§6.市原の郷土史90.養老神社と永井家(後編)
・謎、その7 「なぜここに朝廷の有力者の名が?」
こちらは石造物ではありませんが、養老神社の拝殿にかかる見事な神号額を取り上げます。左端、慶応3年(1867)3月15日という日付の側にある源有長(綾小路有長:1792~1873)という人物にご注目。幕末当時は著名な歌人・書家・公卿です。
朝廷ときわめて近しい有力人物がこの神号額に介在した可能性は大でしょう。これまた京都に出入りしていた山田橋の野城らか?しかもこの日付、奇しくもちょうど一年後は江戸城総攻撃予定日に当たります。
・謎、その8 「神明造りを採用した理由」
最後に養老神社の社殿を取り上げましょう。市内では比較的珍しい神明造なのです。神明造は伊勢神宮を代表格とする古式ゆかしい建築様式。本殿の両脇に屋根を支えるかのように立つ棟持ち柱が最大の特色。弥生時代の建築様式の流れを引くものです。ただし養老神社の社殿は明治年間の再建ですが・・・
伊勢神道を奉ずる、これも尊王攘夷派の動きでしょうか?お伊勢参りが盛んになり、尊王攘夷思想が全国に広がった江戸時代後期、各地で社殿の改築の際に伊勢神宮と同じ神明造りが採用されていきました。ただし市原では江戸時代までさかのぼれるこの様式の社殿を私は見た記憶がございません。
近隣で見られる神明造の社殿は千葉市村田町の神明神社。市原八幡高校の近く、村田川を渡ってすぐの所にございます。江戸末期に建造された総ケヤキ造りの立派な社殿です。ここは七里法華地帯にあたり、尊王攘夷思想になびいていた日蓮宗の寺院が多く、この神社の近くにかつて京都で尊王攘夷派の僧侶として知られた天羽南翁が私塾を開いた日蓮宗寺院泉福寺があります。天羽南翁は幕末、尊王攘夷派の志士を幕吏からかくまったというエピソードの持ち主。
・嶋穴社原地碑
嶋穴社原地碑:嘉永元年(1848)
二条城留守居役成島譲撰文、田辺修書
「二条城留守居役成島譲」とあります。譲は司直の子で当時、二条城の留守居役として京都にいたことが分かるのです。司直と永井家との関りに浅からぬものがあったことはすでに触れました。
とすれば永井家に残された千種有功卿の和歌、狩野栄岳の絵、養老神社への改称と源有長卿揮ごうの神号額、神殿内にあるとされる平田鉄胤揮ごうの額、やがてこの地区一帯が「千種」村と命名された事…多くの謎が孕む伏線が一気に回収されてくる予感がいたします。
もう少し傍証となるものを挙げましょう。
・嶋穴神社の歌碑と勅願所碑
いかがでしょう。松ヶ島の近く、風の神を祀る嶋穴神社には黒船来航の前後に幕府関係者では松平定信(老中退任後は白河藩主として江戸湾防備体制の確立に努めていた)、筒井政憲(江戸湾防備体制の一環として湾岸の村々を巡検している)らがしきりに参拝していました。朝廷からも再三にわたり勅願所として国土安穏の祈願を受けています。例の千種有功も弘化4年(1847)、ここに歌を奉納していました。
こうした慌ただしい動きは島野村に接する松ヶ島にも大きな刺激を与えていたに違いありません。筒井は松ヶ島にも当然、立ち寄っています。
幕府の権威が動揺し、仏教を批判する国学が台頭するなかで尊王攘夷運動は市原の場合、まず神官、すなわち村役人層へ浸透していきました。山田橋の野城氏はそうした動きの先頭に立っていて、松ヶ島ともかかわっています。加えて成島司直の跡取り息子(結局、若死にしてしまいますが)譲が弘化年間には京都にいて、もしかしたら永井家と京都のお公家さんたちとの仲介をしてくれていたのでは…
養老神社や永井家の所蔵品はそうした幕末の動き、京都での緊迫した情勢を雄弁に物語っているのでしょう。
さて養老神社の謎8つが出そろいました。いかがでしたか?
身近で些細なところからでも私たちをワクワクさせてくれる謎、数々のミステリーが、ほんのわずかな手掛かりと想像力、妄想力を働かせるだけでけっこう芋づる式に解明(?)できた気にさせてくれます。
旧家に伝わる品々、神社に残された石造物は私たちに様々な謎を問いかけているのです。そして様々な妄想をかきたててもくれます。たとえ根拠レスで身勝手な妄想であっても偶然、新たなヒラメキを私たちにもたらすかもしれません。
皆さんもぜひかつての長寿番組「世界不思議発見」の軽いノリで、謎探しと謎解きの散策をメインのご馳走にしながら、健康増進を兼ねてご近所の寺社巡りをしてみたらいかがでしょう。