§6.市原の郷土史88.養老神社と永井家(前編)
松ヶ島の養老神社は私たちの想像力、空想力を大いに刺激してくれる、実に謎多き市原市有数のミステリーゾーンです。以下、養老神社に関わる七不思議ならぬ八不思議をご紹介致しましょう。
・謎、その1 「横たえられた鳥居の柱」
鳥居(弘化5年=1848)を造った石工は名工として知られた五井川岸の根本甚太郎です。この鳥居をくぐりますと境内の右側にこっそりと目立たない様子でなぜか同じ年代の鳥居の柱部分が二本横たえられています。
けっこう値の張る鳥居の柱がなぜ横倒しになってここに残されているのでしょう?不思議ですよね?しかも今、建っている鳥居と同じ年号のもの・・・老朽化したので新しい鳥居と交換され、古いほうの柱がこうして残されている・・・という、よくありがちなパターンではなさそうです。
この神社、入口付近からいきなり妄想に火がついてしまうミステリアスなポイントなのです。ちなみにカッパが確認した市内の江戸時代の鳥居は柱のみ、あるいは台石のみを含めてもわずか30基。
市内最古は柱部分のみですが、これまた何と近くの青柳にございます。青柳若宮八幡の正徳5年(1715)、完品では金剛地熊野神社の享保12年(1727)。
鳥居は見てのとおり元来が地震などの際に倒壊しやすい構造なので江戸期のものはとても稀少価値があります。青柳若宮八幡はおそらく老朽化して新しい鳥居にリニューアルする際、古い鳥居も記念に残しておこうという氏子たちの意識が働いたのでしょう。年代が刻まれた側の柱が一本、本来の半分ほどの高さで立っています。後世の者にとっては実にありがたい気配りです。
古い鳥居の柱が横たわっているケースは養老神社以外では嶋穴神社に見ることが出来ます(嶋穴神社のものは肝心の部分が地面側を向いていて年代が判読出来ませんでした)。しかし同じ年代の鳥居なのに片方が柱二本だけ横倒し、というケースはこの養老神社以外では見かけた事がございません。どうみてもこれは不自然であり、滅多に見られないレアケースなのです。
他の状況からみてこの鳥居は末社の浅間神社のものであったかもしれません。安政の大地震(安政2年=1855)や「大正の大津波」と呼ばれた大正6年(1917)の高潮、あるいは関東大震災(1923)の際などで倒壊し、その後に柱一本を残して撤去された可能性は十分考えられるでしょうが、残念ながらその確証はないのです。
この柱の経緯、ご存じの方、いらっしゃいましたら是非、ご教示のほどお願いいたします。
・謎、その2 「なぜ1848年に鳥居、石灯籠、狛犬が相次いで造られた?」
石灯籠もこれまた1848年で石工も同じく根本甚太郎。石灯籠は寺社ともに奉納されるため市内に1000基近くは存在しますが、江戸時代のものとなると思ったほど多くはありません。カッパが確認できているのはたったの82件ですから、今見られる各地の石灯籠のほとんどは明治以降のもの。これも鳥居と同様に地震などで倒壊しやすいため、それほど長くは後世に伝わらないのでしょう。
さてここで注目されるのは高価な鳥居二基と石灯籠がこの神社では同時に造られていること。富士塚前の狛犬も1848年のもの。4件合わせればおそらく総額で少なくとも当時100両くらいは支払ったはずです。
値段がハッキリ分かっている高滝神社の鳥居はここの鳥居の百年ほど前に大坂に発注された御影石の大きなもので、60両という金額。これを参考に考えましょう。
100年ほどの間の物価上昇を考慮すれば御影石より値段の安い小松石(安山岩)で高滝神社のものと比べてかなり小ぶりという要素があったとしても石灯籠と二基の鳥居と狛犬がコミであるならば最低でも100両ぐらいはしただろうと推察できるでしょうか。今で言えば一千万円近くというお値段。
柱だけが残されている点も謎なのですが、どうやらこの時期、松ヶ島の村人たちの間に多少の出費を覚悟してでも神社の石造物造営に駆り立てる、何らかの強烈な力が働いていたと思われます。
これは先走るようですが、外国船の来航が相次いだ江戸時代末期における尊王攘夷思想の浸透、平田派国学の普及が背景にプンプン匂って参ります。風雲急を告げる幕末、国難到来の中で神風を期待して神社に石造物を奉納する動きは各地に見られました。まして黒船が実際に入り込んできた江戸湾に面したこの地でそうした動きがあったとしても不思議ではありません。
この二年前、1846年にアメリカのビッドル提督が浦賀に来航しています。既に幕府は江戸湾岸の防備体制の強化を進めておりました。この周辺では五井の大宮神社の鳥居がペリー来航の年、1853年に造営され、日米修好通商条約締結の1858年には川岸富貴稲荷神社の鳥居が造営されております。
・謎、その3 「なぜ、海浜部なのに廿三夜塔?」
廿三夜塔(1828:文字塔)が拝殿の左、大きな銀杏の御神木の傍らにまつられています。廿三夜塔は主尊の普賢菩薩を祀るケースが多いのですが、こちらは仏像を彫り出してはおらず、文字のみの文字塔。海浜部ではそもそも廿三夜塔自体が極めて珍しく、多くは内陸部に祀られております。カッパが確認できている廿三夜塔は合計で13基、内、海浜部は3基に過ぎません。
月待ち講は海浜部の場合、圧倒的に如意輪観音を主尊とする十九夜講なのです。これは私が確認した中で希少な海浜部の廿三夜塔の一つといえます。
松ヶ島村の草分け百姓の一部は飯沼村出身者(国吉氏等)であり、当初、松ヶ島は飯沼の枝村、分村的存在。しかも海岸部が狭かったために松ヶ島村村民は始めのうちはあまり海に出ることが無く、ほとんど農業で暮らしていました。従って同じ千種地区であっても早くから海の稼ぎが大きかった青柳やそのお隣の今津朝山とは様々な点で松ヶ島は趣が異なっているように感じます。これもそうした差異の表れかもしれません。
ただしさほど遠くない五井の大宮神社にも廿三夜塔が2基あるので、ことさらに珍しいというほどではないのですが…
「廿三夜」「十九夜」などの月待ち講についてここで簡単に説明いたします。かつて十五夜の満月を過ぎて月が欠け始める日の夜、特定の家やお堂に集まって月の出を待つ間にお経をあげ、普段よりも夜遅くまで過ごす「月待ち講」と呼ばれる、今で言うところの「女子会」のような集まりがございました。
十九夜は1月や2月の場合、月の出が夜9時以降になるので女たちは少しずつ食べ物や小銭を持ち寄っては仏事を口実に遅くまで女性だけの歓談を楽しみつつ夫や舅への恨みを発散するなど、講は女性たちが日頃ため込んだストレスのはけ口ともなっていたといいます。
特に出産を控えた、あるいは子育て、夫婦関係などに苦戦する若い女性は年配者からのアドバイスをもらえる絶好のチャンス。そうした機能の面では子安講とほぼ重なっています。月待講は関東では非常に盛んでその信仰の証である十九夜塔や廿三夜塔などの月待ち塔が市内にも数多く存在します。
対して大山講(相模雨降り神社、石尊講とも)、八日講(出羽三山)などはどちらかといえば男の講なのです。ちなみに徹夜して日の出を待つ日待ち講の一つの庚申講や富士信仰にまつわる富士講は一応男中心と見られますが、実際には女性が参加するケースが市内では少なからず見られます。
・謎、その4 「富士塚の碑の表と裏が少し変」
富士塚上に1831年の「浅間神社」と表に刻まれた碑が建てられております。実はこの碑、裏側を見ますと「仙元大菩薩」と大きく刻まれております。
「仙元」と「浅間」はともに音が同じで音読みでは「せんげん」と読みます。音読みの「せんげん」は活火山を意味する訓読みの「あさま」に「浅間」の字をあてたことから「せんげん」と音読みされてさらに別の字「仙元」という字もあてられるようになったようです。つまりは霊力盛んな活火山を崇拝する山岳信仰を源流とするのが富士講なのです。
1707年の宝永の大噴火で江戸の人々にもその威力を示した霊峰富士。折からの西風で江戸の空は昼なお暗く、一寸ほど、灰が積もったといいます。お山が噴煙を上げる様はここからでもしっかり見えていたはず。富士山への信仰はその後、東国で江戸を中心に爆発的に流行しました。葛飾北斎の最も有名な傑作「冨嶽三十六景」は江戸における富士講の盛況ぶりが背景にあったと言われます。
写真の方、よく見て頂きたいのですが、年代と碑面の形状から見て碑の表側は非常に不自然。第一、裏の方が平面的でデコボコが少なく、どちらかといえば裏を表側にした方が良いように見えませんか?
実は富士塚の石造物で「浅間神社」という呼称は明治以降に頻出しますが、江戸時代には珍しいのです。そもそも一つの石碑の裏面と表面で神の呼び名、称号が異なるケースはあまり例を見ません。これまた不思議の極みなのです。
※佐是の浅間神社にまったく同じパターンの石碑あり
松ヶ島養老神社の碑と同様、面は「浅間大神」、裏は「仙元大菩薩」とある。石の形状からこれも幕末から明治維新期に裏返されたのかもしれない。嘉永7年(1854)、山包講により建てられている。
ところで裏の大菩薩という神の称号は本地垂迹(ほんちすいじゃく)説という考えに依拠した称号と考えられます。神様は仏が日本に現れた際に仮の姿として神の姿をとっただけで、その本体はあくまで仏であるとする仏教優位の思想が平安時代から強まります。これを本地垂迹説と申します。
これに対して伊勢神道の側から室町時代に入ると猛烈な反発が起こり、次第に神道優位の思想が神官や国学者の間で強まってくるのです。妄想するに、この反本地垂迹説の立場をとる尊王攘夷派が「大菩薩」という仏教くさい称号を嫌って無理やり碑を裏返し、その時に「浅間神社」という文字を新たに刻んだのではないか・・・
さらに妄想すれば過激な尊王攘夷派であった山田橋の名主野城良右衛門(国学者の平田鉄胤門下。養子に廣助らを迎え、廣助も文久2年(1862)に自分と同じ平田鉄胤の門下生に入れている)らの動きとどこかで関わるかもしれません。
実は文久2年(1862)にこの神社、神社名を山王大権現社から現在の養老神社に変更しているのです。山王大権現社は日吉神社系・天台宗系の神社です。
天台宗寺院は現在、市原では内陸部に多いのですが、天台宗の信徒がかつて松ヶ島にいた可能性も考えられます。…天台宗と内陸部を結びつけますと内陸部に多い廿三夜塔がここにポツンと祀られていることと山王大権現社という神社名とが絶妙につながってくるという印象があるのです。
そもそも松ヶ島は飯沼の農民に加えて三河、美濃、出羽出身者が16世紀後半に開墾してつくりあげた村ですから、そのメンバーはもともとかなりの混成旅団。宗教的にも様々な要素が当初は混じり合っていたはずですから、かつて山王大権現社が存在していたとしても不思議ではありません。
むしろ今もって不思議なのは神社名変更のタイミングと新しい名前の選択基準。なぜこのタイミングで新しい名称がつけられ、しかも「養老神社」だったのか?
他に名称が変えられたケースはありますが(出津の牛頭天王社が八雲神社へ…)、いずれもそれは明治になってからの、廃仏毀釈運動の下でのことです。
この謎、なかなかそそられます。
そこで・・・次回、この件をじっくりと検討していきましょう。