第21話になった。試写室のスクリーンいっぱいに映像が映し出されたら、感激したよ。これがプロデビュー作」

 ―金城さんの誘いで円谷プロの社員になる。

 「金城が企画文芸室長で僕が副室長。1966年1月から始まった『ウルトラQ』がヒットし、さらに1966年7月に始まった『ウルトラマン』で、円谷プロは隆盛期を迎えた。金城は常にその中心にいてね。1967年10月から始まった『ウルトラセブン』も、『ウルトラマン』ほどではないが視聴率は取れていた。金城の書く作品は本当に素晴らしかったよ。特に、メーンライターを務めた『ウルトラQ』『ウルトラマン』、そして『ウルトラセブン』の最終回は彼の真骨頂だ」

 ―しかし、怪獣ブームは去ってしまう。

 「円谷プロ初の1時間番組『マイティジャック』が1968年4月から始まったが視聴率が悪く、赤字を累積させた。それで円谷プロは金城を降格させ、切った。あれだけの功労者を会社は切ったんだ。金城は見るからに意欲を失ってしまった」

 「そんな中、『怪奇大作戦』(1968年9月~69年3月)で、金城がTBSの橋本洋二プロデューサーに『対馬丸事件を題材に、シナリオを一本書く』と宣言したことがある。でも、結局書けなかったよね。金城は沖縄戦の時、家族で南部戦線を逃げ回った。おふくろさんが艦砲射撃で片足を失ってね。あまりにも過酷で、生々しくて…。結局、沖縄戦については何も書かないまま死んでしまったけど、見たかったよな」

 「金城はその後、数本書いたけど、魂のない作品だった。1969年2月、失意のまま妻と3人の子を連れて沖縄に帰ってしまった。会社は僕に残れと言ったが『金城のいない円谷に魅力はない』と言って辞め、フリーになった。…

■仮面ライダー誕生、そしてウルトラ復帰

 ―フリーになり、「仮面ライダー」の誕生にも関わったと聞く。

 …略…

 ―しかし、再び円谷プロから誘いが来た。

 「TBSの橋本プロデューサーから『ウルトラマンをもう一度やるから戻ってこい』との連絡が来た。一度は下火になった怪獣物だったが、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』が再放送されると人気が再燃していた。それで新作を作ることになり、僕は『仮面ライダー』を離れた」

 ―企画のさなかの1970年1月25日、円谷英二氏が亡くなる。

 「それで、長男の一さんがTBSを辞めて円谷プロの社長になり、『新しいウルトラマンで、おやじの弔いをやるんだ』と意気込んだ。『帰ってきたウルトラマン』(1971年4月~72年3月)は、お鉢が回るような感じで僕がメーンライターになった。すると、円谷プロは第1、2話の監督に映画『ゴジラ』の本多猪四郎さんを連れてきた。巨匠だよ。まさに円谷プロの決意の表れ、おやじさんの弔いへの熱意の表れだね。でも、俺は何を書けばいいのかとびびってしまった」

■2人のウルトラマン

 ―金城さんのウルトラマンとは。

 「無風快晴。一点の曇りもない。彼のウルトラマンは伸びやかさがみなぎるんだ。物事をまっすぐに見つめ、マイノリティーの視点を持ちながらも抑制を効かせ、ファンタジーに収めていた。50年前の作品なのに、今も魅力が全然失われない。現在までいろいろなヒーローが誕生しているが、いまだに初代ウルトラマンを超えるキャラクターはない」

 「初代ウルトラマンの第30話『まぼろしの雪山』で山奥に暮らす怪獣ウーを攻撃する科学特捜隊を、少女が猛烈に批判する。金城にもそういう反戦的な部分、圧倒的な力で制圧することへの反発はあったと思う。僕も金城もウチナーンチュだから、無意識の部分でもマイノリティーの視点を持っている」

 「でも金城は明るい男。意識的にそういうテーマを表に出さず、抑制を効かせていた。『ウルトラセブン』の第42話『ノンマルトの使者』に沖縄を投影させたという説があるけど、金城はそんなに意識していなかったと僕は思う。ファンタジーの中でしっかりと収めるのが、金城のウルトラマン作品のすごさだ」

 ―それでは、上原さんのウルトラマンは。

 「金城のウルトラマンは一つの完成形。そのコピーでは、やる意味がない。仰ぎ見る主人公ではなく、町工場で働く兄ちゃんが困難にぶつかりながら成長していく物語にした。近未来ではなく、公害が深刻だった70年代の東京を舞台に、リアリティーの追求に腐心した。例えば怪獣がビルを壊すと、僕は人々ががれきの下敷きになる場面を作る。これは金城にはない発想…」

 「初代ウルトラマンと変身するハヤタは一心同体だけど、意思はどちらにあるのかはぼんやりした設定になっている。それで僕のウルトラマンは、変身する郷秀樹の意思を持つ設定にした。また、初代は仰ぎ見るイメージだけど、僕のウルトラマンは子どもの目線に下げようとした」

 「だから『帰ってきたウルトラマン』は僕をはじめ、いろいろなライターがやりたい放題にやっているよね。初代『ウルトラマン』のような透明感はなく、斜(はす)に見た感じの物語が主流になっていった」

 ―「帰ってきたウルトラマン」の第11話「毒ガス怪獣出現」は、金城さんの脚本だ。

 「金城が東京に出てきた時、一さんが書かせた。当時、大問題になっていた(沖縄の)知花弾薬庫での毒ガス貯蔵をテーマにしたけど、あまりにもストレートな告発で、金城の真骨頂である伸びやかさがない。自分を曲げて書いたのだろう。結局、それが金城のウルトラシリーズ最後の脚本になった。つらかっただろうな。一点の曇りもない『帰ってきたウルトラマン』を書いてほしかった」

 ―放送時の1971年、沖縄は「日本復帰」直前だった。

 「ある日、現場で『復帰おめでとう』と言われた。何がめでたいんだ。沖縄があれだけ求めた基地の撤去要求は無視されてさ。『復帰』は、米国の一元支配から日米のダブル支配になるだけだと考えていた

 「このままだと、沖縄は翻弄(ほんろう)され続ける。一さんの『沖縄はタブーだ』がずっと胸に引っかかっていて、いつか差別、マイノリティーを真正面から問おうと考えていた。番組も3クール目に入り、安定期に入っていた。やるなら今だと…」

■「怪獣使いと少年」で問うた人間の心の闇

 ―それで、第33話「怪獣使いと少年」ができた。

 「登場人物の少年は北海道江差出身のアイヌで、メイツ星人が化けた地球人は在日コリアンに多い姓『金山』を名乗らせた。1923年の関東大震災で、『朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ』『暴動を起こした』などのデマが瞬く間に広がった。市井の善人がうのみにし、軍や警察と一緒になって多くの朝鮮人を虐殺したんだ。『発音がおかしい』『言葉遣いが変』との理由で殺された人もいる。琉球人の俺も、いたらやられていた。人ごとではない」

 ―今見ても生々しく、よく放送できたなと思う。

 「僕が何をやろうとしているのか、TBSの橋本プロデューサーは当初から知っていたよ。だって最初にプロットを見せるから。プロデューサーの権限は絶対だけど、だめと言われたら企画は通らない。でも、『書け』と言ってくれたよ」

 「あの回の監督は東條昭平が務めたんだけど、彼が僕の意をくんで、演出をどんどん強めていくんだ。例えば、『日本人は美しい花を作る手を持ちながら、いったんその手に刃を握ると、どんな残虐極まりない行為をすることか…』という隊長のセリフは僕の脚本にはなく、東條が付け加えた。そういう意味では、30歳前後の若者が血気盛んに作ったんだね」

 ―すんなり放送できたのか。

 「いや、試写室でTBSが『放送できない』と騒ぎ出した。橋本プロデューサーが『上原の思いが込められた作品だから放送させてくれ。罰として、上原と東條を番組から追放する』と説き伏せて放送させた」

 「でも当初、メイツ星人は群衆に竹槍で突き殺されていた。これも僕のシナリオではなく、東條が演出で変えた部分。さすがにこのシーンは生々しすぎて子ども番組の範疇(はんちゅう)を超えると…。それでこの場面は撮り直して拳銃に変わり、オンエアされた。結局、僕はメーンライターを辞めさせられたけど、橋本さんには感謝しかない」

 …略…

 ―放送から45年がたつ。

 「ヘイトスピーチなど、日本は45年前よりひどい状況だと思う。付和雷同した群衆ほど恐ろしいものはない。だから、自分の目で物事を見てどう生きるかを考え、自分の足で立つ子に育ってほしいと願い、子ども番組を作り続けてきたつもりだ」

 ■心の中に謝名親方(じゃなうぇーかた)がいる

 ―子ども番組ではなく、大人のドラマを書こうとは思わなかったのか。

 「…それよりも、自分を必要としてくれる子ども番組で頑張ろうと決めた。『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年4月~77年3月)などは当初、プロデューサーが不安がっていたわけだよ。絶対にヒットするからと説き伏せた結果、今も続く戦隊ヒーロー物の先駆けになった」

 ―沖縄と日本の関係について、どう考えるか。

 「独立も含めて一度関係をリセットし、どうするかを真剣に考える時期が来ている。薩摩侵攻で、琉球王国を占拠した400年前の強引さが今も続く。民意を顧みず、基地を押し付ける政府の態度は沖縄を植民地としてしか見ていない証拠だ。これが差別なんだ

 「薩摩侵攻の時(1609)に捕らえられ、2年間幽閉されても薩摩への忠誠を拒否したため、処刑された謝名親方(琉球王国の大臣)が僕の先祖。18歳の時、琉球人の誇りを持って東京に来てから60年、僕の心の中にはいつも謝名がいる」

 ―「ウルトラセブン」で「300年間の復讐」という、映像化されなかったシナリオを書いている。

 「武器を放棄した友好的な宇宙人が地球に来て人間と仲良くしようとするけれど、『髪が赤い』という理由で皆殺しにされるストーリーを書いた。これは薩摩による琉球侵攻がヒント。武器のない琉球に、鉄砲で武装した薩摩軍が攻めてくる。赤子の手をひねるような、一方的な虐殺だっただろう」

 ―これが映像化されなかった理由は。やはり「政治的」だからか。

 「いや、これは映像化するとお金が掛かりすぎるという、単に予算的な問題だった。テレビは社会問題をストレートに描くのは嫌がるけれど、怪獣を使って描いたりすれば、当時は結構いろいろなことができたんだよ」

 ―残りの人生で、手掛けたい仕事は。

 「金城が沖縄に戻る時、『一緒に帰ろう。企画会社を立ち上げ、沖縄発の作品を作ろう』と僕を誘った。僕はまだペーペーで断ってしまい、彼は37歳で亡くなった。金城がやろうとしたことを今、仕掛けようとしている。しまくとぅばを話すキャラクター番組を、世界中に配信できる沖縄発のヒーローを企画中だ」

 「言葉を奪われた民族はアイデンティティーを失い、従順になりやすい。侵略者の常套手段だ。沖縄の子どもたちが番組を楽しみながら、ウチナーグチの勉強ができればいい。それが僕にとっての琉球独立。400年前に奪われたアイデンティティーや言葉を50年、100年単位で取り戻していかないと。その種まきをして、タンメー(おじいさん)は死にたい」

 ―金城さんとの約束を果たすということか。

 「それでは話が美しすぎる。このキャラクターで、金城の初代ウルトラマンを絶対に超えてみせる。今は日本もハリウッドも後ろ向きでコピーばかり。作家の気概がなさすぎるんだ」(了)

 【プロフィル】上原正三 1937年2月6日、那覇市久米生まれ。中央大学卒。…円谷プロを経て69年にフリーとなり、「帰ってきたウルトラマン」「がんばれ!!ロボコン」「秘密戦隊ゴレンジャー」「がんばれ!レッドビッキーズ」「宇宙刑事ギャバン」アニメ「ゲッターロボG」など多くの子ども番組でメーンライターを務める。著書に「金城哲夫 ウルトラマン島唄」「上原正三シナリオ選集」。※2020年、病没

※「怪獣使いと少年」(「帰ってきたウルトラマン」第33話:1971年11月19日放送。

 脚本 上原正三 監督 東條昭平)の概要

  差別や未知なるものへの恐怖心、集団心理の恐ろしさを描いた話題作。差別や工業発展に伴う大気

 汚染(舞台は神奈川県川崎市)など、当時の日本社会が抱えていた様々な社会問題に対する痛烈な批

 判とも取れるその設定。そして人間の醜い一面、おぞましい姿をくっきりと描写し、当時も今も多く

 の視聴者に強烈な印象を残し続けている。

  そのあまりにも過激な内容ゆえに屈指の問題作として有名だが、同時に「帰ってきたウルトラマ

 ン」の中でも傑作としてまず真っ先に名を上げるファンは数多い。歴代ウルトラシリーズでも他に類

 を見ない、ウルトラマンが人間に絶望し、一度は戦いを放棄してしまうという衝撃の展開で知られて

 いる。

 あらすじ

  ある嵐の夜の事。一人の少年が怪獣に追われていた。そこに現れた謎の男は不思議な力を使い、怪

 獣を地底深くに封印した。やがてその少年はボロボロの衣服を身に纏い、なぜか河原の土を毎日、執

 拗に掘り返すようになっていた。

  そこに中学生三人組がやってきた。いつからか宇宙人ではないかと噂されていた少年は三人から陰

 湿ないじめを受けていたのだった。少年は三人に掘り返した穴の中に埋められた上に泥水をかけら

 れ、自転車ではねられそうになったが、間一髪のところで郷隊員(=ウルトラマン)が止めに入る。

  実は少年は北海道の出身であり、就職目的で上京した父親が失踪。母親も病死したことで天涯孤独

 の身となり、父親を訪ねて自身も上京してきたのだった。

  事情を知った伊吹隊長は「…もし少年が宇宙人呼ばわりされ乱暴されて、情愛の絆を断つことにな

 るとしたら、それは絶対に許されぬ。日本人は美しい花を作る手を持ちながら、一旦その手に刃を握

 るとどんな残忍極まりない行為をすることか…」と語り、郷に少年の見守りを命令する。

  おじさんの正体はメイツ星人という宇宙人であり、すでに郷に正体を明かしていた。少年が上京し

 たのと同じ時期に地球の気候風土の調査のためにやってきたのだが、偶然、怪獣に追われている少年

 を目撃し、念力を使って怪獣を地底に封印して天涯孤独で寒さと飢えに苦しむ少年を保護することに

 なったのだ。

  星人はその後人間に変身して「金山」と名乗り、少年と河川敷の廃墟で共に暮らし始めた。その暮

 らしの中で少年と金山の間には親子愛にも似た絆が芽生え、金山も少年とこのまま地球で暮らしても

 いいとさえ思い始めていた。

  しかし大気汚染(川崎ぜんそく)は徐々に金山の体を蝕んでいき、地中に埋まっている宇宙船を掘

 り返せないほどにまで衰弱してしまっていた。少年が地中から必死に掘り返そうとしていたのは彼の

 宇宙船だったのだ。

  全てを知った郷は宇宙船探しを手伝うことを決めた。だがその時、町の男達が大挙して押し寄せて

 きた。MATがいつまでも宇宙人を倒さないなら自分たちでやっつけてやると武器を片手になだれこん

 できたのだ。少年は人々に引きずられるようにして河原から連行されていく。だがそこに金山が飛び

 出してきた。

  「待ってくれ!宇宙人は私だ!その子は私を守ってくれていただけだ、宇宙人じゃない!さあ、そ

 の子を自由にしてやってくれ!」

  人びとは一旦少年を解放したが、宇宙人を放っておくと何をしでかすか解らないとも考え、金山に

 武器を向ける。大混乱に陥る中、警官が放った銃弾が命中し、金山は倒れ伏して死んだ。

  その時、地上に煙が噴き出し、地底から怪獣が現れた。金山が死んだことで封印が解かれ、大怪獣

 ムルチが復活したのだった。驚き逃げ惑う人々は怪獣を退治してくれと郷に向かって叫ぶ。しかし郷

 はその場に座り込んだまま動こうとしなかった。

  …勝手なことを言うな。怪獣をおびき出したのはあんた達だ…

  人間に絶望した郷(=ウルトラマン)は、人々を見捨てる決断をした。ムルチは口から吐く火炎を

 武器に暴れ回り、とうとう町に入った。

  座り込みを続ける郷の前に、突然、一人の僧侶が近づいてきた。

  「郷、町が大変なことになっているんだぞ。郷、解らんのか?」

  その声は伊吹隊長だった。やがて郷は意を決してウルトラマンに変身し、降りしきる雨の中でムル

 チと戦い、スペシウム光線で怪獣を倒した。

  戦いが終わり、雨が上がると少年はなぜか再び穴を掘り始めていた。

  …おじさんは死んだんじゃない。メイツ星へ帰ったんだ。だから自分も宇宙船でメイツ星へ行くか

  ら、その時は迎えに来てくれ…

 

ウルトラマンに込めたマイノリティーへの視線 文化 2016.11.29

 以下は記事の内容をカッパが要約・抜粋したものです。③とよく似た記事ですが敢えてご紹介いたします。

 

…円谷監督の下に結集したさまざまなクリエイター、特撮スタッフたちの発想と情熱の結集から誕生した初代『ウルトラマン』、シリーズ第2、3弾の『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』を語る際に忘れてならないのは、沖縄出身の個性の違う2人の脚本家の存在だ。

 ウルトラマンがテレビに登場したのは、1966 年7月。2年前の東京五輪を機に一般家庭にもカラーテレビが普及し始めていた。テレビ画面で活躍する身長40メートルのヒーローと怪獣との対決に、子どもたちは熱狂し、最高視聴率は40パーセントを超えた。

・「特撮の神様」に見込まれた金城哲夫

 円谷特技プロダクション(現・円谷プロダクション)は円谷監督がテレビ向け特撮ドラマ制作のために1963年に設立した会社だ。初めて制作した『ウルトラQ』が、お茶の間に怪獣旋風を巻き起こし、『ウルトラマン』誕生につながる。両シリーズのメインライターを務めた沖縄南風原町(はえばるちょう)出身の脚本家、故・金城(きんじょう)哲夫さんは 玉川大学文学部在学中に円谷監督と出会い、その才能を見込まれて円谷プロに入社、企画文芸部の責任者となっていた。

 那覇出身の上原正三さんは、円谷プロで金城さんと働くことにする。沖縄の現実をドラマで伝えたいというのが彼の本心だったが、当時、右翼の反発を恐れて、テレビ界では反戦、沖縄問題は“タブー”という風潮だった。それなら子供向けの怪獣ものを書いてやろうじゃないかと開き直った…

・自然界に宿る神々と怪獣

 1966年1月から半年間放映された『ウルトラQ』に続き、『ウルトラマン』が始まる。…『ウルトラマン』全39話のうち、共同脚本を含めて14本を金城さんが担当。「普通の人はプロットから考えるが、金城はまず怪獣ありきで、ストーリーを組み立てた」と上原さん。

 「僕たちが育った琉球では古くからシャーマニズムの伝統がある。そして、闇に潜むものたち、精霊を畏れる。神々は自然界のあらゆる所にいる。金城にとって、怪獣も一種の神、という感覚だった。そして、ウルトラマンは光の国からやってくる。これは、沖縄の『ニライカナイ』—海の向こうに光、豊穣(ほうじょう)の国がある、という発想につながる」。

 怪獣をすぐに退治しろ、ではなく、怪獣には怪獣なりの存在価値がある—それが金城さんの「バランス感覚」、マイノリティーへの視線であり、上原さんも共鳴するものだった。

2人は円谷プロを離れて

 ウルトラマンに続き、1967年10月『ウルトラセブン』が放映開始。全48話の中には、金城さんによる異色作 『ノンマルトの使者』(第42話)がある。古代に人類に追われた海底人が、海底開発の進行に抗議し「人間こそ侵略者」と告発するが、地球防衛軍に滅ぼされる。正義とはどこにあるのか、という割り切れない後味を残す名作だ。

 金城さんは途中からセブンと平行して、SFドラマ『マイティジャック』制作に注力する。円谷プロにとって、夜8時台という大人向けの時間帯への進出であり、大きな賭けだった。だが視聴率は低迷。これがきっかけで文芸部は廃部となり、1969年、金城さんは円谷プロを去る。

 ウルトラセブンで多くの脚本を担当した上原さんは、金城さんがいない円谷プロには意味がないと円谷プロを辞める。日本返還を控える沖縄を拠点に活動すると決めた金城さんから、一緒に沖縄発コンテンツのための企画会社を立ち上げようと誘われたが、東京でもう少し脚本家としての修行を積みたいと断った。上原さんが東京にこだわる理由は他にもあった。

 高校生の頃、東京で成功していた叔父たちが、沖縄の戸籍を抜いていたことを知る。「“二等国民”の沖縄人は出世できない差別の構造があった」。当時は上京するのにパスポートが必要な時代。「基地のない」東京での大学時代、上原さん自身も、沖縄に対する周囲の差別意識を感じた。だからこそ「ヤマトンチュ」(本土の人)をもっと知らなければという思いもあった。…

リアリズムを追求した『帰ってきたウルトラマン』

 上原さんは、石森章太郎原作の特撮ヒーローもの、『仮面ライダー』の立ち上げにも関わっていた。その第1話の草稿を書こうとしていた頃、円谷プロから、ウルトラマンを復活させるので戻ってほしいと頼まれ、『帰ってきたウルトラマン』(1971年4月~72年3月)のメインライターを務めることになる。…上原さんは、改めて、金城さんが完成させた颯爽(さっそう)としたヒーローとは違うウルトラマンをつくり出そうと決意した。「同じことをやっても金城にはかなわない。金城のファンタジーに対して、リアリティーを追求しようと思った」。

 主人公の郷秀樹は怪獣攻撃隊(MAT)のメンバーだが、もともとは自動車修理工の普通の青年だった。その郷が内面で激しく葛藤する様子が描かれるのが、上原さんの衝撃的な問題作『怪獣使いと少年』(第33話)だ。

 川崎を舞台に、北海道江差出身の孤児の少年と河原のバラックに居ついた実は宇宙人の老人との交流。そして2人に対する差別と迫害を描いたこのエピソードは、集団心理の怖さを浮かび上がらせる。

 少年はアイヌで、老人に化けた宇宙人は在日コリアンを念頭に置いて書いたと言う。マイノリティーの琉球人として、あくまでも少年、宇宙人、怪獣側に寄り添っていた。このエピソードの放映後、上原さんはメインライターから外される。

語り継がれる「おとぎ話」として

 その後、上原さんは『がんばれ!!ロボコン』『秘密戦隊ゴレンジャー』など数々の人気子供向け番組の脚本を執筆。一方、沖縄に戻った金城さんは、沖縄芝居の脚本や演出に力を入れていた。1975年、沖縄国際海洋博覧会のメインセレモニーの構成・演出を手掛けたが、海洋博は沖縄の海を破壊したという地元の批判に苦しんだ。翌年、不慮の事故により37歳で急逝。

 「10代から50代まで、(初期シリーズの)熱烈なファンがいて、何度も見ては、そのたびに違う意味を読み取ってくれる」と上原さん。「かぐや姫」「桃太郎」「浦島太郎」などの日本の昔話に、現代人がさまざまな意味、解釈を見いだすように、自分たちのウルトラマンが世代を超えて読み継がれる「永遠のベストセラー」になってくれればいいと願っている。

 取材・文:ニッポンドットコム編集部 板倉 君枝/大谷 清英

※ウルトラセブン第42話 「ノンマルトの使者」1968年(昭和43年)7月21日

 放送 監督 満田かずほ 脚本 金城哲夫  特殊技術 高野宏一

 あらすじ

  休暇の日にダン(=ウルトラセブン)と一緒に海に来ていたアンヌ隊員の前に一人の少年が現れ、

 シーホース号による海底開発実験をやめないと大変なことになると訴えた。その直後に爆発が起こ

 り、シーホース号は炎上してしまった。少年の言葉は本当だったのだ。極東基地にもアンヌの前に現

 れた少年の声で電話が入り「海底はノンマルトのものなんだ」「人間が海底を侵略したらノンマルト

 は断然戦うよ」「ねえ 長官にちゃんと伝えておくれよ。海底はノンマルトのものだから侵略したり

 すると大変なことが起きるよ。」と言ってきていた。

  ダンの故郷M78星雲では地球人のことをノンマルトと呼んでいるが、少年の言うノンマルトとはい

 ったい何者なのか…?アンヌが、あの少年を見つけ出し、ノンマルトとは何なのかということを尋ね

 ると、それに対する少年=真市の答は「本当の地球人さ。ずっとずっと大昔、人間より前に地球に住

 んでいたんだ。でも人間から海に追いやられてしまったのさ。人間は今では自分たちが地球人だと思

 ってるけど本当は人間の方こそ侵略者なんだ。」という驚くべきものだった。

  そんな折、海から蛸のような怪獣が現れ、暴れ出した。ウルトラ警備隊は、その怪獣がノンマルト

 と思い込んで攻撃し、ウルトラホーク1号とハイドランジャーで怪獣を倒す。しかし、再び基地には

 真市少年から電話が入り、ウルトラ警備隊が倒したのは怪獣ガイロスでありノンマルトではなく、ノ

 ンマルトは二ヶ月前に行方不明になっていたイギリスの原子力潜水艦グローリア号で攻撃を開始する

 と予告をしてきた。

  その予告どおり、ノンマルトはグローリア号での攻撃を開始し、実は死んでいなかった怪獣ガイロ

 スも再び暴れ出した。ダンは真市少年の制止を振り切ってウルトラセブンに変身し、ガイロスを倒

 し、ウルトラ警備隊はハイドランジャーでグローリア号を撃沈した。そして、海底に発見したノンマ

 ルトの海底都市までもウルトラ警備隊は全滅させてしまった。

  後味が悪いかたちで事件が解決した後、海に来ていたダンとアンヌが「ウルトラ警備隊の馬鹿野

 郎」と叫ぶ真一を見つけ、かけ寄ると、そこでは一人の女性が2年前に亡くした子供の墓碑に花を供

 えていた。そして、その墓碑には「真市安らかに」という文字が刻まれていた。

 ・・・2年前、この海で死んだ少年の魂がノンマルトの使いになってやって来たのでしょうか それにし

 てもノンマルトが本当に地球の先住民だったかどうか それは全てが消滅してしまった今 永遠の謎

 となってしまったのです…。

 

ウルトラマンは現代日本を救えるか ~都市化への抵抗~

 https://ameblo.jp/bnnmr455/entry-11624782477.html

 以下、短いのでほぼ全文を少しだけ加筆修正を加えてご紹介いたします。なおこの第15話はカッパが個人的に最も記憶に残っている印象深い作品です。

 

・『ウルトラマン』第15話「恐怖の宇宙線」1966年10月23日に放送(脚本・佐々木守/監督・実相寺昭雄)のあらすじ 

 小学校で男の子たちは自分の好きな怪獣の絵を描いて貼っている。ゴジラにガラモン、カネゴンもいる。そんな中、ムシバとみんなから呼ばれている少年は、弱々しそうな自作の怪獣、ガヴァドンを描いて「オタマジャクシみたい」と仲間に笑われていた。

 ムシバは空き地の土管にガヴァドンを落書きし、空き地の管理人に怒られてしまった。しかしその怪獣は宇宙からの不思議な光線を浴びることで実体化した。驚いた少年たちはムシバを中心に、ガヴァドンをもっと強い怪獣にしようと、再び落書きに戻ったガヴァドンに手を加えていく。するとやはり怪獣は光線を浴びて実体化するのだった。

 ウルトラマンは科学特捜隊の要請を受けてガヴァドンと戦った。しかし子どもたちはガヴァドンを殺すなと口々にウルトラマンを非難する。非難の声が絶えぬ中、ウルトラマンはガヴァドンを宇宙へと連れ出し、1年に1度、七夕の日にだけその姿を見せるよう、子どもたちに約束するのであった。

 

 …大都市と化した東京では、至る所に管理の目が光ります。それはかろうじて残った空き地も例外ではありませんでした。過密化で人があふれる東京で、無目的な土地、すなわち「空き地」の存在は許されません。すべての空き地は開発されなくてはならない。それが経済成長期の「正しさ」だったからです。

 日本不動産研究所の「市街地価格指数」によれば東京を含む都市部の地価上昇は急激で、1955年の地価を100とすると、1965年の地価はなんと1082にもなるといいます。1975年の地価は3163と、この時期は土地活用が盛んに進められ、子どものために遊び場として、空き地を遊ばせておく余裕などなかったのでしょう。

 話の冒頭で、「オタマジャクシみたいな怪獣」を描いて笑われていたムシバですが、彼の描いたオタマジャクシのような怪獣、ガヴァドンが実体化する彼の周囲には子どもたちが集い「やったなムシバ」「おめでとう」とみんなが躍起となり、落書き怪獣の強化を図ります。

 ところで、そんな子どもたちがすれ違うトラックの積荷には何本もの交通標識が…こうしている間にも、東京は刻一刻と都市化を進めていると言う象徴的表現です。

 強化されたガヴァドンは相変わらず寝ているだけです。何も破壊しないし、犠牲者も出ません。しかし「怪獣ガヴァドンは、ただ寝ているだけで我が国の経済生活をメチャクチャにぶち壊すということが判明」します。遊び場である空き地を、都市化の論理により奪われた子どもたちは、計らずして都市化への抵抗を果たしたことになります。

 いっぽう、(大人たちの代表としての)科学特捜隊やウルトラマンは公権力のとるべきルールに則って行動します。ですが、ウルトラマンは子どもたちの声を聞き、都市から怪獣は追放するものの、子どもたちから怪獣を奪わないという落としどころを見出します。都市の秩序を守るという大人の論理と、急速な都市化に抵抗する(ここでは子どもの)論理との間に立つネゴシエーターとしてウルトラマンは存在したのでした。

 かけがえのない、そして一度きりの少年時代を豊かな時間として過ごすために必要なものは、空き地にビルを建てることを急きたてる都市の論理ではなく、無目的な地に土管が並ぶ、そんな牧歌的な風景であるということを伝えるエピソードです。

 

⑥カッパによるまとめ

 当初のウルトラシリーズは優れた脚本家らの力と円谷プロの特撮技術が結集された傑作として当時、多くの少年達を魅了し、日本の高度経済成長期を語る上で欠かせない番組となっている。

 個人的にはここで紹介したウルトラQのカネゴンやウルトラマン第15話「恐怖の宇宙線」が最も印象的な作品として自分の記憶に深く刻まれているのだが、大人となった今、久しぶりに見返しても十分楽しめる凄みと面白さを感じる。

 そこには高度経済成長期における日本社会の矛盾に批判的な立場をとり、都市化や環境破壊、日米安保体制、差別や偏見の問題を怪獣達の物語に託して子供達に語りかけている、真摯で温かい大人たちの眼差しがあったことに改めて気付かされる。

 ウルトラシリーズに登場する宇宙人や怪獣達の多くは上原正三氏の証言の通り、ただの悪役ではない。ウルトラQのペギラはゴジラと同様に核実験による放射能汚染の産物、犠牲者である。一方的に敵を「鬼畜米英」として蔑み、人間の殺戮を正当化してきた大日本帝国の軍国主義とは一線を画す、いかにも民主主義と平和主義を掲げた戦後日本らしい「戦闘」ものこそがウルトラシリーズであった。

 だからこそ自分達とは異なる他人を「怪獣」や「宇宙人」として排除し、一方的に攻撃する自己中心的で差別的な人間の心の闇までを金城氏、上原氏等は描いているのである。

 こうした複眼的な視点でストーリーが展開している点は近年の「鬼滅の刃」とよく似た、マイノリティや敵役への温かい眼差しを感じる。鬼には鬼となってしまった悲しい、残念な過去があるのと同様、たまたま人類の脅威となっている宇宙人や怪獣達にも地球上に登場するまでのつらい、切ない経緯があったのだ。

 確かにウルトラマンらは地球人にとって有害となっている彼らを排除しなければならない責務を背負っているが、ケースによっては殺さないで宇宙に戻してあげることもあった。

 目の前の荒れ狂う怪獣に対してただ倒すのではなく、最適解を求めて煩悶しながら戦う人間的な存在こそが上原氏の考え出したウルトラシリーズのヒーローであった。単純な勧善懲悪に止まらない、複眼思考のもたらす人間味がおそらくこのシリーズの人気をコアな部分で長く支えてきたのだろう。そしてこのシリーズを生み出す上で大きな役割を果たした沖縄出身の金城氏と上原氏の思いを今後も忘れてはなるまい。

 

追記

 以上、ウルトラシリーズに関する記事はカッパが高校教師になりたての頃の出来事がきっかけでまとめることとなったものです。当時、文化委員会の顧問をしていた私は、ある日、文化委員会役員だった景山君からウルトラシリーズの魅力を熱弁されたことがありました。しかし熱弁をふるう彼に対してあまり満足のいくような熱意ある対応が出来なかった自分への不完全燃焼気味の思いが、なぜか自分の頭の中でいつまでもくすぶり続けたまま、あっという間に37年ほどの歳月が過ぎてしまいました。

 

 今回、この記事を投稿したことで自分としては何とか彼にボールを投げ返すことができたような気分になれました。書き終えた今、気分的には胸のつかえがおりたようで妙にスッキリとしています。

 既にもう50代の半ばに達しているであろう景山君に勝手ながらこの場を借りて感謝いたします。

 37年をかけてのキャッチボール、楽しかったです。あの時は間抜けな新米教師に声をかけてくださり、有難うございました。