§6.市原の郷土史その84.市原市海浜部60年の歩み
・五井小学校校歌の由来より…白砂に黒松林 ウルトラマリン 海は輝く…
以下、「市原市中央図書館たより」からカッパが加筆抜粋。
…五井小学校の校歌は、同校の卒業生であり、小説『叛乱』で第28 回直木賞(昭和27年下半期)を受賞した作家・立野信之が、母校に寄贈したものです。『五井小学校創立百周年記念誌』の学校沿革年表では、昭和 33年(1958)に「校歌制定(立野信之氏寄贈)」と記載されてい ます。
作詞は、教科書にも作品が載るような詩人・草野心平です。では、なぜ草野が作詞したのでしょうか。 千葉県立東部図書館にある『草野心平日記 第1巻』には、昭和33年3月15日に「立野信之君から五井小学校々歌の依頼」と記載。3月27日には「五井小学校の校歌を考へる」「五井小学校々歌つくる。渡辺浦人君に作曲依頼。」、5月1日には「立野君から五井の校歌の二万円もらふ。」とあります…
校歌が発表された1958年にはまだ海辺の埋め立て工事が始まっておらず、松林が続く美しい砂浜の光景が広がっていたのだろう。今は残念ながら校歌に歌われた白砂清松の景色を見ることはできない。そのためもあってか、児童たちには歌詞のイメージがイマイチ、ピンとこないまま、今日まで漫然と歌い継がれてきているようだ。
まさに往時茫々…
・市原市のホームページより:若干、カッパが補足、修正を加えている
市原市の概況
本市は都心から50㎞圏内にあり、千葉 県のほぼ中央に位置し、北は千葉市、東は 茂原市、長柄町、長南町、南は大多喜町、 君津市、西は木更津市、袖ケ浦市の5市3 町と隣接している。
市の面積は368.16k㎡で、首都圏では有数 の市域を有している。 市の中央部を養老川が縦断して東京湾に 注ぎ、北部から中部にかけては平坦地が多 く、中部で緩やかな丘陵となって、南部は 標高200mから300mの山間地帯で、地質は 概ね第4紀層に属している。
大化の改新後には、上総国の国府がこの 地におかれ、奈良時代には現在の市庁舎が 建つ国分寺台に、上総国分寺と上総国分尼 寺が建立されるなど、市原市はかつて上総国の政治の中心地であった。 大正5年に作成された市原郡誌によれば、郡内11,856戸の84%にあたる10,024戸が 農業に従事していたと記されている。また、東京湾に面した村では海の幸を求める漁業や製塩も行われており、明治時代後半から東京湾の浅瀬を利用したのりの養殖が盛んに 行われ、昭和の前半までは、典型的な第1次産業のまちであった。
この頃、市の中央を縦断する養老川では、内陸部で生産された米や薪などを河 口まで運搬し、帰りに海産物や衣類などを運ぶ川舟による輸送が盛んに行われて おり、大正14年3月に開通した小湊鉄道とともに、経済の重要な流通経路となっていた。
さらに、東京湾を横断して、江戸(東 京)へ農産物、海産物、薪等を輸送する 手段として「五大力船」と呼ばれた帆かけ舟が江戸時代以降活躍し、戦後まもなくまでまちの経済を支えてきた時代もあった。
昭和30年代に入り、臨海部の埋め立てが始まると、電力・石油精製・石油化学 の大手企業が進出して京葉コンビナート地帯が形成され、日本の高度成長とともに、農業と漁業のまちは、第2次産業、第3次産業 を中心とするまちへと大きな変貌を遂げてきた。
その一方で、千葉県内第9位の経営耕地面積を有し、農業産出額は県内第12位であり、水稲のほかにダイコン、スイカ、ジャガイモ、トマトなどの野菜栽培、梨、イチジクなどの果樹栽培も盛んに行われている。 また、南部の丘陵や山間地帯には多くの自然が残され、高滝ダム周辺から養老渓谷にかけては観光地となっており、年間を通して観光客が訪れているほか、ゆるやかな丘陵を利用し たゴルフ場が多いのも特徴の一つとなっている。
※ゴルフ場の数は33か所で市町村の中では日本一多い。市の面積の11%ほどをゴルフ場が占めており、
市の観光客の半数近く、年間160万人がゴルフ場を利用しているという。…カッパ補足
※工業製品の出荷額と面積の広さでは県内1位…カッパ補足
市原の沿革
明治4年の廃藩置県によって、鶴牧、鶴舞、菊間の各藩がそれぞれ県になり、後に木更津県の一部となる。明治6年には市原郡として組み込まれ、明治22年の町村制の施行により、 市原郡はほぼ現在の大字にあたる172町村を合併して21町村となり、戦後、全国的な市町村 合併が進むなか、市原郡は、市原町、五井町、姉崎町、三和町、南総町、市津村、加茂村の5町2村となった。
その後、昭和34年から始まる臨海部のコンビナートの操業が、さらなる合併推進の大きな背景となり、昭和38年5月に市原町、五井町、姉崎町、三和町、市津町の5町が合併して、 市として県下19番目となる市原市が誕生した。
さらに、昭和42年10月には、南部の南総町と加茂村の1町1村を加えて、1郡1市とす る現在の市原市となり、現在の人口は271,159 人、129,203 世帯の首都圏有数の広域都市となっている。( 令和4年4月1日現在)
・少子高齢化の南北格差と外国人の増大
海岸部の埋め立ては昭和32年(1957)から。昭和38年(1963)に五井、市原、姉崎、市津、三和の5町が合併して市原市が誕生。昭和42年(1967)には南総町、加茂村を合併して今日の姿となった。
人口は昭和35年(1960)3月段階で98026人だったのが、昭和51年(1976)9月段階で20万人を突破し、平成15年10月の281173人あたりがピークであった。
以後、漸減して平成27年10月段階で280030人、令和5年9月段階で268943人とこの10年近くの間に1万人以上減少。
地区別に見ると昭和48年(1973)の10月で五井地区(八幡を含む)が39514人だったのに対し、南部の南総は17081人、加茂は10100人に過ぎず、臨海部の工場地帯を抱える市北部への人口集中が既に見られた。また辰巳台団地の造成が進み、17510人と南総地区を上回る人口を抱えた。
平成時代の後半には特に市の南部で高齢化と人口減少が顕著になる。令和4年段階で加茂の老年人口(65歳以上)比率は54.0%と高率(この10年間で10%も上昇)なのに対して年少人口(15歳未満)は4.0%に過ぎず、少子高齢化のスピードが加速していることが分かる。
なお令和4年段階で、五井の人口は86465人で50年程前と比べて倍以上に増えており、人口比率は年少人口が11.1%、老年人口は25.7%となっていて、加茂地区とは好対照をなしている。ただ市北部といえども工場の進出に伴う団地群の造成で高度成長期、一気に増えてきた人口はこのところ頭打ちとなり、辰巳台などは約6000人減の11011人(令和4年)である。
近年目立ってきたのは外国人の増加。昭和56年(1981)には675人に過ぎなかった外国人が平成24年には5102人と8倍近くも増えている。令和4年には6072人に達したが、コロナ禍によるのか、ここ2、3年は停滞気味である。内、フィリピン人が1840人と最も多く、次に多いのは中国人の896人、韓国朝鮮人の690人、ブラジル人が392人と続く。
・八幡町大観(戦後まもなくの絵図で八幡公民館に展示)
単線の房総西線の時代で蒸気機関車が走っている。バスはボンネットバスで海岸には遠浅の海が広がっており、海苔やアサリなどが重要な収入源だった。夏は海水浴や簾立てなどの客で賑わったという。船溜まりや澪、佃煮工場なども描かれていて実に興味深い。
房総西線(現在の内房線)、五所付近を五井に向かって走る蒸気機関車。
飯香岡八幡と八幡宿駅付近をボンネットバスが走る。南総学校の校舎が八幡宮の左側に残っている。左上、グランドのすぐ近く、無量寺の裏手まで船が進入できる澪が迫っていた。
・埋め立て前の風景
多くの写真は「写真アルバム 市原市の昭和」(いき出版 2013)及び岩崎公民館所蔵写真(故渡辺善雄氏、故時田隆氏寄贈)からカッパが選んでいる。
ちなみに市原浦の名物であった海苔の養殖は意外にも歴史が浅く、明治33年に富津青堀の渡邊忠次氏による指導のもと青柳村で着手された。本来、延宝年間(1670年代)に江戸前で始まった海苔養殖は浅草海苔商人だった近江屋甚兵衛が房総の地に文政年間(1820年代)にもたらしたものである。
ただこのとき五井村は貝などの海産物が採れなくなるのでは…という懸念から近江屋の申し出を断り、申し出を受け容れた小糸川河口の人見村(現在君津市)で房総最初の養殖が始まった。次第に君津、富津、袖ヶ浦で発達、普及した海苔養殖は江戸湾沿岸の村々に貴重な現金収入をもたらし、明治になってようやく市原にも普及するようになった。
市原では青柳に続いて五井村が1909年、君塚村と今津朝山村が1912年、八幡五所村が1914年、松ヶ島村が1915年、椎津村が1925年、姉崎が1926年と相次いで海苔の養殖が普及。特に松ヶ島の漁業組合長だった斎藤久雄は養殖の技術改良に専心し、1950年、全国水産功労者として大日本水産会の表彰を受けている(松ヶ島養老神社境内に「斎藤海苔翁之碑」が1955年に建てられた)。
こうした努力もあって1947年には千葉県の海苔生産が全国一位となり、昭和30年代まで八幡宿から姉崎にかけては11月上旬になるとあちらこちらで海苔を干す光景が見られた。しかし京葉工業地帯の造成により、昭和37年(1962)、松ヶ島を最後に市原の海苔養殖の歴史は幕を閉じることになったのである。
※昭和28年には船橋市から五井町にかけての漁業組合の代表者らが千葉市の水産会館に集まって県の京
葉工業地帯造成と海岸の埋め立て計画に反対する方針を固めていたが、県などの圧力と説得によって
補償金を受け取って漁業権を放棄する漁協組合が続出し、昭和30年から五井海岸の埋め立ても始まっ
ていた。昭和32年から33年にかけて君塚、八幡、五所、五井の各漁協と県との間で漁業補償が妥結
し、昭和34年には旭硝子、36年には古河電工、富士重機、碑の建てられた37年には三井造船、東電
五井火力、昭和電工、38年には丸善石油、40年に不二サッシ等、企業の進出が相次いでいる。
・市原の高度経済成長と景観の変貌―埋め立てと団地造成―
市原の景観が急激に変貌を遂げ始めた昭和三十年代は池田勇人内閣の所得倍増計画が進められて日本全体が重化学工業中心に高度経済成長時代を迎えていた時期でもあった。
腰巻漁の様子
市原の臨海部ではかつて遠浅の海岸を利用したアサリ、バカ貝(青柳が特産地として有名であったため、バカ貝を「あおやぎ」ともいう)などの採取や海苔の養殖が盛んで、五井や八幡では夏になると海水浴場も開かれ、半農半漁ののどかな農村風景が浜伝いに展開していた。
台地上の内陸部では畑作が盛んで薪炭材の切り出しも続いていた。現在、市役所を擁し市の中心部として繁華な景観を持つ国分寺台もかつては山林原野と畑が入り混じる純農村地帯であった。辰巳台、有秋台も同様であり、カブトムシはおろか野兎や野生のリスなどが生息する山林が多く残されていた。
市原は海浜部も含めていわゆる郡部であり、都市的景観から程遠い純朴な農村地帯で占められていたのである。八幡宿や五井、姉崎、牛久、鶴舞などは交通の要衝として町場が古くから形成されていたが、昭和三十年代になっても道路はなかなか舗装されず、町場といえどもひなびた田舎町に過ぎなかった。そうした市原の田舎的景観は海浜部において昭和三十年代後半に一変していった。
その経過を以下、概観してみたい。
千葉県や千葉市は川崎製鉄(現JFE)工場の建設(昭和26年から建設開始)と京葉地域の工業地帯化のために必要とされる電力の供給を求めて昭和26年以来、東京電力に陳情を繰り返してきた。
昭和29年、東京電力は県に対して内湾25万坪を埋め立てて火力発電所を建設したいと正式に申し入れた。発電所の候補地となった蘇我沿岸の漁民二百数十名が埋め立て反対の陳情をするために千葉市役所や県庁に押しかけたが、結局は巨額の補償金と引き換えに埋め立てが実現していった。
この埋め立て成功をきっかけに船橋沿岸の埋め立ても進んでいった。電力供給の目途がついた県は工業地帯の造成に急ピッチで取りかかるようになったのだ。昭和30年には五井・市原海岸の埋め立ても始まり、昭和34年には旭硝子が進出するとともに辰巳台団地の造成も始まった。
辰巳台神社の瑞垣に、当時、埋め立て地へ進出してきた企業名が数多く刻まれている。
※辰巳台の山林原野は大規模な開発によって1960年代、大きな変貌を遂げていた。昭和43年(1968)
に創建された辰巳台神社には当時の国会議員菅野儀作、始関伊平、千葉県知事友納武人、初代市原市
長鈴木貞一など、高度経済成長期を支えた地元の著名人の名がズラリと刻まれている。またチッソ、
昭和電工、宇部興産、大日本インキなど、埋め立て地帯に続々と進出してきた企業名もチラホラ見る
ことができる。同様の開発は若宮、国分寺台、青葉台、有秋台、桜台、光風台と続いていった。
※友納武人(1914~1999)「開発大明神」:広島出身。東大から厚生省に入り、戦後の健康保険制度
を立ち上げる中心となった。1951年、柴田知事に招かれて副知事となり、1963年の加納知事急逝に
ともない、知事選に出馬。以後、1975年まで3選を果たす。副知事時代から東京湾の大規模埋め立て
による開発を推進し、京葉工業地域の礎を築く。しかし三井不動産の江戸英雄とのつながりなど、土
建業界との癒着が噂され、さらには川鉄公害訴訟や成田空港問題も惹起した。知事退任後は1976年か
ら衆議院議員になり、4期務める。1990年に引退。
以後、海岸部の工業地帯化に伴ってその後背地、海に面した台地上には若宮、有秋台など大型団地の造成が相次いだ。国も池田内閣が昭和35年12月に重化学工業政策を重視して京葉臨海地域の埋め立て計画を一挙に3400万坪に拡大し、この動きを強力に後押しした。
県は昭和35年、「五井姉崎、袖ケ浦地区工業地帯造成計画」を策定し、ついに五井南部から姉崎にかけての埋め立てに乗り出した。昭和36年には今津朝山・青柳・姉崎・椎津の各漁業協同組合が補償金と引き換えに漁業権を放棄した。市原沿岸の埋め立てはほぼ昭和37年に完了し、多額の補償金を得た沿岸部では住居の建て替え、新築が相次いだという。川崎などでは市原からの客は当時、「五井様」と呼ばれて金離れの良い上客扱いだったようだ。
※ 柴田等(1899~1974):宮崎県出身の農林官僚(京都大学卒)。1947年、旧知の間柄であった川
口為之助が千葉県知事となると農業再建を掲げた川口に招かれ、副知事となる。1950年、川口の辞任
に伴う選挙で知事に当選。以後三期務める。農業再生とともに川崎製鉄の誘致を実現させ、京葉工業
地域の基礎を築く。後に知事となる友納武人を副知事に招く。やがて工業化を急ぐ川島正二郎、水田
三喜男らが農林官僚出身の柴田を農業派と断じて批判し、対立を深める。柴田が漁民の生活を案じて
東京湾埋め立ての推進にブレーキをかけると川島らは強く反発。このため1962年、柴田は自由民主党
から除名され、次の知事選には公認されなかった。川島らは上総一宮藩の最後の藩主の子加納久朗を
推し、知事に当選させた。しかし加納は1963年2月、任期110日にして急死する。
大企業の進出も相次いだ。昭和36年に古河電工、富士電機、昭和37年に三井造船、東電五井火力、昭和電工、昭和38年には丸善石油、出光興産、昭和39年に丸善石油化学コンビナート、昭和40年に不二サッシ、昭和42年には三井石油化学コンビナート、東電姉崎火力などが進出している。
京葉工業地帯の形成で遠浅の浜は一変した。その一角を占める市原市は工業製造品出荷額(4兆円弱)で県内トップクラスの工業都市である。
なお日本全体が今、人口停滞期に入りつつあるが、市原市では既に1995年頃から人口が停滞している。市内に流入してくる人が減少してきたのがその大きな理由。
市制移行から50年、人口は3倍近くに増え、都市的景観が市原の各地に拡大した。近年の都市区画整理事業によって町並みは一新され、かつての面影はなくなる一方である。他方で公害や交通事故の多発、ゴミ処理問題、治安の悪化等、都市化に伴う難問も山積している。
若い世代であふれていた団地族もいまやひどく高齢化し、躍進を続けるだけのパワーが残っているのかどうか…きわめて怪しくなってきた。私達は一体、どこでどう間違ってしまったのか…ボタンのかけ違いがあるとすればそれはいつのことだろう。
足元を見つめなおすとすれば原点はおそらく生活革新が叫ばれた高度経済成長期に求められるだろう。ただの懐古趣味ではなく、今後の市原、さらには日本の行く末を考えるためにも、もう一度あの頃をしっかりと見つめなおしてみたい。
1966年7月撮影。複線化工事中の養老川鉄橋。なお路線名は1972年に房総西線から内房線に改称。