§6.市原の郷土史89.養老神社と永井家(中編)
・謎、その5 「神社名変更の謎」
かつての神社名「山王大権現」の「大権現」もまた本地垂迹説に基づく称号です。「権現」とは本来、仏であった存在が仮に神の姿を取って現れた…という意味であると言います。
御存知の方も多いと思いますが、かの徳川家康は亡くなってから「東照大権現」として日光に祀られました。これは本地垂迹説に立つ天台宗の高僧天海らの力が強力に働いたからでしょう。
一方、豊臣秀吉の方は「豊国大明神」として京都の豊国神社に祀られていました。「大明神」はどちらかというと神道優位の反本地垂迹説に近い称号。ちなみに日蓮宗の勢力が強いところ、たとえば千葉市と隣接する七里法華地帯では権現よりも明神の称号が用いられることが多いとされます。面白い事に日蓮宗は仏教の一宗派でありながら特定の神様をとても重視していて、確かに「妙正大明神」と刻まれた、疱瘡神の祠と同じ役割を持つ祠が七里法華地帯中心に見られるのです。
やはり神道優位の反本地垂迹説をとるのが尊王攘夷論。これは日本を神聖なる神の国として捉え、外国由来の教え=仏教や儒教などを「漢意(からごころ)」として排撃する排他的思想ですから、当然、神道優位の立場です。
妄想するに過激化した平田篤胤流の国学を奉じていた野城らの策動が神社名の変更に結びついたのではないでしょうか?良右衛門の養子となった野城廣助らが京都洛北の等持院から足利将軍三代の木像の首を持ち出して三条河原に晒す有名な事件を引き起こしたのは神社名改称の翌年、文久3年(1863)にあたります。
尊王攘夷運動が高揚し、水戸浪士や長州藩、薩摩藩、土佐藩の過激派連中による天誅事件、テロ計画が京都などを騒がしていた動乱期の事。血湧き肉躍る幕末、京都と市原とのこうしたつながりに胸がときめきます。
ちなみに出津の牛頭天王社(ごずてんのうしゃ:八坂神社・祇園社系)や青柳の牛頭天王社(明治3年=1870に改称)の場合、名前の変更はいずれも明治に入ってからで二社とも「八雲神社」に変更されています。
明治初年の廃仏毀釈運動の動きの中で仏教と習合してきた多くの神社が寺院と切り離されたり、名前の変更を余儀なくされました。1868年、新政府から出された一連の通達によって神道の国教化が目指される一方で仏教を排撃する運動が急速に勢いを増していたのです。多くの寺院が破却され、没落を余儀なくされました。何と全国で数万の寺院がたちまちのうちに消えていったといいます。新政府の中心勢力を担った薩摩では1600以上の寺院があっという間に消滅したとのこと。寺請制度によってながらく幕府や藩から優遇されてきた寺院に猛烈な逆風が襲ったのが明治維新と呼ばれる時代のもう一つの側面でした。
市原でも八幡宿駅付近にあり、広大な寺域を誇っていた真言宗寺院霊応寺がこのとき消滅しました。その流れの中で出津と青柳の牛頭天王社は「八雲神社」に改称されているのです。
が、松ヶ島ではそれらの動きが生ずる数年前(1862年)に改称している…加えてなぜ「養老神社」なのか。なお養老神社の本社は岐阜県養老郡養老町にありますが、主な祭神は菊理媛命(ククリヒメノミコト)です。松ヶ島の場合、不思議なことに神社名だけ変え、主祭神はオオヤマクイノミコト、すなわち山王大権現の時代のまま、変更されておりません。
実は養老神社、千葉県の宗教法人名簿で見る限り、市内ではここ松ヶ島しか祀られていないのでいっそう不思議なのです。それにそもそも祭神を変えずに山王大権現社を改名するならば「日吉神社」か「日枝神社」と改名するのが当時の相場でした。
改名の有力な根拠として考えられるのが、すぐ近くを流れる養老川。川の名前が新しい神社名を養老神社とさせてしまったのかもしれません。
では誰がなぜ、このタイミングで養老という神社名を選んだのか?改名の主体を突き止めなければならないでしょう。ということは当時の松ヶ島村の名主が誰であったのか…これまでも取り上げてきた永井家こそ、カギを握っているようです。
永井家は当時、本家の当主が若死にするなどが重なり、急速に力を失ってしまいました。かわりに分家の養右衛門家が台頭し、19世紀中ごろに名主となっています。
延享4年(1747)、養老川が川欠けし、天明8年(1788)までの40年余り、養老川は出津八雲神社のすぐ傍を流れ、松ヶ島村を抜けて青柳との境あたり字塩場で海にそそぐことになりました。
養右衛門家が分家したのは1770年代のことと思われ、屋敷は村の中心にあった本家とは異なり、当時の養老川と海に近く、完全に村はずれでした。
わざわざ村はずれに隠居分家した宇右衛門の思惑はおそらく、上流の川船問屋が青柳村とのつながりを強めていくことに危機感を覚え、河口で営まれる水運に自ら関与することにあったのかもしれません。実際、青柳村海川船組合の若宮丸と上流の牛久泊船組合とが合同で牛久の丸山神社に手水鉢(下写真)を奉納したのは安永9年(1780)のことでした。
すでに触れたように青柳村と松ヶ島村は浜辺の利用権をめぐって熾烈な争いを繰り返してきました。養老川を運航する川船の河岸としても機能し始めた青柳村に対して松ヶ島としてはメラメラと対抗心を燃やさないわけにはいかなかったはずです。
養右衛門家の裏手の田畑には小字で、不自然なほどに細長い区画の「大澪」と呼ばれた土地がありました。おそらく養右衛門家は屋敷のすぐそばに海に出るための水路=澪を設けていたと考えられます。
明治初年に作成された絵図。コピーしたうえ、カッパが色付けしている。赤線は道路、深緑の線で囲まれた区画が養右衛門家の家敷地、水色のゾーンが字「大澪」である。大澪に伸びている屋敷地の不自然な出っ張りといい、大澪の溝状の区画といい、水色のゾーンが海に達していた澪の可能性は高い。
残念ながら永井家に伝わる江戸期の古文書はわずかしか残されておらず、きちんとした裏付けを得ることはできませんので、ここまで傍証をもとに無理やり、推理を重ねてみた次第です。
さて養右衛門家は当初から養老川への関心が高かった…とすれば、養右衛門家の当主が新たな神社の名称を川の名から「養老神社」と発想する可能性は決して低くは無いでしょう。
永井家には千種有功(ちぐさありこと:1796~1854)卿の和歌が書かれた懐紙が残されています。「手折りきて 長閑にかざせ 春秋の 花も若葉も 御代のたまもの」。実にお公家さんらしい雅な歌でしょう。
嶋穴神社には弘化4年(1847)に寄せられた千種有功の歌碑(碑自体は明治時代に建てられたもの)があるので、ここ市原でも彼は書や和歌の世界では相当有名な公卿だったと思われます。これも野城らの京都での運動と無関係ではないのかもしれません。実は永井家には代々禁裏御用絵師を務めてきた京狩野派の六代目、幕末に活躍した狩野縫殿助栄岳(かのうぬいのすけえいがく:1790~1867)の絵も残されております。残念ながら虫食いが酷くて展示には耐えられませんが、落款などから見てこち
らは本物と思われます。これらの品がどういう経緯で永井家にもたらされたのか、実に興味深いのです。
漢文に詳しい辻井義輝先生の解読によって永井家墓地内にある吉野常廣墓偈(天保7年=1836)、及び岸先生寿蔵碑(嘉永6年=1853)から19世紀前半、永井家(当時、吉野姓)の先祖に江戸で医者(松本養民)となって活躍した常廣や学者として活躍した岸貞吉(岸家に養子入り「一陽」と号す)がいたことが判明しております。常廣や貞吉らは本家の「七郎左衛門」家出身。
このころ、分家の「養右衛門」家当主であった順吉(後の養右衛門)は弘化4年(1847)、質屋を創業し、持ち高は20石であったらしく(「市原市史」中巻)、村の要職(榊原氏領分の名主:天明6=1786、松ヶ島も二給地となり、榊原氏の領地と代官地とに二分されました)を務めていたに違いありません。この時期に永井家と江戸との交流が相当あったことが推察できます。
永井家には成島柳北の祖父司直(もとなお)の揮毫した歌碑(嘉永5年=1856)や「大江庵」と書かれた司直の書、中野、菊間、海保などの領主であった旗本筒井政憲(町奉行時代は遠山の金さんの上司、幕末、伊豆の下田でプチャーチンとの応対にもあたった。能吏としてだけでなく能書家としても有名)の書(嘉永5年=1852)も残されています。これらはおそらく本家に伝わったものでしょう。
なお質屋を創業した順吉は安政2年(1855)にも質屋を創業しています。ということは一旦、廃業に追い込まれたのでしょう。実際、質屋再開時の彼の持ち高は11石8斗で最初の創業時に比べて8石余りも減っています。
最初に質屋を創業した弘化4年(1847)の翌年(1848年=弘化5年及び嘉永元年)、養老神社では鳥居、石灯籠、狛犬などを一挙に奉納していて、当時、永井家は榊原領に属する養老神社とは村役人として深く関わっていたことが分かっています。ですから養老神社の石造物奉納時に永井家が私財を投じていた可能性が考えられなくはないのです。
※「岸氏寿蔵碑」:題額は梅澤典(江戸下谷の著名な書家:1797~1859)で文は深川元儁(もととし:1810~1856)。深川は平田篤胤に国学を学び、蘭学にも造詣があった。若くして亡くなった貞吉の交友の広さ、学者としての資質の高さが忍ばれる。分家の順吉も貞吉を通じて他の江戸の著名人(成島司直、筒井政憲ら)とコンタクトをとったのかもしれない。
おそらく当時、経済的にはかなり行き詰っていた江戸の文化人や京都のお公家や絵師らと地方の富裕層との間を橋渡しする人々がいたに違い有りません。実際、狩野栄岳も地方の富裕層、名主達の注文に応じて絵を描く事が多かったようです。だとすれば江戸や京都の文化人と地方の富裕層との橋渡し役の一画に野城のような上洛を企む地方出身の尊攘派の志士達が食い込んでいた可能性があるのではないのでしょうか?彼らが地方に京都の雅な書画をもたらし、売り上げの一部を自分たちの活動資金としていた可能性は有りそうです。
なお野城家は慶応4年(1868)、旧姓の「若菜」に復し、現在に至ります。その直系の子孫がかつて、同じ勤務校の社会科にいらしてビックリ。ある日、ふざけ半分に「若菜先生、もしかすると足利将軍木首事件の野城廣助の子孫?」と振ってみたら驚いた顔でこちらを見た先生、「じつは子孫です」との予期せぬ辺答で私もビックリ。ご本人は今、ご退職なさって柏方面に引っ越してしまいました。先生に良右衛門のことを訊いたら「激しやすく、時には刀を抜いて相手を威嚇したという言い伝えが残っている」とのこと。
とすれば謎の1「なぜ鳥居の柱が横たわっているのか?」に関しても野城らが一旦できあがった鳥居を気にくわなく思い、石工の根本甚太郎に刀をちらつかせて作り直させた場面までついつい思い浮かべてしまいます。実は今建っている鳥居と横たわっている柱とは微妙に書体が違っているのです。
おっと妄想が余りにも暴走気味になってしまったようです。憶測はここまでといたしましょう。
養老神社の富士塚上の碑は市内で初めて根府川石(ねぶかわいし、ねぶかいしとも)が使用された点でも注目されます。根府川石は小田原付近で採れる硬い安山岩で表面がツルツルしており、板状摂理のため、薄くはがれやすい性質を持っているとのこと。ですから庭の敷石や文字を沢山刻む石碑にうってつけの石材なのです。
市内の江戸時代の石造物のほとんどが同じ安山岩でも小松石ですから、根府川石は市原の地での突然の登場ということになります。そこで・・・
・謎、その6 「なぜ根府川石を用いた?」
根府川石の起用は富士講の一つ「山包(やまつつみ)講」が絡んでいるかもしれません。実は松ヶ島涼風庵の富士講先達の墓石(明治初年)も根府川石。
青柳や今津朝山、姉崎が「一山(いちやま)講」という名の富士講なのですが、松ヶ島の場合、富士講のグループが南五井方面と同じで市原で最大派閥の「山包講」。そういう点でも千種地区での松ヶ島の独自路線がうかがえます。なお北五井は「山水講」ですので、同じ五井でありながら講のグループが違うことの方もこれはこれでけっこう興味深いのですが・・・
どうやら松ヶ島は千種地区ではかなりの異分子的集落であったと言えましょう。実際、松ヶ島周辺の千種地区では圧倒的な勢力を誇る真言宗ですが、松ヶ島だけは曹洞宗の飯沼龍昌寺の檀家ばかり。これは松ヶ島が飯沼の枝村的存在であったことを物語る現象の一つです。他には浄土宗寺院だった涼風庵(かつては八幡無量寺住職の隠居寺、現在は廃寺となり集会所とされている)があるのみ。市内最大多数派の真言宗寺院が一つも無いというのも海浜部では松ヶ島だけであり、この集落の大きな個性といえましょう。
石造物散策に欠かせない基本資料の一つ「稿本五井町歴史年表」(昭和38年)によりますと市原における根府川石の利用は松ヶ島養老神社の「仙元大菩薩」碑(天保2年=1831)以降の事とされています。二例目は玉前稲荷神社富士塚の「仙元大菩薩」碑(安政5年=1858)で「山包講」のもの、三例目も松ヶ島の富士講先達の墓石であることを考えるとどうやら根府川石の市原進出に山包講(市原での最大の拠点は五井大宮神社)が一役買っていたことが伺えます。
これらの謎を総合的に見ますと何がしかの急進的な、周囲の村々とは一線を画して独自路線をとろうとする動きが松ヶ島の中枢部にしばらく以前から存在していたと考えられなくもないのです。